幕間 西嶋ーー回想
──少し、時間を遡る。
綾野とあの飲み会で話すよりも前。
俺がまだ、茜と子供を支えることが自分の選ぶべき道だと、本気で思っていた頃のこと。
「パパみたい、って言ったのは、そういう意味じゃないよ」
俺が「パパになるんだろ? 俺」と言ったあと。
茜は濡れた瞳を細めて、少しだけ笑った。
「明人といると、家族以上に安心感があった」
「……」
「でも、それって。ただ甘えてるだけだったんだね」
弱い声で、申し訳なさそうに茜が言う。
その言葉は、俺の中にも小さく響いた。
「お互いに、そうだったのかも」
「明人は、頼り甲斐あったよ」
「そりゃどうも」
ゆっくりと。
長い年月の答え合わせをするように、二人の会話が交差していく。
「怖かった」
「……」
「自分がしてることが悪いってわかってたから。怖くて、迷って……頼るところ、間違えたね」
茜はそう言うと、丸みを帯びたお腹を優しく撫でた。
「でも、日に日に誰にも言い出せなくなっていくのに……このお腹の子が、どんどん愛しくなって」
「そうだな」
「それなのに、どうして私ばっかりって……思っちゃって」
ごめんね、と。
俯いた茜の身体が、小さく見えた。
「思い浮かんだのが、明人だけだったの」
「……」
「絶対、助けてくれるって。自分勝手なこと考えた」
「茜」
「でも……明人は、本当に私のこと助けてくれちゃうから」
そこで茜が顔を上げる。
さっきまでとは、少し違う顔をしていた。
「目が覚めたよ」
「……」
「巻き込んで、ごめんね」
何も言えなかった。
大丈夫だ、と言うのも違う。
気にするな、と言えば嘘になる。
軽はずみな同意は、どれも安っぽく感じた。
「ごめんな」
「……何が?」
「力になれなくて」
「充分」
即答だった。
覚悟はあった。
茜と家族になる覚悟も。
この子を自分の子供として育てる覚悟も。
それは確かだった。
「ね、明人」
「うん」
「……何でもない」
そのあと茜が何を言おうとしていたのかは、わからない。
俺は茜と一緒にウィークリーマンションを出た。
冷たい風が、建物の間を吹き抜ける。
「こってり怒られてくる」
茜が苦笑しながら手を振った。
実家へ戻るつもりらしい。
「一緒に──」
行こうか。
そう言葉が出そうになった、その時。
「またそうやって甘やかす」
茜が先に言った。
「好きじゃないくせに」
「……」
「でも、お互い様だったね」
茜は笑った。
いつしか。
俺たちは、恋心をなくしていた。
いや。
最初からそんなものがあったのかさえ思い出せないほど、長い月日を一緒に過ごしてきた。
駅へ向かって歩いていく茜の背中が、少しだけ寂しく見えた。
俺も歩き出してから、一度だけ振り返る。
もう、そこに茜の姿はなかった。
地下鉄へ乗り込む。
ドアが閉まり、電車が走り出す。
さっきまで胸に残っていた哀愁も。
不思議なくらい、すぐにどこかへ飛んでいった。
俺は。
桐谷のことを、思い出していた。




