26話 最後の嘘:西嶋
我ながら、冷静さを失っていた。
朝、目覚めてからもう一度考えを整理する。
茜との付き合いは長かった。
別れ話の時はあっけらかんとしていた茜が、駅前で俺を待っていた時には本当に驚いた。
情がなかったわけじゃない。
むしろ依存して、甘えていたせいか、別れ話を切り出すのに何か月もかかった。
いざ別れを口にした時、どうしようもなく寂しい気持ちが押し寄せてきて、この何年間かを一気に思い出した。
でも、その思い出はやはり、別れを選択しようと思うようなものだった。
仕事漬けだった俺の時間を優先してくれていた茜との記憶が、ほとんどない。
感謝はしている。
しかし、思い出そうとすればするほど大学の頃の記憶ばかりが出てきて、無意識に惰性で継続させてきた関係だと再確認しただけだった。
別れようと言ったのは俺だけど、その時に茜の表情がどこか緩んだような気さえした。
お互いに無理をしてきたんだろう、と、その時は思い、ほっとした。
けれど、さすがに当分の間、飯が食えなかった。
大切な人であったのは確かだ。
長い、付き合いだった。
恋人という関係を超越した、そんな信頼関係があったように思う。
その感情は、今でも生きている。
電話をしてきた茜は、別れ話をすんなりと受け入れていた同じ人間だとは思えないほど取り乱していた。
そういえば、茜が泣いたところを見たのは初めてだった。
復縁の話をしたあの日すら、涙は見せなかった。
いつでもサバサバとしていて、勝ち気で、マイペースで。
──それで、──
思い出そうとしても、思い出せない。
それだけ、茜が俺を自由に、そして尊重してくれていたんだろう、と窓から差し込む朝陽を眺める。
「……文香」
考えようとしたことを、考えるのをやめた。
頭の中が、からっぽだった。
そして、そのまま出社。
週明けの業務に追われつつ、視界に入る桐谷から逃れるように、わざわざ外回りに連日出る。
相変わらず桐谷が綾野と別れた様子もないし、──桐谷が何を思っているのか、全く考えも読めない。
桐谷が綾野と結婚したら、──
そう考えると、気がどうにかなりそうだ。
かといって、俺にどうすることもできない。
茜の件がなかったら。
そう考えても、この状況はきっと何も変わらない。
俺がいくら桐谷のことを好きでいたって、当の本人が俺を選ぶとは思えない。
「……」
「急に、目立つようになっちゃって」
駅前で会った時には気がつかなかった。
元々痩せ型だった茜の身体は少しだけふくよかになっていたが、体型が崩れるというほどではなく、お腹だけが丸みを帯びていた。
「実は、……実家は随分と前から出てて」
「……」
「──和久くんの会社で、派遣社員で働いてたの」
「和久の……?」
俺の大学時代からの友人の和久は、大手商社の営業マンだ。
「知らなかった」
「コネって恥ずかしくて、黙っててって口止めしてたの」
そのあと「くちゅん」と、むず痒そうにしていた茜がくしゃみをした。
「お前、妊娠中に大丈夫か」
「だね。妊娠したら体質変わるかもって思ったけど、やっぱりダメだったみたい」
「猫アレルギーがそんな簡単に体質改善しないだろ」
会って一度話そうと言って、「じゃあ私が」と茜が俺のマンションにやってきたものの、トラがいるせいで、茜は来て早々に部屋を出た。
「猫はどうするの?」
──猫は、だなんて。
トラ、って名前があるんだけど。
「仕方ないだろ」
「そうだよね、ごめんね」
あー、実家に連れてったらなんて言われんのかな……。
と考えながら、エントランスまで降りる。
「ここだと保健所って、どこかな」
「……は?」
「だって、処分するんでしょ?」
「……」
するわけないだろ。
そう怒りが湧いて、唇に力を込めた。
「あ、タクシー!」
そう手を挙げた茜が、タクシーを止める。
「じゃあ、ごめんね」
「いいよ。挨拶に行くから、日取りを決めておいて」
「私、……明人がいなきゃ……」
「わかってる」
わかってる。
茜の要求を、
俺は無条件で──受け入れるしかない。
バタン、と閉まった扉。
走り出したタクシーを見送る。
憤りで、身体が動かない。
茜の守りたい命と、
……トラの命は、
俺にとったらどちらも同じ、何一つ変わらない尊い命だ。
茜が今まで一人で抱え込んでいた悩みで、いっぱいいっぱいなんだろう。
俺は自分にそう言い聞かせる。
タクシーが見えなくなってしばらく。
消化しきれない気持ちを抱いたままその場に立ち尽くしていると、羽織も何もないままだったからか、身体が冷えて身震いをした。
──考えていても、仕方ないか。
そう諦め、部屋に戻ろうと振り返った、その瞬間。
目の前に、桐谷が驚いた顔で立っていた。
「──ああ、盗み見?」
思わず口から出た、嫌味。
桐谷に当たるなんて、お門違い。
けど、それも都合が良かった。
「ちょうど良かった」
そう言って、桐谷のところまでゆっくりと歩み寄る。
何も考えないようにしているのに、自然と伸びた手は、
桐谷の髪に触れる。
髪が、冷たい。
いつから、ここにいたんだろう。
そう思うと、なぜか胸が締め付けられる。
別に、俺を待っていてここにいたわけじゃあるまいし。
俺は自分の気持ちに蓋をする。
そして、冷たく言った。
「お遊びは、おしまい」
それは、自分に言い聞かせるように言った言葉でもある。
「……っ、あ……の」
「俺が本気だと思った?」
「先輩──」
「昔、桐谷に振られた仕返し」
そう言い、髪から手を放した。
桐谷に触れられるのは、これが最後。
そう思ったら、頭が真っ白になった。
「気が済んだからもう用済み。綾野のプロポーズ、受けてやれよ」
いっそのこと、
罵られるほうが、お前を忘れられる。
俺のこと、嫌いだ、って言ってくれ。




