20話 初恋 :西嶋
小さい頃から、ボールを蹴るのが好きだった。
でも、それを仕事にするには才能ってものが必要だと気がついたのは、中学の時。
それでもやめられなくて、高校に入ってからもサッカーを続けた。
ただ、楽しかったんだ。
普段の生活では人と関わるのは苦手で、でもサッカーをしている時は、そんなことも全く気にならなくて。
それでもサッカー色に染まっていた高校生活。
引退も間近になって、いつまでもこのままじゃいられないと現実に向き合う。
早々に見切りをつけていたから、受験の準備は日頃からしていた。
余裕ができてきた、その分だけ。
心にすきま風が吹いていた。
「桐谷さんて、西嶋先輩が好きなんですよ」
誰にでも愛嬌があるうちのマネージャーの広橋晴美が、胡散臭い顔でそう声をかけてきた。
「……桐谷?」
俺は、そう知らぬ顔をした。
「はい。私のクラスの子でー」
実は、……知ってる。
一度、少しだけ話したことがある。
あの日は雨で、片頭痛が酷かった俺は保健室で桐谷に会った。
「これで良かったら、どうぞ」
先生がいなくて、市販の薬をくれた。
それはうちの家に常備してあったもので、妙に親近感を覚えた。
それから何度か、保健室に向かう桐谷を見かけた。
どこか悪いんだろうか、と自然に目で追うようになった。
そんな風に“気になる存在”程度だったものが、
広橋の一言で、引退前の俺の心の隙間に、桐谷の存在感を大きくした。
中学の頃に、彼女がいたことはあったけど、部活のほうが楽しかったし、ほとんどいたとは言えない状況で、すぐに別れた。
それ以来、興味がなかったわけじゃないが、思い出として残ることもなく。
告白されたことがないわけじゃないけど、好きになれそうもなかったりで、付き合う意味がわからなかった。
そういったタイミングじゃなかった。
──心が揺れ動くような恋。
そういうものに、憧れてたのかも。
「お前さー、その女の名前頻繁に出してっけど、好きなんだろ?」
部室でそんな声がして振り向くと、ロッカーの端で一年の佐藤が三年にいじられていた。
「そんなんじゃねーっす、マジで」
「はぁー? つか広橋ちゃんは俺が狙ってるんだからさ、お前はその桐谷だかなんだか知らないけど、そいつにしときゃーいいんだよ」
……桐谷?
「いやマジで勘弁してくださいよー。広橋もそんなんじゃないっす」
「で、何? 可愛いの? 桐谷は」
「可愛いとかそんなんじゃないんですって」
「じゃあなんだよ」
「先輩ー、もういいじゃないっすかー」
まんざらそうでもない佐藤の姿を見て、妙な焦りを感じた。
それ以来、佐藤の声がやけに耳に入ってくるようになる。
それは決まって、佐藤の口から“桐谷”の名前が出てくる時。
部のやつらも、佐藤をいじるのが楽しいのか、ほとんどが“桐谷”という名前を覚えてしまうほどだった。
「西嶋先輩のことが、好きだって」
広橋がそう言った言葉を思い出しては、俺は疑問に思った。
ほとんど話したこともない。
いつも、俺達が渡り廊下でたむろしている時も、移動教室で通り過ぎる桐谷が俺と視線を合わせることはない。
接点なんてないんだ。
クラスが同じ佐藤に、いつしか嫉妬するようになり、悶々とすることが多くなった。
そんなある日。
お隣さんの家で不幸があって、手伝いに向かった母親に家に早く帰るように言われた。
そういえば、小さい頃よく遊んだ美紗緒ちゃんは東京に出て、しばらく会ってないな、と。
そんなことを思い出しながら校門を抜けると、
目の前には、見覚えのある後ろ姿。
もたついた足取りで、彼女はゆっくりと歩いていた。
だから、追いつくつもりはなかったのに。
──追いついてしまった。
そのスピードだと、もうあと二十歩も歩けば追い抜かしてしまう。
そう思っていた時。
桐谷が突然、しゃがみ込んだ。
えっ、と。
驚いて足が前に出る。
そのままかがんで動かない桐谷に、声をかけたほうがいいのかと躊躇した瞬間。
桐谷の「あっ!」という叫び声と同時に、ピョンと白いものが視界に飛び込んできて、
咄嗟に俺はそれをつまんだ。
……え、猫?
よく見れば、桐谷のそばには段ボール箱が転がっていて、
ああ、猫を見てたのか。
と、桐谷の顔を見ると、その顔色は青白く。
それは保健室で見た時の、具合の悪そうな顔だった。
「大丈夫?」
俺がそう声をかけると、桐谷は驚いた顔で俺を見上げた。
「……へ?」
「顔色、悪いけど」
「あ、……だ、大丈夫です……」
全然、大丈夫そうに見えないけど。
「そう」
辛いなら、頼ってくれればいいのに。
そう思っても、俺もこういう時にどうしてやればいいのかがわからない。
「飼うの?」
「……えっ」
「……この猫」
「いっ……やぁ、うちはマンションなので……ちょっと」
「そう」
話せば話すほど、桐谷の具合が悪くなっていってる気がする。
「あの、西嶋先輩は……?」
「え、うち?」
「無理ですよねー……」
「……」
飼え、って言ってんのかな。
うちには一匹いるけど、まあ一匹も二匹も変わんねーか。
と、子猫を見る。
じっ、と俺を見ている。
連れて帰るか。
「あの、いいですよ、帰っても。用があるからこんな時間にここを歩いてたんですよね? 猫は私がなんとかしますから、どうぞ」
必死にそう早口で話すけど、桐谷の体調が気になって仕方ない。
「具合悪いのに笑ってんの?」
「……へ?」
「いいよ。俺が連れて帰るから。桐谷も帰って」
「ほ、本当ですか」
辛そうにしている顔が、ふわっと一瞬、和らいだ。
胸が、ざわつく。
俺は、子猫の入っていた箱を手にする。
子猫を一旦、桐谷に預ける。
「箱どうするんですか?」
「駅前のドラッグストアで捨てさせてもらう」
桐谷は子猫をぎゅっと抱えていたので、その場に残し、ドラッグストアの店員を見つけてゴミの段ボールを捨てさせてくれるように頼んだ。
そのまま店を出ようとして、ふと以前にもらった鎮痛剤のことを思い出す。
もしかして、と薬とミネラルウォーターを買って外に出た。
「はい、痛み止めの薬と水。薬が合わないなら飲まなくていいけど」
余計な世話かもしれない。
でも違えば、それに越したことはないわけだし。
そのあと、二人無言でしばらく歩くと、すぐに駅前に着いた。
「……えっ」
「猫」
「ええっ」
「電車じゃ乗れないから、歩いて帰る」
俺は駅前で桐谷と別れて、道を歩いた。
変に格好つけて、うまく話せなかった。
気恥ずかしくて、広橋が言っていたことも頭から何度もかき消した。
そんな風には見えないし、全然。
胸に抱えた子猫をじっと見る。
ニャア、という声が、
「あれは何とも思ってないニャ」
と言っているような気がした。
子猫を俺の部屋に入れていたせいか、朝になって気がついた母親が驚いていた。
今いるミケも俺が連れて帰ったから、「また!」と笑っていた。
風呂に入れてやったら、綺麗な白い猫で、最初は子猫を不思議そうに見ていたミケも、朝には二匹一緒に丸まって寝ていた。
朝練があるから早く学校に行くと、そのまま部室に向かう。
佐藤の姿が見えて、無意識に桐谷が頭に浮かぶ。
焦りのような気持ちが、いつもより大きい気がした。
そして、午後の昼休み。
「西嶋先輩ー」
いつものように、渡り廊下で部活仲間達とまったりとしていると、
にこにことした顔で桐谷がやって来た。
「昨日はありがとうございましたっ」
一番隅のほうにいた俺目掛けてまっすぐにやってきた桐谷が、紙袋を開いて見せた。
中にはペットフード。
「お礼、ってわけじゃないんですけど」
後ろのほうがざわついている。
「えっ、西嶋ついに?」
「あれって……一年の桐谷だっけ?」
なんとなく、ばつが悪い。
「昨日病院に行ったばっかりだから、もう少ししたらあげるよ。ありがとう」
「えっ! 病院!? 怪我でもしてたんですか?」
「違うよ。捨て猫だったから、病気がないか調べてもらってきただけ」
「……えっ。ご、……ごめんなさい」
「……なんで?」
急に桐谷の笑顔が消えて、驚いた。
あれ、俺なんか変なこと言ったっけ。
「あ、あのっ。わ、私も病院のお金、だ、出しますっ」
「え、いらない」
それを気にしてたのか、と理由がわかって安心した。
「桐谷がいなくても多分、連れて帰ってたし」
「えー……嘘だぁ」
「嘘って……」
ぶはっ、と。
俺は思わず吹き出した。
俺って桐谷からどんなイメージを持たれてるんだ。
「笑うとこですか……」
「うん、ちょっと」
表情がこんなにコロコロと変わるのか。
そう思うと、余計に可愛さが増した気がした。
「……いいですけど」
「じゃあさ」
桐谷は、俺が話す言葉ひとつひとつに、気持ちがいいほど反応してくれる。
「名前、つけていーよ」
「ええっ」
「でも、うちはもう猫飼ってるから、その猫の名前以外でね」
俺がそう言った瞬間、予鈴が鳴った。
「えっ、あっ! その、じゃあまた後で西嶋先輩!」
「あっ……桐谷」
慌てて走る姿に声をかけたけど、間に合わなかった。
「え? 付き合ってんの?」
「そんなんじゃないから」
と、思わず否定してしまった。
でも、この時にやっと。
自分でも気がついた。
付き合いたいんだ、俺。
もう少し、話してたいと思った。
桐谷が笑うと、俺も楽しくなって、
そんでもって、もっと一緒にいたくなる。
「あれ、佐藤の言ってた子だろ?」
「そうだっけ?」
桐谷の名前は、佐藤の口から頻繁に出てくる。
聞くつもりがなくても、その声をいつの間にかキャッチしていて、
意識していた。
きっと、佐藤は桐谷が好きなんだろう。
接点がない俺が、次にいつ話ができるのかもわからない。
そう思うと佐藤は学年も同じで、クラスも同じで。
それが羨ましく思った。
考えれば考えるほど焦って、午後の授業が頭に入らない。
そんな時。
突然、メールが来た。
【西嶋先輩、桐谷文香です! 連絡先を佐藤君に聞きました! さっき飼い猫のお名前を聞き忘れたので教えて下さい】
軽っ。
てかこれ、って。
もしかして佐藤から聞いた?
と思ったけど、単純に嬉しくて、
【三毛猫だから、ミケ】
と、すぐに返した。
同時にすぐメールが来て、
【すいません、クラスの奴にメアド聞かれて教えました】
その佐藤の余裕が、なんだか面白くない。
へぇ。
自信、あるってわけ?
【シロちゃんって、どうですか?】
そんなことになっているとは気がついてもいないんだろう桐谷から来た、そのお気楽メール。
【今日、放課後話があるんだけど、時間ある?】
俺はそう衝動的に返信した。
そして返事は、【はい】とだけ返ってきたから、待ち合わせ場所は渡り廊下と伝えた。
放課後。
まだ明るい日差しの中、渡り廊下の手すりに肘をついて、もたれかかるようにして中庭を眺める。
……早まったかも。
そんな風に思っていると、
「……あの、西嶋先輩」
背後から声がした。
死ぬんじゃねーのか、というくらい心臓がバクバク音を立てていて、言葉に詰まる。
「あの、さ」
そして、意を決した。
「……はい」
「付き合わない? 俺と」
「……はい」
本当は、ダメなんじゃないか、って思ってた。
だから、その返事を聞いた瞬間、驚いた。
「じゃあ、部活あるから」
「あっ、私も……」
ぎこちないまま、俺達はすぐその場を離れた。
気恥ずかしくて。
でも、嬉しくて。
そんな俺とは対照的に、部室では佐藤がつまらなそうな顔をしていた。
悪いな、佐藤。
でも、こればっかりは譲れないから。
ぼやぼやしてるお前が悪い。
──そう思いながら、
「一緒に帰ろう」
と桐谷にメールを送る。
顔が早く見たい。
もっと、話したい。
部活が終わって、
ふと、吹奏楽のほうが早く終わるかも? と部室に足早に向かっていた、その時。
「西嶋先輩」
後ろから、広橋に呼び止められた。
「フェンスのところで、文香が待ってましたよ」
広橋にそう言われ、俺は浮き足立ってフェンスの場所に急いだ。
「ごめん、待たせて」
「……先輩」
今にも泣きそうな顔で、桐谷が言った。
「あの……」
最後まで言わず、桐谷は唇を噛み締め、俯いた。
「……何かあった?」
やっぱり……嫌だった?
「……迷惑だった?」
「……っ!」
桐谷は俯いていた顔を上げ、左右に振った。
「違うん……です」
「どこか痛い?」
「痛いとかではなくて」
「……」
うまく会話のラリーが続かない。
「帰れる?」
「……はい」
肩を並べ、それから駅までの道のりは沈黙が続いた。
駅が目前に見えた時、
「……あのさ」
と、声を出した。
「はっ、はい」
「……嫌だった?」
やっぱり、俺になんか興味なかった?
俺が、強引すぎた?
「何が、……ですか?」
「付き合うの、泣くほど嫌だったのかな、……って」
「……えっ。それは、別のことで」
と、桐谷は続けた。
「突然でしたけど、嫌だとか……は、思ってないです。付き合うだとか、そういうのは初めてなので……」
恥ずかしそうにして、桐谷は視線を逸らした。
あれ?
俺が、心配しすぎただけ?
「あー、ごめん」
恥ずかしくて、顔が熱い。
桐谷の顔も火照ってる。
「……宜しくお願いします」
「……うん」
そうして、この日から俺達は、
「彼氏」と「彼女」になった。
夏休み。
ろくに手も繋げないまま、休みに突入。
受験準備で休みが潰れていく。
毎日逢いたいけど、そうもしていられないし、気が散って勉強にならないのが現実。
学校さえあれば一緒に登校ができるのに、休みってキツイ。
部活を引退した俺と、吹奏楽の桐谷とじゃ、放課後一緒に帰るのは難しいし。
そんな中、やっと花火を見に行く約束をした。
理性が崩壊してしまうほど浮かれたいところだけど、そうもいかないのが受験生。
下半身はたまに言うことを聞かないけど。
俺だって健全な男子高校生。
ただ、それ以上に桐谷のことは大切だった。
毎朝、桐谷のおはようが聞けて、
二人で並んで歩く時間が好きだった。
他愛ない話でも、朝から楽しそうに話す桐谷の笑顔が一日を彩らせてくれる。
同じ景色を眺めて、同じ音楽を聞いて、ひとつひとつ、ゆっくりと。
共有するものが、増えていく。
甘い時間じゃないけれど、不満はなかった。
花火大会当日。
少し遠征して海で上げる花火を見ようと、駅で待ち合わせて合流する。
浴衣だったらいいな、と思っていた期待は軽く裏切られたけど、私服姿の桐谷は新鮮で、
ちょっとスカートの丈が短いのが不服だった。
これから人混みに紛れる、っていうのに、心配で気が気じゃない。
「楽しみですね」
にこにことしている姿を見ていたら、余計に心配になってきて、落ち着かない。
桐谷の笑顔には、ほんと癒される。
電車の中は混雑していて、きっと皆同じように花火大会に行くんだろう。
浴衣姿の人達が多かった。
駅についてみると、ちょっとげんなりするほどの人の多さだった。
「すごい人ですね」
と言っているわりには、嫌な顔ひとつ見せず、楽しそうに桐谷が歩く。
「何か食べたいものとか、ない?」
「んー」
どの店もすごい行列で、桐谷は目をキョロキョロとさせて、
「先輩は?」
と聞き返してきた。
俺は焼きそばとかお好み焼きとか、腹持ちのよさそうなもん。
と思って見渡すけど、その類の混雑ぶりは半端ない。
「別に」
「私、おにぎり作ってきたんです」
「え、マジで」
「飲み物も、凍らせてきました!」
楽しそうにそう笑って、
「だから、花火のよく見える場所、探しましょう!」
と、海を指差した。
可愛い。
「じゃあ、お礼に」
俺はそう言って、比較的並んでないリンゴ飴屋で小さなリンゴ飴を買うと、桐谷に渡した。
「デザートですね!」
嬉しそうに微笑んでくれたその笑顔が可愛くて、我慢できずに桐谷の手を取った。
「離れたら、困るから」
「……はい」
照れ臭くて。
……でも、嬉しくて。
ずっとその手を離さずに、花火大会が終わっても家に着くまで手を繋いで帰った。
その日以来、一緒に帰れる放課後は、いつも手を繋いで帰った。
今までは平気だったのに。
一度触れてしまったせいか、何をしていても桐谷を思い出してしまう。
朝目覚めたら桐谷を思い出して、
メールが来ると、声が聞きたくなって。
声を聞けば、逢いたくなる。
その日は、桐谷が部活で。
いつもなら先に帰るところだったけど、俺は教室で桐谷を待つことにした。
秋も近づいてきて、日が暮れるのが早くなった。
夕暮れの中、グラウンドで掛け声がこだまする。
その時、パタパタと廊下に足音が響いた。
「お待たせしました」
ひょこっとドアから身を乗り出して、桐谷の声が教室に響く。
「びっくりした」
桐谷が突然来たからじゃなく。
いつも、桐谷のいないこの教室に、桐谷がいることが新鮮で。
妙に、感極まる。
ずっと、願ってたから。
「入ってきていーよ」
俺がそう言うと、遠慮がちに桐谷が教室に入った。
「ここ、座っていーよ」
そう言って俺が前の席を指差すと、
桐谷が椅子を引いて、黒板に向かって腰かける。
なんでだよ。
「そうじゃなくて」
思わず笑うと、桐谷がこっちに振り向いた。
「そっち向いて座ってどうすんの」
夕陽が窓から桐谷の顔を照らして、
互いに二人、笑った。
時が、一瞬止まったかと思った。
──もう、我慢できそうにない。
「キス、していい?」
そうすると、桐谷が人差し指を俺の唇に当てた。
そして、ゆっくりとその人差し指を自分の唇につける。
身体の中で、
理性が、弾けた。
何かを言っていた桐谷の唇を、勢い任せに塞ぐ。
軽く触れただけのキスは、柔らかすぎて。
もう一度重ねたら、溶けてしまいそうなその柔らかさに夢中になった。
触れては、少し離れて。
また、足りないから口づけをする。
幾度とそれを繰り返しているうちに、外は暗くなっていた。
──帰りたくない。
もっと桐谷といたい。
そんなわけにもいかなくて、
「ごめん、暗くなった」
そう謝った。
恥ずかしそうに小さく頷いた桐谷を見ていたら、またキスしたくなって、それを我慢して二人、教室を出た。
廊下に出て数歩。
いつものように手を取って歩く。
昨日まで握っていた指先が、ピリッと身体に小さな電気を走らせる。
駅までの間、繋いだ手を何度も引き寄せたくて。
──でも、できなくて。
駅で反対側のホームから、桐谷を見送る。
せめて同じ方向なら、一緒に帰れるのに。
それから。
一度キスをしてしまえば、もう駄目だった。
会えば触れたくなる。
手を繋げば、もっと近づきたくなる。
桐谷が笑えば、キスしたくなる。
自分でも呆れるくらい、頭の中は桐谷ばかりになった。
そんな時に限って、風邪をひいた。
朝から身体が重くて、喉も痛い。
熱はたいしたことなかったから学校には来たものの、さすがに桐谷にうつすわけにはいかない。
だから、その日は朝も一緒に登校しなかった。
【風邪ひいたから、今日は近づかないほうがいい】
そうメールを送ったら、
【大丈夫ですか?】
すぐに返事が来た。
【大丈夫。たいしたことない】
本当は会いたかった。
でも、会えば絶対に近づきたくなる。
自分から避けておいて、休み時間になるたびに一年の教室のほうを気にしている自分が馬鹿みたいだった。
放課後。
早めに帰ろうと階段を下りていると、
「先輩」
聞き慣れた声に振り返る。
「……何してんの?」
階段の下に、桐谷がいた。
「待ってました」
「メール見た?」
「見ました」
じゃあ、なんでいるんだよ。
「うつるから、来ないほうがいいって」
「でも、顔くらい見てもいいじゃないですか」
そう言いながら近づいてくるから、俺は思わず一歩下がった。
「マジで、風邪うつるよ」
「マスクしてるから大丈夫です」
桐谷もマスクをしていた。
そこまでして来たのか。
呆れたような、嬉しいような。
どういう顔をすればいいのかわからない。
「薬、飲みました?」
「飲んだ」
「ちゃんと寝てくださいね」
「わかってる」
母親みたいだな。
そう思いながらも、嬉しくて仕方がない。
「じゃあ、帰るから」
「はい」
離れようとした時。
制服の袖を、軽く引かれた。
「……何?」
振り返った瞬間。
桐谷が背伸びをした。
マスク越しに。
ほんの一瞬だけ、唇が触れた。
「……」
何が起こったのかわからなくて、その場で固まる。
桐谷は真っ赤になりながら、自分のマスクを押さえていた。
「早く良くなってくださいね」
そして、小さな声で続ける。
「先輩に会えないと、寂しいですから」
──反則だろ。
身体はだるい。
頭も痛い。
喉も痛い。
なのに。
一瞬で熱が上がった気がした。
「……桐谷」
「はい?」
「それ、風邪治ったらもう一回して」
「えっ」
「今の、マスク越しだったから」
「……っ」
桐谷は何も答えず、真っ赤な顔で階段を駆け下りていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺はマスクの上から自分の口元を押さえる。
会いたいと思っているのは。
触れたいと思っているのは。
俺だけじゃない。
そう思えたことが、
どうしようもなく嬉しかった。




