34話 殴られる理由 :西嶋
少し前。
春夏展示会、前日の夜。
仕事終わりの飲み会。
「……桐谷と、どういう感じなんすか?」
コトン、とグラスを置いて、俺の隣に腰を下ろした綾野が、敵意をむき出しにして聞いてきた。
「おい、明日展示会なんだから、あんまり飲むなよ」
「西嶋さんほど強くはないですけど、俺もそこそこ強いんで」
「あ、そう。バレてたのか」
「男連中はみんな知ってますよ。西嶋さんがザルなのは。弱いフリして得あるんすか」
「弱いほうが、馬鹿みたいに連れ回されなくて済むだろ。特にこんな女の多い飲み会、たまったもんじゃない」
展示会準備を終えた夜。
各支店から営業が集結する日は、たいてい飲み会が開かれる。
「仕事ですよ、それも。で、桐谷から何て聞いてます?」
「何の話?」
身内の盛り上がりで店内はひどくうるさく、少し控えめに話す綾野の声は、ぎりぎり俺にしか聞こえない。
それに、さっきまで俺の周りにいた連中は、竹森さんが全員引き連れて社長の席へ移動していった。
二人で話すには、ちょうどよかった。
「じゃあ、質問変えますけど」
「ああ」
「桐谷の好きな奴って、誰だか知りません?」
綾野のその問いかけに、一番に顔が浮かんだのは佐藤だった。
「結婚するよ、そいつは」
「──は?」
「桐谷が、好きなやつ」
「マジっすか?」
「ああ」
「真面目に言ってんの? 西嶋さん」
そう言って、綾野がバン、と机を叩いた。
「あ、サーセン! 酔って机にぶつかって」
一瞬、周囲が静かになったけれど、すぐに綾野がそう言ったからか、場は元の騒がしさに戻る。
綾野が手をどけたテーブルには、鍵がひとつ置かれていた。
「鍵、返せって言われたんですけど」
「……」
「別れようって話なんですけどね。俺は別れたくないんです」
「……だから?」
「だから、アンタはなんでそんな関係ない顔してんすか?」
このあいだの和久との話し合いのデジャヴか、これ。
立場が、逆だけど。
「桐谷に本気になってもらえないからって、俺に絡むなよ」
「余裕ってか」
「余裕もなにも──」
「文香の好きな男はアンタだろ」
「……」
「反則だろ。人の女取っといて、しゃあしゃあと知らん顔しやがって」
「お前だって、桐谷以外の女にちょっかい出してんだろ」
「だから俺は、仕事でやってんすよ」
仕事、って。
「──仕事ね」
えらく上昇志向なんだな。
見た目と違って。
「殴りたいくらい、こっちは苛ついてんですけどね」
「殴りたきゃ、いくらでも殴れば?」
実際、手を出したのは事実だし。
「余裕かましやがって」
「ないよ。余裕なんか」
「……」
「余裕なんかないくらい、桐谷が好きだった」
「そんな告白、いらねえんだよ」
凄んだ綾野の目は、真っ赤だった。
「告白じゃなくてさ」
「……」
「終わってるから、もう」
綾野が、ゆっくりと席を立った。
「……外出ろよ、西嶋さん」
「『外出ろよ』なんて言う奴、まだいたんだ」
「いいから」
その声は低く、冗談が通じる雰囲気でもなかった。
俺もグラスを置いて立ち上がる。
『お前、振られたくせに格好悪いぞ』
そう言ってやりたいところだけど。
そもそも俺が横槍を入れたせいでもある。
何も言えない。
この、自分のことを棚に上げて俺に食ってかかれる自己中なところ。
ちょっと憧れるわ。
店の外へ出ると、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに遠くなった。
重たい扉が閉まり、冬の冷たい空気が頬を撫でる。
暖房の効いた店内に長くいたせいか、余計に寒く感じた。
吐く息が、白い。
大通りから一本入った路地には、酔客の笑い声と、遠くを走る車の音だけが響いている。
店の看板から落ちる明かりが、アスファルトをぼんやりと照らしていた。
俺より少し先を歩いていた綾野が立ち止まる。
そして、振り返った。
「で?」
「何が」
「桐谷がどうのこうのじゃねーから。わかってますよね?」
「……」
「人の女に手ぇ出しといて、『終わってるから、もう』って。何かっこつけてんすか」
「……」
「マジでムカつくんすよ」
綾野が、一歩こちらへ近づいた。
次の瞬間。
拳が、腹に飛んできた。
「ごふっ……!」
思いきりみぞおちに入って、身体が勝手に折れ曲がる。
「っ……おえ……」
胃の中が一気にせり上がる。
反射的に路地脇へ顔を向け、そのまま酒を全部吐き出した。
「……っ、手加減しろよ」
口元を手の甲で拭いながら言う。
イッテェ。
マジで入れやがって。
俺が吐いているのを見ても、綾野はちっとも申し訳なさそうにしない。
「今度はそっちが奪われる側なんで」
「……は?」
「隙あらば、ガンガン行きますから」
吐く息を白くさせながら、綾野はそう言い残した。
そして踵を返し、何事もなかったように店の扉を開ける。
一瞬だけ、店内の笑い声と熱気が路地まで漏れた。
そのまま綾野の姿を飲み込むように、扉が閉じた。
冗談じゃない。
腹を押さえたまま、その場に立ち尽くす。
冷たい夜風が吹くたび、酔いよりも痛みのほうが鮮明になっていく。
とてもじゃないが、店に戻れる状態でもない。
俺は大通りまで歩き、流れてきたタクシーを拾って、そのまま帰宅した。
翌日の展示会。
あのままぶっ倒れるように寝て、朝起きてトラに餌をやって、風呂に入って会社へ向かったものの。
身体全体が鈍痛に包まれている。
腹は痛いし。
しっかり内出血もしている。
けれど。
そのくらいのほうが、気は楽だった。
展示会で桐谷とすれ違うたび。
かすかに香る、その匂いに何度も気を取られた。
話すタイミングを探していたのに、日中の商談が落ち着いた頃には、もう桐谷の姿を見失っていた。
翌日。
歳なのか。
昨日よりも身体が痛い。
だんだん綾野に腹が立ってきて。
──なんで俺、あいつに殴らせたんだ?
自分自身にも腹が立ってきた。
今日こそは、桐谷に鍵を渡そう。
そう意気込んだものの。
片桐さんに絡まれているうちに、また桐谷を見失った。
そんなふうに。
行き違いは、翌週まで続いた。
電話をするにも、綾野に殴られた打撲が日を追うごとに存在を主張してきて、どうにも格好がつかない。
少し歩けば、すぐ近くにいるのに。
でも。
こんな腹は、見せられない。
上手くいく前提の下心が、俺を邪魔する。
そして、週が明けた。
桐谷は店回りが多いのか、本社にはほとんど姿を現さなかった。
だから、油断していた。
突然、コンビニの出入り口で桐谷に遭遇した時。
あまりにも業務的な、
「お疲れ様です」
その声に、俺はそのまま声をかけそびれた。
そして。
意を決して、不在通知の郵便物を受け取るという大義名分を片手に、コンビニから出てくる桐谷を待つ。
そもそも、この期に及んで。
俺はまだ、信じられなかった。
綾野に騙されてるんじゃないか、と。
あの憎しみに満ちた目なら、悪態の一つや二つ、平気でつきそうだ。
俺を騙して、陥れるくらい。
普通にやりそうだ。
さっきの「お疲れ様です」だって。
どこか嫌悪感すら感じた。
やっぱり。
時間が経ちすぎたのか。
俺が、あんなひどいことを言ったから。
もう。
手遅れなのかもしれない。
そんな気がした。




