31話 正しい道 :西嶋
「すみません」
そう頭を下げた桐谷は、淡々と詫びの言葉を並べ、俺に背を向けた。
感情を剥き出しにして、泣いて、罵倒してくれることをどこかで期待していた。
けれど、そんな願望が現実になるはずもない。
俺に気があるはずのない桐谷が、そんなことをするわけがない。
街灯の明かりの下を歩いていくその姿が見えなくなるまで、俺はその場から動くことができなかった。
桐谷にとったら、俺なんて綾野と変わらない存在なんだろう。
友人でもいいから。
佐藤のように、桐谷のそばにいたかった。
そんな女々しい気持ちを胸の奥へ押し込めて、マンションに入る。
……何を期待していたんだろう。
今ならまだ、後戻りできる。
そんなことを考えていたわけじゃないのに。
胸の奥にしまい込んでいた、淡い夢。
欲しかった。
桐谷が。
部屋に戻ると、珍しくトラがすり寄ってきた。
俺はトラを抱き上げる。
ミャア、とひと鳴きしたあと、トラは嫌がるように手足をじたばたとさせた。
「……保健所か」
はは、と。
感情のない声がこぼれる。
迷いは、あった。
茜のこと。
トラのこと。
気持ちに整理がつかないことばかりで、深くため息をつく。
全部、俺が選んでやってきたことだ。
仕事ばかりで、茜をずっとほったらかしにしていたことも。
茜が猫を駄目なのを知っていて、それでもトラを拾ってきたことも。
こうなることなんて、全部想定できたはずだ。
それでも、あえてそうしたのは俺だった。
茜が俺に助けを求めるのなら、──それをはねのける資格なんて、俺にはない。
何年も積み重ねてきた情がある。
それ以上に。
トラが大切なように。
子供だって、同じように大切だ。
俺はスマホをテーブルの上から取り上げ、連絡先から和久の名前を探してタップした。
しばらくして、すぐに通話が繋がる。
「わ、西嶋? びっくりした」
「久しぶり」
「どうしたんだよ?」
最近は互いに忙しく、まともに連絡を取っていなかった友人の声。
「いや、和久に話したいことがあってさ。久しぶりに会えないか?」
「おお、いーぜ。カミさんがさー、二人目できたばっかで機嫌悪いからさ。助かる」
「二人目?」
「そうそう。金ばっかかかってしゃーねーわ」
アハハ、と楽しそうに電話口で笑う和久に、俺は単調な声で尋ねた。
「じゃあ、今から出てこれる?」
「え? 今から?」
「そう。どうしても今日、話しておきたくてさ」
「え? なんだよ」
「それは後から、さ」
「なんか、こえーんだけど」
「まあ、そう言わずにさ。お前んちの近くの店でいいから。今からタクるわ」
「え、悪いからいいよ」
「大丈夫。奥さん大変なんだろ。久しぶりに奥さんの顔も見たかったけど、今日機嫌悪いなら、また別の日にでも祝い持ってくわ」
「なんか悪いな」
「いや、俺のわがままだからさ」
強引に約束を取りつけ、通話を切る。
バブアーのオイルドジャケットを手に取ると、俺は急いで部屋を出た。
空気が冷たい。
さっきよりも、さらに気温が下がっている。
すぐに空車を捕まえ、タクシーへ乗り込んだ。
「すみません、溝ノ口まで」
和久の家は、同じ田園都市線の先にある。
別に電車でもよかった。
ただ、焦っていた。
二人で会う時にいつも使う居酒屋の前でタクシーを降りると、すぐに店へ入った。
中には、いつものように先に到着していた和久が、いつもの席に座っていた。
「西嶋!」
「かなり久しぶりだな」
「そうだよ。お前、まだ独身貫くわけ?」
和久の向かいに腰を下ろし、「ああ、その話なんだよ」と笑う。
「茜と結婚しようと思う」
唐突に、そう告げた。
「つ、ついにかよー」
俺の急な報告に、和久が笑う。
その表情は、俺が昔から知っている和久の笑顔だった。
そして。
「そう、でな」
俺は続ける。
「子供も授かってさ」
「……なんだ、できちゃった婚かよ」
「俺も知らなくてさ」
軽く笑いながら、和久の顔をじっと見つめる。
「──え?」
和久の表情が、わずかに歪んだ。
「茜が、お前に仕事の世話してもらってたこと」
その時、ようやく和久の顔に大きな動揺が浮かぶ。
「……お、おう」
「でさ。お前ならわかるかな、と思って」
「な、何だよ」
「茜の腹にいる子供の父親。お前、誰だか知らない?」
ぴたり、と。
場の空気が止まったのがわかった。
「な、何だよ。お前の子供じゃないのかよ」
「してない」
「……え?」
「茜とはもう、ずっとしてなかった」
そう。
俺がずっと、茜のことを後回しにしていたから。
そんな行為は、なかった。
「じゃ、じゃあ。お前はわかってて茜と……?」
違うだろ、和久。
お前の台詞は、そうじゃないだろ。
「なぁ、和久」
「……」
「知ってるんだろ?」
「ご注文はお決まりですか?」
最悪のタイミングで店員がやってきて、会話がぷつりと途切れた。
「お、……俺、生」
「俺も。あと、漬物盛り合わせ」
「西嶋、粗食だな」
「食欲ねーんだよ」
「……」
会話が、ぎこちない。
だがもう、それは仕方のないことだった。
避けては通れない問題だ。
「以上でよろしいですか?」
「後でまた頼むよ」
店員へそう返して、俺は和久の顔を見る。
最初に見せた笑顔は、もうそこにはなかった。
神妙そうに、眉間に皺を寄せている。
和久とは大学の頃からの友人で、今でもフットサル仲間でもある。
就職し、業界は違えど親交は続いていて、つい二か月ほど前にも和久の会社のチームと練習試合をしたばかりだ。
大学時代のように、しょっちゅう顔を合わせることはなくなった。
それは社会人になれば仕方のないことだと思っていた。
和久の奥さんも、俺も、茜も交えて、昔は一緒に旅行だって行った。
そもそも、和久との友人関係は、茜と出会うよりもずっと前からで。
「──茜がさ」
ぽつり、と。
沈黙を破ったのは和久だった。
「……うん」
「前の会社を辞めて、暇だっていうから。ちょうどうちの会社で、嘱託でいいから人が欲しいってなったんだよ」
迷いのある和久の瞳は、ずっと手元へ向いたままだ。
こちらを見ようとはしない。
「でも、あいつ仕事できるし、契約社員にならないかって話が上がってたんだけど……そこまでフルタイムで働く気はないって断られた。同じ頃に会社の業績も急に悪くなってさ」
「……今はどこも厳しいからな。うちも取引先の百貨店に集客力がないから、売上きついよ」
「そうだよな。どこも同じだよな」
「ああ」
「茜のことだから、気を使ってそう言って辞めたんじゃないかって思ってた。それ以来、会ってないから」
和久が、迷いのある顔を俺へ向けた。
「……いつ?」
「もう、半年くらいじゃねえかな」
「そうじゃなくて」
「──え?」
「茜と、いつから?」
俺がそう問いかけると、和久はぐったりと頭を下げた。
「二年、──前かな」
店内の雑音にかき消されそうなほど、小さな声。
「──ごめん」
「謝るのは、俺にじゃないだろ」
「……西嶋」
「悪いのは、俺も同じだ。ただ」
「……」
「やっぱり、ちょっとはくるな。こういう裏切りは」
「──西嶋、ほん……」
ぐわっ、と。
俺は和久の胸ぐらを掴むと、一気に引き上げた。
ボタンダウンシャツの襟が、和久の喉へ食い込む。
「誰も幸せにできねーようなことしてんじゃねぇよ」
「──ごめん、……にしじ……」
「俺に謝るんじゃなくてさ」
「でも、本当に会ってない。終わったんだ」
そういうことじゃない。
そんな話をしてるんじゃない。
俺の前で涙なんて見せたことがない、気丈な茜が。
初めて涙ぐんで、取り乱していた。
あんなふうに情緒不安定に泣く女だったなんて、俺は全然知らなかった。
茜にそんな顔をさせた和久が、憎かったのかもしれない。
ここへ来るまでは、和久とはもっと冷静に話せると思っていた。
感情に流されたのは、本当に茜に対して和久がしたことへの怒りが爆発したからなのか。
──桐谷を手に入れられなかった、その八つ当たりなのか。
「ごめん、……西嶋」
俺にされるがまま、無抵抗でいる和久の姿を見て、俺は手を離した。
「──悪い」
「……いや、悪いのは俺だよ……でも、茜の……子供は」
何も知らなかった。
戸惑いしかない和久の表情は、明らかに動揺していた。
俺たちが騒いだせいで、何人かの店員が仲裁に入ろうと周囲に集まってきていた。
けれど、これ以上喧嘩に発展しないとわかると、少しずつ離れていった。
酒が運ばれてきても、二人とも口をつけない。
こんな状況で、酒なんか酌み交わせるはずもなかった。
「子供は、俺が面倒見るから」
俺がそう言っても、和久はただ顔を青くするばかりで、何も言わない。
「和久」
和久は口は悪いが、奥さんを大切にしているのは知っていた。
家庭がうまくいっていないようにも見えなかった。
茜とは、火遊び程度のものだったのか。
そう考えると、和久と茜が俺を裏切っていたことへのショックは、不思議と薄まっていった。
俺は冷静に、和久を見る。
「ごめん……」
俺とは反対に、混乱が大きくなっているのか、和久が頭を抱えた。
茜は、こんなことを望んではいなかったんだろう。
そうじゃなければ、和久が子供のことを知らないなんてあり得ない。
でも、このまま何もなかったかのようには過ごせない。
今まで通りになんか、やっていけない。
俺は和久を残し、店を出た。
こんな予定じゃなかったのに。
まだ電車がある時間だ。
俺はタクシーを拾うのをやめ、駅へ向かった。
茜は、和久のことが好きなんだろうか。
──ふと、今さらそんなことが頭をよぎる。
俺たちが付き合ってきた数年は、決して軽々しい、心のないものではなかった。
当初、確かに想いはあったはずなのに。
どこから、熱は低くなってしまったんだろう。
ただ、お互いに大切な存在であることに変わりはない。
──言葉にして説明するには難しい、尊いものだ。
茜が新しい生命を、自分が守ると決めたことを尊重してやりたい。
それで何か考えがあって俺を頼ってきたのなら、俺はその手を取る責任が、少なからずある。
支えていく自信はあった。
それは突然芽生えた責任感なんかじゃない。
ずっと前からあったものだ。
桐谷の存在では揺るがない、確かな絆。
こんなことをしたって、その先に正解があるかどうかはわからない。
ただ、自分ではそれが。
正しい道なんだと。
間違いなく、そう思っていた。




