3話 酔ってればいいんだろ?
翌朝。
私は定時より少し早く出社し、昨日やり残した作業の続きをしようと席についた。
「……」
ない。
昨日、慌ててまとめて紙袋に詰め込んだ資料が、まるごと見当たらない。
――あ!
そうだ。
帰り際、作業していたテーブルの下に置いたままだった。
思い出した私は、慌ててエレベーター前のテーブルへ向かう。
「あれ?」
ない。
「ちょ、おかしいな……」
テーブルの下。
周辺の棚。
近くの椅子。
思いつく場所を全部探してみる。
けれど、ない。
探しても。
探しても。
見つからない。
そうしているうちに出勤時間になり、社内が少しずつざわつき始めた。
その中に、西嶋先輩の姿を見つける。
「あの、昨日のっ……」
思わず呼び止めたものの。
――資料、知りませんか?
なんて聞いたところで、知っているはずがない。
「……いえ、なんでもないです。昨日はありがとうございました……」
そう言って引き下がろうとすると、西嶋先輩が足を止めた。
「何かあった?」
「あ、いえ」
「もしかして、昨日ここに置いてた紙袋ない?」
「どっ、どうしてそれを」
「捨てられたんじゃない?」
「は?」
「朝、清掃業者入るから」
そっ。
そんな!
「じゃっ、じゃあ……」
「下にあるゴミ置き場に行ってみたら」
……ゴミ置き場!?
どこだろう。
本社勤務になってまだ日が浅く、勝手が分からない。
「あ、あの、それはどこに……!?」
「外の駐車場の――」
言いかけて、先輩が小さく息を吐いた。
「ああ、いい。ついてきて」
そう言うと、先輩は総務課へ立ち寄って鍵を借り、そのままビルの外にあるゴミ置き場へ向かった。
ガチャリ。
鍵が開く。
そして扉の向こうにあったのは――
ゴミの山。
うっ。
これ、全部開けるの……?
思わず立ち尽くしていると、
「早く!」
「えっ?」
「そんなとこでボサッとしてないで、早く!」
西嶋先輩は目の前のゴミ袋を一つ持ち上げ、私の前へドサッと落とした。
そして自分も無言で袋を開け始める。
……調子が狂う。
口調はぶっきらぼうなのに。
やっていることは、優しい。
そういうの、ずるい。
会話もないまま、私たちは黙々と袋を開けていく。
先輩の方が、明らかにペースが速い。
一つ。
また一つ。
けれど、なかなか見つからない。
もしかして。
ここにはないんじゃ……。
だんだん不安になってきた、その時。
「あ、これじゃない?」
「……それ! それです!」
あった!
先輩から紙袋を受け取り、中身を確認する。
間違いない。
全部入っている。
「ありがとうございます! 助かりました!」
私がそう言うと。
「俺が昨日急かしたから。ごめん」
意外な言葉が返ってきた。
「私の不注意ですから。私の方こそ、何から何までご面倒おかけしてすみませんでした」
本当に良かった。
これを最初からやり直すなんてことになったら、それこそ寝る時間までなくなるところだった。
「すみません、何かお礼を……」
「いらないから」
先輩は短くそう言うと、そのまま急いで事務所へ戻っていった。
残された私は、その背中を見送る。
もしかして。
忙しいのに、わざわざ手伝ってくれたのかな。
◇
三日後。
店長会を無事に終えた私たちは、そのまま打ち上げの店へ向かっていた。
「文香さんって、綾野さんと付き合ってるんですよね?」
部下が、うふふ、と楽しそうに笑いながら絡んでくる。
「どちらから付き合おうって言ったんですか!?」
どこから湧いてきたのか、気づけば私の周りに人だかりまで出来ていた。
「私も聞きたい!」
「馴れ初め知りたい!」
社内恋愛というのは、どうしてこう皆の興味を引くんだろう。
飲み会のたびに、ほぼ必ずと言っていいほど私はこうして同僚たちに絡まれる。
けど。
正直、話すのが面倒。
どこか静かな場所へ避難したい。
そう思った私は、同僚の葉山を誘って人混みを抜け、端の席へ移動した。
葉山と向かい合って話していると、竹森さんと西嶋先輩もやってきた。
「こんなところに自分たちだけ逃げてー」
竹森さんが葉山の隣へ腰を下ろす。
そして西嶋先輩は、私の隣に座った。
「あっちで結構飲まされちゃったわよ。ねえ、西嶋君」
「もう限界ですね」
そう言う割に。
いつもの無表情と、ほとんど変わらない。
「酔ってるんですか?」
「酔っても顔に出ないんだけど、こう見えて弱いのよ、西嶋君は」
竹森さんが、ふふ、と笑う。
葉山は西嶋先輩が苦手だからか、興味なさそうに、
「へぇ」
とだけ返した。
無愛想な男だけれど。
顔がいいせいか、先輩の周りには私とは違う意味で人が集まる。
さっきまで女性社員に囲まれていたのも、そのせいだ。
「西嶋君、彼女いるのにモテモテだよね」
竹森さんが笑う。
「えっ! 彼女いたんですか!?」
葉山が驚いて声を上げた。
「いるわよ。こんないい男だもの」
「いい男……ですね」
葉山が苦笑いする。
嫌いなの、顔に出すぎ。
そっか。
彼女、いたんだ。
まあ。
私だって彼氏がいるし。
そりゃ、先輩にもいるよね。
当たり前のことだ。
なのに。
何も言わず、微かに肩を揺らしている先輩を横目で見ていると。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
……なんでだ。
そう思った、その時だった。
突然。
先輩の手が、私の手のひらを包んだ。
次の瞬間。
指が、絡まる。
――え?
「でも、無事に終わって良かったわー」
「本当にお疲れさまでした」
竹森さんと葉山の会話は、そのまま続いている。
繋がった手は、テーブルの下。
二人とも、気づいていない。
ぐっ、と。
西嶋先輩が、さらに指先へ力を込めた。
そして。
「酔ってればいいんだろ?」
小さな声で、そう言った。
『酔ってればいいんだろ?』
それは一体。
どういう意味だ。
私はそれほど飲んでいなかった。
だから酔いのせいにすることもできず、その後は竹森さんと葉山の会話に相槌を打つだけで精一杯だった。
当の本人は。
酔っていると言うわりには顔色一つ変えず、二人の会話をそ知らぬ顔で聞いている。
それにしても。
絡まった指先が。
……熱い。
何度か、そっとほどこうとした。
でも、力が強くて抜けない。
心臓がどんどん速くなる。
身体まで熱くなってくる。
こんなの。
誰かに見られたら――。
「あー、西嶋さん。こんなところで飲んでる。隣いいですかー?」
数人の店長たちが、西嶋先輩を追いかけるようにこちらへやってきた。
マズイ。
あれは関西エリアの店長たちだ。
「あーっ!! 桐谷さんがいる!」
嫌な予感しかしない。
「ずるいですよー。綾野さんって彼氏がいるのに、西嶋さんまで取らないでくださいよ」
いや。
違うから。
「そんなことしないよ」
そう言いながら、私はもう一度絡まった指を抜こうとした。
……む、無理。
「でも綾野さんって、ほら」
彼女たちがクスクス笑う。
「ちょっと、感じ悪いよ。アンタたち」
葉山が割って入った。
「いくら酒の席だからってねー。綾野が女癖悪いの笑ったら文香に失礼でしょ」
「ちょ、……葉山」
葉山が一番ひどい。
「女癖悪いの? 綾野」
珍しく先輩が会話に食いついたと思ったら。
そこですか。
「悪いよ。って言ったんですけどねー」
誰に言ったんだよ。
私が心の中で突っ込んだ、その瞬間。
「あー、カエデちゃん?」
――え?
先輩が「カエデちゃん」と口にした途端。
一人の店長が、
「えー!! 西嶋さん、なんで知ってるんですか、それー!?」
と大声を上げた。
そして直後。
私を見て、口元を手で覆う。
「ちょっと、……西嶋さん」
私が睨むと。
「酔ってたわけじゃ、ないみたいだな」
先輩は、どこかしたり顔でそう言った。
そこでようやく。
握っていた手の力が緩む。
私は勢いよく手を引き抜いた。
さっきまで手のひらにあった熱が、急になくなる。
それが妙に気になって。
私は、自分の手をぎゅっと握りしめた。
綾野君が浮気性なのは。
最初から気づいていた。
付き合う前から、綾野君は色んな女の子に調子が良かった。
……私と付き合う時だって。
言葉は軽かった。
でも。
私にはそれくらいが、ちょうど良かった。
恋愛に縛られるのも。
誰かを縛るのも。
深く、のめり込むことも。
私は苦手だったから。
「すみませーん! そろそろ時間になったので!」
遠くで幹事が叫ぶ。
その声のおかげで、
「じゃあ、またー」
と、先輩に群がっていた女性たちは散っていった。
「ねぇ、文香さ。いい加減怒った方がいいよ。綾野、ちょっと調子に乗りすぎ」
「うーん、まぁ。いつものことだろうから……」
「ねぇ。ホントに綾野のこと好きなの?」
酔っているせいか。
今日はいつも以上に、葉山が容赦なく問い詰めてくる。
「そういうんじゃないでしょ。付き合うのって」
「なにそれ。綾野のこと好きで付き合ってるわけじゃないって聞こえるよ、文香」
長く続けるなら。
お互いに干渉しすぎないこと。
不満がないのかと言われれば。
もちろん、ないわけじゃない。
でも。
何が正しくて。
何が間違っているのか。
もう、自分でもよく分からない。
いないより。
いた方がいい。
その程度の感覚なのかもしれない。
「綾野は、桐谷の気を引きたいだけなんじゃない?」
突然、西嶋先輩がそう言った。
「まさか!」
葉山が笑い飛ばす。
「アイツの女癖の悪さは、入社した時からずっとですよ? 知ってます?」
葉山は勢いそのままに続ける。
「綾野、研修中のホテルで夜中に女の子の部屋にいたのが見つかって、朝まで正座させられてたんですよ?」
「知ってるよ。見つけたの俺だから」
「ええー!?」
ええー!
思わず、私まで驚く。
「若いうちは仕方ないんじゃない。男なんか」
意外だ。
先輩が、そんなことを言う人だったなんて。
……というより。
こんなに話す人だったんだ。
ぽかんと口を開けて見ていたからだろうか。
急に睨まれた。
「……何?」
「あ、いえ」
店の前で解散し。
私たちは宮益坂から渋谷駅へ向かい、ぞろぞろと列になって歩いた。
最後尾をだらだら歩いていたせいで、いつの間にか先頭の集団とはずいぶん離れていた。
井の頭線に乗る竹森さんと葉山とは、マークシティの前で別れる。
そして。
残ったのは私と、西嶋先輩だけ。
「桐谷」
「はい」
「悪いんだけど、タクシーで帰っていい?」
「あ、どうぞどうぞ。私は地下鉄で帰るんで」
「乗ってけばいいだろ。近いんだから」
「あ、……はい。じゃあ今日は私がタクシー代出しま――」
「いらないから」
そう言って、先輩はタクシーを拾った。
そして。
また私を先に押し込む。
「よ、酔ってます……よね?」
「酔ってるよ」
パタン。
ドアが閉まる。
窓の外。
繁華街の光が、少しずつ遠ざかっていく。
そして。
先輩はまた、何も言わずに私の手を握った。
「……あの」
「黙ってて」
「でも、これ」
「桐谷の指ってさ」
「……はい」
「細すぎて、折れそう」
何だろう。
これ。
「いや、そうじゃなくて」
テンパりながら必死にそう返した時には。
先輩はもう、気持ち良さそうに寝息を立てていた。
絡まった指先は。
ぎゅっと。
私の指を握ったまま。
「……彼女いるくせに」
小さく呟く。
……あ。
私もいたんだった。
でも。
綾野君に比べたら。
手を繋ぐことくらい、子どものままごとみたいなものなんだろう。
そう思おうとする。
けれど。
何年も経ってから握る西嶋先輩の手は。
否応なく、あの頃を思い出させた。
初めて手を繋いで歩いた。
学校からの帰り道。
繋いだ手をどうすればいいのか分からなくて。
ぎこちなく歩いていた、あの時の感覚。
忘れていたはずなのに。
鮮明に蘇る。
不思議だ。
あの頃と同じくらい。
胸が高鳴っている。
そんな記憶を掘り起こしているうちに。
タクシーは、西嶋先輩のマンション前に停まった。
「西嶋さん。着きましたよ?」
「……ん」
眠そうな。
少し掠れた声。
目をこすりながら、ぼんやりと私を見る。
「着きましたよ」
「え、ああ」
財布を取り出そうとした先輩に、
「もう払いましたから」
と伝える。
二人でタクシーを降りた。
「ごめん。いくらだった?」
「大丈夫です。先日に比べたら安いですから」
「じゃあ、お言葉に甘えるよ」
そう言うと。
千円札を一枚、私へ差し出してきた。
全然、甘えてない。
「だから、いらないですってば」
「乗ろうって言ったの、こっちだし。受け取って」
「……じゃあ……」
結局。
また先輩に押し切られた。
「ありがとう。おやすみ」
「あっ、こちらこそ。お疲れさまでした」
私は軽く頭を下げる。
すると。
「……送ろうか?」
「……は?」
「って、すぐそこだし大丈夫か。お疲れ」
そう言って。
西嶋先輩が。
無邪気に笑った。
私はその場で、完全に固まる。
そのまま先輩はエントランスの向こうへ消えていった。
え?
私の頭の中に、いくつもの疑問符が飛び交う。
手を繋いだこと。
私の家の場所を知っていたこと。
そして最後に。
笑って、
『送ろうか?』
と言ったこと。
なんで?
――ああ。
そっか。
酔ってる、って言ってたもんな。
そうだ。
先輩は。
昔は、そんな人じゃなかったけれど。
何年も経った。
人は変わる。
きっと。
それだけのことなんだろう。
深く考えるようなことじゃない。
……たぶん。




