32話 恋ではなく愛 :西嶋
「どうして言ったの!?」
その電話は、ちょうど自宅に着いてすぐにかかってきた。
開口一番、そのヒステリックな声に「落ち着いて」と返したけれど、茜は電話口で慌てた様子のまま「どうして」を繰り返す。
「今から行く。どこ?」
そう言っても、茜は泣き崩れていて、俺の言葉は耳に入っていないようだった。
「大丈夫だから」
「何も大丈夫なんかじゃない! 和久くんに話してなんて、頼んでない!」
「和久なんてどうだっていいだろ! 何のために俺がいるんだ!」
気がつけば、そう強く言い放っていた。
「……どうして」
「だから、俺のところに来たんだろ。今、どこにいる」
そして、茜が居場所を口にした。
「すぐ行くから、そこで待ってろ」
*
高校の時に桐谷と別れたあと、彼女を作るといったことには頭を使わないようにしていた。
恋愛は、苦手だ。
高校を卒業し、大学に入ってからは極力、趣味や勉強ばかりで、新歓だとか、そういった場にもあまり参加していなかった。
『ね、もしかして西嶋くんってソッチ系?』
ノートの端に書かれた、綺麗な文字。
講義中、隣の席からスライドされてきたその文字を見てから、それを寄越した主の顔を見る。
にこりと笑ったその主は、端正な顔立ちをした女だった。
さっぱりとした性格で、悪びれもなく歯に衣着せぬ言動は、その整った容姿とは反して男らしいとも言えるほどだった。
マイペースだけれど、それも居心地がよかった。
無意味な干渉も、束縛も互いになく、俺たちはそれぞれ自由に好きなことをしてきた。
お互いを理解し合っていたつもりだった。
社会人になってから仕事に追われ、ろくに相手もしなかった俺に、茜は文句ひとつ言わなかった。
そんな茜に、甘えすぎていたのかもしれない。
裕福な家庭で育った茜の余裕ある振る舞いと、一般家庭育ちの俺との価値観は、多少ずれていた。
結婚という考えになかなか踏み込めなかったのは、そういった部分も理由のひとつだった。
一度、結婚の話をうやむやにしてからは、茜の奔放さに拍車がかかったようにも見えた。
それでも、楽しそうにしていたから。
いや。
自分が忙しくて構えないことを引け目に感じていたからこそ、そう思おうとしていただけなのかもしれない。
それでも茜が嫌な顔をすることは、一度もなかった。
そんな茜が。
俺と別れる時にも涙を流さなかった茜が、泣いて嘆願する姿に驚いた。
今まで、一度だってそんな茜を見たことがなかったから。
「ごめんね、……明人」
「責任を取らずに逃げた男を連れてくるまで戻ってくるな」と家を追い出された茜は、ウィークリーマンションで過ごしていた。
「和久から、連絡あったんだろ?」
「……うん。聞いた、って」
「そう」
「どうして──」
「言ってほしくて、和久の名前を出したんだろ? だから、首絞めといてやったよ」
戸惑う茜の目を見て、笑った。
申し訳なさそうな茜の瞳が揺れる。
「もう、落ち着いた?」
こくん、と頭を動かして、茜が唇を噛み締める。
そんなすぐに落ち着くわけなんかないか。
「けど、今度は俺が親父さんに首絞められそうだな」
冗談じゃなく、本当にそうされかねない。
「……明人」
「和久は、なんて?」
「……」
今にもまた泣き出しそうな茜の顔を見ると、きっとよからぬことでも言われたんだろう。
「明人は……怒らないの……?」
和久の奴。
自分のしたことを棚に上げて、茜に怒ったっていうのか?
「何を?」
「私が、浮気してた……こと。この前も、何も聞かずにいてくれたけど……」
「怒らないよ。だいたい、別れたあとに聞かされてもね」
少しだけ間を置いて、続ける。
「さすがにショックだったけど、気がつかなかった俺にも非があるだろ。そんな怒れる立場じゃない」
はは、と苦笑いすると、頬が突っ張った。
実際、俺だって最初に桐谷に再会した時には、もう心が揺れていたわけだし。
茜を責めるどころか、俺のほうが悪い。
「……けど、きっともう。茜のことは抱けない」
「……」
「それでもいい?」
俺たちはかつて、確かに恋人だった。
でも、もうそんなものは、とっくの昔に終わってしまっていたんだ。
けれど、茜という人格は否定していない。
俺たちは、家族になるだけ。
「そっか。そうだよね。私、そういうことを頼んだんだね」
「あと、さ」
「……」
「トラって言うんだ。猫の名前」
茜が、少しだけ顔を上げる。
「トラだって、お前が守るって思った大切な命と同じだ。保健所、とか軽はずみに言ったら、俺は悲しい」
「……」
「だから、実家に連れてくけど。茜もトラのこと、可愛がって?」
「……ごめ、私──」
「そういうの。母親になるんだから、今までみたいに自由度高めな言動は、一回きちんと考えてから口にするようにな」
「……」
「俺はお前のことわかってるけど、そんな相手ばかりじゃないぞ。これからは」
ぽん、と茜の頭に手を乗せる。
付き合っていた時には気を遣って言えなかったことが、今はするすると口から出てくる。
「なんか、……パパみたい」
「パパになるんだろ? 俺」
ああ、そうだ。
これは恋ではなく、愛だ。
そう。
自分に言い聞かせるように。




