2話 浮気性な今彼と元彼
「ねえ、アンタの彼、また浮気してるってよ?」
昼休憩中。
向かいに座っていた同僚が、面白がるように笑いながら私の腕をつついた。
場所は都内の百貨店、その社員食堂。
今日は百貨店のイベントがあるため、終日本社ではなく売り場で販売業務に入っている。
「あ、そう」
「『あ、そう』って。アンタの彼氏でしょ?!」
「まぁ、仕方ないよ。私が相手できてないんだから」
「うっわー。冷めてるね。大丈夫?! そんなんで」
大丈夫って、何が?
彼氏が浮気性なこと?
別に浮気は浮気で、本気じゃないならいいんじゃないかと思う。
「別れてって言われたら、別れるもん」
「何で付き合ってるの?!」
「……なんでって、優しいから」
「文香だけに優しいんじゃなくて、女全部に優しいんでしょ! アイツは!」
呆れたように言われ、私は曖昧に笑った。
八割が女性というこの職場では、男というだけで問答無用にモテる。
大げさに聞こえるけれど、実際そうなのだから仕方がない。
それくらいアパレル販売員という仕事には、出会いがない。
休みは不規則。
土日祝日は仕事。
繁忙期ともなれば朝から晩まで店にいる。
結局、身近な人間同士で付き合うことになる人は多かった。
そんな環境だからなのか。
浮気性の彼を好きなように泳がせているからなのか。
なんだかんだで、私たちは二年も続いている。
私は束縛するのが好きじゃない。
――無関心。
そう言われてしまえば、それまでかもしれないけれど。
自分が相手をどれだけ好きか。
そういうことよりも、相手から求められたら、それに応える。
私にとって恋愛は、その方が楽だった。
もちろん。
それでいいとは思っていない。
恋愛って、難しい。
考えても答えの出ない恋愛ごとより、今は目の前の仕事に取り組みたい。
そうやって仕事だけに没頭してきた結果、私は店長に昇格し、それなりに結果も残した。
一店舗だけではない。
都内の主力エリアの管理まで任されるようになり、入社四年目にして販売部の役職者になった。
恋愛に向き合うことを後回しにして。
仕事だけは前へ進んだ。
そして待っていたのは、本社への異動。
いち販売員だった私は、複数店舗を取りまとめる責任者になった。
その本社にいたのが――高校時代の元彼、西嶋先輩だった。
今になって、昔の彼氏が上司として目の前に現れる。
今の彼氏は浮気性。
私は仕事に集中したい。
なのに、どうしてこう恋愛絡みの小さな面倒ばかり増えていくんだろう。
同じ会社に、『今彼』と『元彼』が共存している。
終わった恋。
そして、
終わってもかまわない恋。
どちらも今の私の人生には、どうでもいい。
――そう思っていた。
「そういやさ、来週の店長会議なんだけど」
「あー。秋物か、もう」
「あれ、仕切り西嶋さんなんだって」
「……へえ」
「私、苦手なんだよね、あの人。あんなんでよく営業なんてしてるよね」
元彼なだけに、そういう話を聞くと、なぜか胸の奥が小さく痛む。
西嶋先輩は、とにかく愛想がない。
気難しくて、人を寄せつけない。
誰に対しても必要以上に話さないし、ほとんど笑わない。
高校時代は、あんな人じゃなかったと思うんだけど。
記憶の奥にしまいこんでいた、高校時代の『彼』の顔を思い出す。
――チクリ。
痛い。
過去を思い出すと、身体の内側に小さな棘でも刺さったように、胸の奥がじくじくと疼く。
その原因が何なのか。
もちろん自分では分かっている。
ただ、そんなものは大したことじゃない。
そう思って、今まで過ごしてきた。
……やだな。
やっぱり。
元彼なら、西嶋先輩以外にだっている。
なのに、どうしてあの人を見る時だけ、こんなにも昔の感情に振り回されるんだろう。
恋心じゃない。
まだ未熟だった頃の自分の失態を思い出してしまうから。
ただ、それだけだ。
誰にだって後悔の一つくらいある。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
もうすぐ閉店だと思っていた矢先、本社へ戻ってくるよう連絡が入った。
私は売り場を出て、地下鉄に乗る。
電車に揺られながら、ふと西嶋先輩と再会した日のことを思い出した。
――あれは、まだ私が本社に配属される前。
常務が店舗巡回で、当時働いていた店にやってきた時のことだった。
「お疲れ」
いつものように笑顔で現れた常務。
その後ろに控えめに立っていた人物に、私は最初まったく気づいていなかった。
「ああ、そうだ。今度こいつを俺の後釜にしようと思っててな。うちの店が入ってる百貨店を回ってるんだよ」
常務にそう紹介され、私は初めてその人物を見た。
そして、息を呑んだ。
「西嶋です。よろしく」
愛想のない、短い挨拶。
だから私も、知らないふりをした。
「よろしくお願いいたします」
それだけ。
それだけの再会だった。
お互い、それなりに歳を重ねた。
あの頃の、まだ瑞々しかった肌や幼さなんて、もうどこにも残っていない。
それでも。
そう簡単には変わらない顔立ちと。
何より、その声が。
思っていた以上に、私の心を揺らした。
できれば、再会なんてしたくなかった。
その後しばらく顔を合わせることはなかったけれど、やがて私に本社への異動辞令が出て、今に至る。
幸いなことに、これまで西嶋先輩と直接関わる仕事はほとんどなかった。
そんなことを考えているうちに、地下鉄は目的地に着いた。
地上へ上がると、夕暮れの表参道にはすでに街灯が灯っている。
原宿方面へと連なる光を背に、私は会社へ向かった。
「戻りました」
「あ、お疲れさま。ごめんね。来週の店長会の準備なんだけど、人手が足りないのよ」
「いつものことですね」
私の上司である竹森さんが、慌ただしくテーブルの上を片づけている。
「生産部の子を呼んでおいたから、納品別に商品並べて。あと各店舗のフェアの日時と予算を取りまとめないと」
「スタイリング通りに納品されるんですかね」
「それは、詰めてもらいましょう」
どこも人手不足なのは同じだ。
私たちは店舗で販売をしながら、本社業務も抱えている。
やることはいくらでもある。
「何でも屋ですね」
あたふたしている竹森さんを見て笑うと、
「もう。いつか貴女も笑ってられなくなるんだから」
と、愛嬌たっぷりの笑顔で怒られた。
疲れていても、竹森さんはいつだって笑顔だ。
洋服を選ぶ楽しさ。
その洋服で、お客様が幸せになること。
買って良かったと思ってもらえるよう、私たちがベストな状態でお手伝いすること。
綺麗事に聞こえるかもしれない。
けれど、売上だけを追いかけていたら、この仕事はきっと長く続かない。
その基本にあるのは、私たち自身の笑顔なのだと思う。
「貴女の笑顔は、とても素敵だって」
そう言って、まだ新人だった私を褒めてくれたのも、当時関東エリアを担当していた竹森さんだった。
「お疲れさま。来週月曜日の定例会のあとだけど、大丈夫そうですか?」
突然聞こえた声に、私は顔を上げた。
西嶋先輩だった。
明日の金曜夕方は、仕事帰りのOLのお客様が立ち寄るピークタイム。
接客業に土日はほとんどない。
となると、店長会議の準備ができるのは今日しかない。
だから焦った竹森さんが、私を売り場から呼び戻したのだ。
「なんとか、かな。西嶋君も手が空いてたら手伝ってよ」
「今から商談で銀座に行くんで」
「あー、そう。じゃあしょうがないか」
竹森さんはあっさり諦める。
「お疲れさまです」
通り過ぎる西嶋先輩にそう声をかけたものの、返事はなかった。
まぁ、誰にでもああだけど。
どうして、あんなに笑わないんだろう。
「西嶋君も、もうちょっと愛嬌の一つも使えたらねえ」
「ほんとですね」
同じことを考えていたので、思わず笑ってしまった。
「あら、珍しいわね」
「はい?」
「大抵、西嶋君の名前を出すと不満続出なのに。ひと笑いで済ませられるの、桐谷さんくらいよ? 顔はいいのに、評判良くないわよね」
「そうですね」
乾いた笑いしか出てこない。
ほんの数年前までは、笑っていたのに。
――って。
そんなこと、私には関係ない。
すでに時間は残業タイムへ突入していた。
作業を手伝ってくれていた生産部の二人が、突然「納期に間に合わない」と慌て始める。
「どれが間に合わないんですか?」
商品がないのに、ビジュアルなんて組めるわけがない。
不安になって竹森さんを見ると、本人はいたって落ち着いていた。
「桐谷さん……」
「大丈夫。いつものことだから」
「……え。いつもなんですか……」
「いつも、どうにかなるのよ。さ、あっちは任せておいて、私たちは一度休憩しま――」
その時だった。
竹森さんのスマホが震えた。
画面を見た瞬間。
それまで絶えなかった竹森さんの笑顔が、消えた。
次の瞬間、大きな声をあげた竹森さんに、私まで身体をびくつかせる。
「ちょっと、すぐ戻ってくるから!」
そう言い残すと、竹森さんは会社を飛び出していった。
残された私は状況が飲み込めないまま、移動中の竹森さんから送られてきたメッセージを確認した。
『誰かに頼んで手伝ってもらって』
……誰かって誰。
仕方なく同期に電話をする。
「ね、竹森さんがなんか大変みたいで。手伝ってもらえって……」
『えっ、無理。私、明日も朝番なんだよー』
「……だよね」
大きなブランドならまだしも、会社の中でも規模の小さいうちのブランドは、とにかくスタッフが足りていない。
手伝ってくれていた生産部の人たちも、自分たちの仕事があるらしく、早々に戻っていった。
嘘だぁ。
ミーティングテーブルに散らばった、何一つまとまっていない資料を前に、私は時計を確認した。
二十二時五十六分。
終電は零時三十七分。
あと一時間半あると思うべきなのか。
いや。
絶対、余裕で間に合わない。
最悪、タクシー。
もちろん自腹。
フロアに残っていた他部署の人たちも、「終電までには」と次々帰っていき、気づけば私一人になっていた。
誰か一人くらい、
『手伝おうか?』
って言ってくれてもよくない?
静まり返ったフロアで、仕方なく一人黙々と作業を続ける。
すると。
ウィーン、とエレベーターが動き出した。
こんな時間に誰?
まさか。
ゆ、幽霊!?
思わず息を止める。
やがて扉が開き、中から出てきたのは――
なんと、西嶋先輩だった。
無表情のまま、まっすぐ私の方へ歩いてくる。
な、なんだろう……。
思わず身構えて凝視していたけれど、先輩は私を無視するように、そのまま横を通り過ぎた。
え?
そのまま奥にある席へ向かい、腰を下ろす。
そして何事もなかったかのように、静かにパソコンを開いた。
何しに戻ってきたんだろう。
……まぁ、いっか。
あと一時間以内には終わらせよう。
そう思って、私は再び作業に戻った。
西嶋先輩と二人きりという状況には、少しぎこちなさを覚える。
それでも、不思議だった。
一人でフロアにいた時の心細さは、いつの間にか消えていた。
ようやく作業の見通しが立ち、時計を見る。
……二時。
完全に終電どころではなかった。
私は思わず、西嶋先輩の方をちらりと見る。
「終わった?」
視線に気づいた先輩が、そう呟いた。
静まり返ったフロアでは、それほど大きな声を出さなくてもよく聞こえる。
「な、なんとなくは終われそうです」
「そう」
そう言うと、先輩はパソコンを閉じた。
そして立ち上がる。
私の横を通り過ぎ、そのままエレベーターの方へ向かっていった。
すると突然。
パチ。
パチパチ、と。
フロアの照明が順番に消え始めた。
「え?」
入口を見ると、西嶋先輩が電気を消している。
「帰らないの?」
「へ?」
「もう充分待ってやっただろ」
「え?」
待って……?
「タクシー、乗らないならいいけど」
え。
えっ?
どんどん照明が落とされていく。
私は慌てて、机の上に散らばった資料をまとめた。
紙袋に詰め、テーブルの足元へ置く。
それから席へ戻り、バッグを掴んで西嶋先輩のもとへ駆け寄った。
静まり返ったフロアに、自分の息遣いだけが響く。
「いい?」
――え?
いいって……何が?
次の瞬間。
フロアが真っ暗になった。
突然の暗闇に、身体が固まる。
静寂の中。
私は息をすることすら忘れて、西嶋先輩の次の言葉を待った。
「……して」
「は!?」
「押して。エレベーターのボタン」
「あっ、すみません」
なんだ。
そっちか。
なかなか来ないエレベーターを待つ時間が、妙に居心地悪く感じる。
というか。
そもそも、一緒に会社を出る必要ある?
……って、あれ?
一緒にタクシーで帰るために待ってくれていた。
勝手にそう思い込んでいたけど。
本当にそうなのかな。
そんなことを考えていると、エレベーターの扉が開いた。
突然の光に、目を細める。
そして。
思っていたよりすぐ近くに西嶋先輩が立っていたことに気づき、驚いて一歩離れた。
「何してんの?」
「や、……別に」
怒られているわけでもないのに、なぜか萎縮してしまう。
エレベーターに乗ってからも、会話はない。
視線のやり場に困り、私は階数表示を眺めた。
話すことがない。
向こうも何も話さない。
会社を出て、大通りへ出る。
沈黙に耐えられなくなり、私は仕方なく口を開いた。
「……あの」
「何?」
「もしかして、最近引っ越しました?」
「ああ」
「それって」
「三宿だけど」
「あ、私も……」
「そう」
……あれ?
知らなかったの?
私はてっきり、近所だと知っているから待っていたんだと思っていた。
西嶋先輩は表情一つ変えず、片手を上げてタクシーを停めた。
「西嶋さん、お先にどうぞ」
開いたドアへ手を差し出す。
上司より先に乗るわけにはいかない。
それに。
できれば別々に帰った方が、私は気が楽だ。
そう考えて乗るのをためらっていると、
「いいよ。先に乗って」
「え」
「ほら」
背中を軽く押され、仕方なく先に乗り込む。
「あ、あの」
「すみません。三宿までお願いします」
西嶋先輩も隣へ乗り込み、タクシーが走り出した。
そしてまた。
沈黙。
私は西嶋先輩の方を見ないよう、窓の外を眺める。
「……」
何か話そうにも、話題がない。
どうにかこの空気をどうにかできないかと言葉を探しているうちに、まだお礼を言っていなかったことを思い出した。
「あの。ありがとうございました」
「何が?」
「え、と。待っていてくださっていたのでは……」
「待ってない」
「そ、そうですか……」
待ってなくてもなんでもいい。
そこは社会人なら社交辞令で、
『いえいえ』
とか言うところじゃない?
別に話さないなら話さないでいい。
けれど、社会人として最低限の会話くらいした方がいいような気がする。
私は懲りずに、もう一度口を開いた。
「いつ、引っ越して来たんですか?」
「それ聞いてどうすんの?」
なっ。
なんなんだ、この人。
せっかく私なりに頑張っているというのに。
「……世間話です」
「あ、そう」
おかしいな。
こんなムカつく人だったっけ。
昔すぎて、ほとんど覚えていない。
「じゃあ、まぁ、いいです」
そんなに話したくないなら、別にいい。
この人と付き合っていたなんて、何かの間違いだったんじゃないだろうか。
そう。
付き合っていた。
そして、別れた。
その人が、今は私のすぐ隣にいる。
昔の彼とは、まるで別人みたいだ。
この人は。
私の知っている人じゃない。
やがて道が混み始め、タクシーが進まなくなった。
動かない景色。
相変わらず続く沈黙。
ため息でもつこうとした、その時。
私と西嶋先輩の間で、スマホの着信音が響いた。
「鳴ってるけど」
「すみません……」
誰?
バッグからスマホを取り出し、画面を見る。
表示されていたのは、
【綾野宏基】
私は一度スマホを見つめ、そのままバッグに戻した。
「出れば?」
「いや……タクシーの中だと声がうるさいですし」
「いいけど、別に」
「……」
まだ鳴り続けている。
仕方なく、私はもう一度スマホを手に取った。
「もしもし?」
『あ、カエデちゃん?』
……誰ですか、それ。
私、文香ですけど。
「……違いますけど」
『嘘だー。カエデちゃんでしょ?』
一体、何の嫌がらせだ。
私の彼氏は、こんな夜中にどちらのカエデちゃんへ電話をかけるつもりだったんだろう。
たぶん、酔っている。
そう思って諦めた私は、電話を切った。
「間違い電話でした」
「違うでしょ」
「……私、文香ですし。カエデちゃんじゃないので」
その時。
「……っ」
堪えるような音が隣から聞こえた。
見ると、西嶋先輩が片手で顔を覆っている。
もしかして。
「笑ってます?」
「……ちょっと待って……っ」
「笑うところじゃないですよ?」
肩まで震わせている先輩を見ているうちに、その姿が妙に懐かしく思えてきた。
気づけば、私までつられて笑っていた。
笑うところ、絶対ズレてるとは思うけど。
なんだ。
ちゃんと笑うんじゃん。
「今の、綾野?」
「……え?」
「声で分かる」
「あー……」
何と答えればいいのか分からず、言葉に詰まる。
「まぁ、……はい」
別に隠すことでもない。
私と綾野君が付き合っていることは、社内でもそれなりに知られている。
西嶋先輩が知っていたっておかしくない。
「いいの?」
ついさっきまでの笑顔は消えていた。
先輩が冷めた目で私を見る。
「何がですか?」
「……別に」
なに、それ。
「いいんです。きっと酔ってるし」
「酔ってればいいんだ」
なんだ、なんだ。
急につっかかってくる。
「そうじゃなくて」
「そうやってまた、好きでもないやつと付き合ってんの?」
「なっ……!」
その言葉に反応するより早く、運転手さんが声をかけてきた。
「お客さん、三宿の交差点通り過ぎちゃいますけど、どうしますか?」
急に話しかけられ、頭がうまく回らない。
「どうする?」
「へっ?」
どっ。
どうするって。
何が?
「あっ」
そっか。
ようやく意味を理解する。
「ど、どうぞ、お先に」
西嶋先輩は横目で私を見ると、
「あ、そう。じゃあ、このまま真っすぐ行って、交差点を右でお願いします」
……え?
タクシーは交差点を越え、すぐに停車した。
「じゃ、これ」
西嶋先輩はお釣りが出る額の札を運転手へ渡し、そのまま先に降りる。
「やっ、これ! 多いです……!」
私の声に振り向きもしない。
先輩は足早に、大通り沿いのマンションへ入っていった。
「お客さん、どこまで行くの?」
「……私も、ここでいいです……」
残りの料金を支払い、私もタクシーを降りた。
……こんなに近くだったなんて。
西嶋先輩が入っていったマンション脇の道を進み、わずかワンブロック。
私はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、自宅へ帰った。
どうして、こんな近くに住んでいるのか。
本当に、私が近所に住んでいることを知らなかったのか。
気になることはいくらでもある。
でも。
ああ、もういいや。
考えたところで仕方ない。
過去、私たちが付き合っていたことを。
西嶋先輩は今、どう思っているんだろう。
そんなことを考えながら、私はバスルームへ向かう。
その時。
さっきの言葉が、頭の中に蘇った。
『そうやってまた、好きでもないやつと付き合ってんの?』
――また?
また、って何?
付き合っていたことなんて、最初からなかったみたいな顔をしているくせに。
どうして、あんな言い方をしたんだろう。
思っていた以上に、その言葉は胸に刺さっていた。
好きじゃないわけじゃ……。
……どうなんだろう。
確かに。
綾野君とは、惰性で付き合っているのかもしれない。
このまま結婚したいとか。
ずっと一緒にいたいとか。
そんな未来を、具体的に考えたことはない。
考える時間がない。
そう言ってしまえば簡単だけど。
そんなものが言い訳だってことも。
本当はただ、向き合うことから逃げているだけなのだということも。
私は、ちゃんと分かっていた。




