18話 桐谷が欲しい :西嶋
会社、家、会社……の往復。
それに疑問を抱かないほど、仕事は面白かった。
疲れを感じなかったのは、若かったからかもしれない。
体力の衰え、というにはまだ早いけれど、精神的なものなのか。
年をとっていることを実感した、七年目。
「あ、葉山、このあと飯行かない?」
「いいけど、ご飯だけじゃやだからね、綾野」
あー、若いってああいうことか。
非常階段で新入社員のやり取りが聞こえてきて、がっつけない俺はジムにでも通おうかと考えていた時だった。
「……西……嶋さん」
腰を下ろして煙草をくわえていると、足元から声がして、資料からそちらへ視線を向ける。
「ああ、お疲れ」
「……いたんですか?」
「いたね。何か都合でも悪い?」
「……いえ。……お、お疲れ様です」
販売部の葉山……と、エリア営業の綾野か。
さほど興味もなく、また資料に目を向ける。
桐谷って変な男と付き合ってんな、と苦笑い。
社内で付き合って、社内で浮気されて、それに気がつかない桐谷もどうかと思ったけれど、余計なお世話か。
男のことなんて、あいつにとったらどうだっていいことなんだろう。
葉山といえば、桐谷とつるんでいたような気もするけれど、女の友情なんてものには関心がなさすぎてよくわからない。
他人事だ、と資料を丸めて立ち上がる。
それ以来、やたらと葉山に睨まれるようになった。
心配しなくたって、余計なことは口外しないのに。
……それに、桐谷が傷つくようなことを、俺が言うわけがない。
綾野がどんな男だろうと、選んだのは桐谷なわけだし。
今の俺には関係ない。
ミャー。
帰宅したマンションに、トラの鳴き声が響く。
「ただいま」
トラを飼いはじめてすぐ、茜と喧嘩をした。
「私、猫アレルギーなんだけど!」
玄関口ですでにもうギブアップだったらしく、「どうして飼う前に一言相談してくれなかったの?」と、すごい剣幕で叱られた。
知らなかったとはいえ、今さらそんなことを言われても引っ越しは済ませたし、トラを手放そうという考えもなかった。
「猫と私、どっちが大切なの?」
仕事と私、という話なら聞いたことはあったけど。
猫と恋人を天秤にはできない。
その答えを出せなかったあの日から、茜がマンションに来ることはなくなった。
気持ちが離れていることには気がついていた。
でも、今すぐに答えを出そうとも考えていなかったし、仕事のことで頭がいっぱいだったこともある。
長く一緒にいたはずなのに、お互いのことを知らなすぎたのかもしれない。
仕事は忙しいけれど順調で、毎晩遅くまで残業をして終電で帰宅する。
トラと仕事の多忙のおかげで、すっかり茜とも距離ができてしまった。
実家暮らしの茜と会うのは、ほとんど俺のマンションだったからか、トラが来てからは駅前で飯を一緒に食うくらい。
久しく、恋人らしい営みなんてものはなく、そういった気分になることも互いになかった。
男としては、もう枯れはじめたんじゃないか、って。
それくらいに思ったくらいで、それほど気にもしていなかった。
恋人というものは月日を重ねればそんなもので、こうやっていつか結婚をして、家族という安定を築き上げていくもんだろ、と。
三十路を迎える前にもう、悟りを開いたオヤジのようになっていた。
だから、駅からの道中にあるコンビニで桐谷に会った時には驚いた。
向こうは俺に気がついていない様子で、朝の出勤時に桐谷がすぐ近くのマンションから出てくるのを見た時には、もっと驚いた。
こんなに近くに住んでいたとは。
そんな、ある日だった。
「ちょっと西嶋くん、ごめんね。主人が急に倒れちゃって」
そう慌てた声で竹森さんから電話がかかってきたのは、深夜のこと。
「大丈夫なんですか?」
「主人はなんとか……でも、会社に桐谷を一人にしてきてしまって」
俺は銀座での商談を終え、家に帰ろうと地下鉄のホームにいた。
「子供じゃないんですから」
俺がそう言うと、竹森さんも「そうなんだけど……」と、何かを言いたそうに渋っていた。
「手伝え、なんて言うんでしたら手伝いませんよ。できなきゃできないで、桐谷の力量が足りないってだけでしょう」
冷たくそう口にすると、俺は通話を切った。
タイミングよくやってきた電車に乗り込む。
ふと腕時計に目を向け、視線を上げた。
駅名がオレンジ色に点滅しているのを、しばらく眺める。
……別に、手伝うわけじゃない。
様子を見にいくだけだ。
会社に到着し、ビルを見上げると、室内の明かりがついているのは一つだけ。
エレベーターに乗り込み、フロアに着くと、そこにいたのは桐谷ただ一人だけだった。
驚いた顔をしていた桐谷が、ずっと俺を見ているから。
声もかけられず、俺はまっすぐ自分のデスクへ向かい、ノートパソコンを開いた。
自分の行動に動揺していた。
もう過去だ、平気だと思っていたのに。
……ああして桐谷に見られると、どう反応すればいいのかわからなかった。
竹森さんにやらないと言ってしまった手前、今さら「手伝おうか?」の一言が言えず、自分の仕事を進める。
向こうからカサカサと紙をめくる音と、俺のタイピングの音だけが、広いオフィスに響いている。
ふと時刻を確認すると、二時前。
さすがの俺も、瞼が重くなってきた。
パタリと桐谷の方から音がしなくなって、ふいに顔を向けると、桐谷が俺の方を見ていた。
「終わった?」
「な、なんとなく」
「そう」
なんとなく、ってなんだよ。
そういう仕事の仕方が一番嫌いなんだ。
怒りまかせに俺はパソコンを閉じると、桐谷を通り過ぎて、まっすぐエレベーターの方へ向かった。
そして、フロアの灯りを消した。
「なっ、なにするんですかっ」
「帰らないの?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「もう充分待ってやっただろ」
「えっ?」
「タクシー、乗らないならいいけど」
しまった。
つい、度を越した意地悪を反動でしてしまった。
その勢いで、近くに住んでいることも言ってしまった。
桐谷は、黙る俺の機嫌が良くないと思ったのか、エレベーターの中では俺を避けるように立ち、外に出てからも後ろから離れて歩いた。
高校生の頃とは違う。
お互い、大人になって出会ってしまえば、それは知り合いだったかどうかさえ曖昧な記憶となっていて、他人行儀になる。
「……あの」
「何?」
「もしかして、最近引っ越しました?」
「ああ」
「それ、って」
「三宿だけど」
「あ、私も……」
「そう」
知らぬふりをして、タクシーを止める。
「ど、どうぞ。お先に」
桐谷が一緒に帰りたくなさそうにしていたのは、見ればわかった。
でも。
「ボーッとしてないで早く乗れよ」
「え」
桐谷に先に乗り込むよう、背中を軽く押す。
「あ、あの」
「すみません、三宿までお願いします」
桐谷に続いて乗り込んだあと、そう行先を口にした。
タクシーは走り出す。
そしてまた、沈黙。
桐谷はこちらを見ようともしない。
なんとなく、家が近いことは知られたくない。
俺が追いかけてきたみたいで、自分で考えただけでも気持ち悪い。
そう思っていた時だった。
「あの、ありがとうございました」
「何が?」
「え、と。待ってくださっていたのでは……」
「待ってない」
「そ、そうですか……」
バレて、た。
そう思うと、すべてを見透かされているような気になり、声が出せない。
「いつ、引っ越して来たんですか?」
「それ聞いてどうすんの?」
桐谷は、突っ込まれたくないことばかりを聞いてくる。
「世間話です」
「あ、そう」
マズい。
一度意識しはじめたら、もう何を言えばいいのか全くわからなくなった。
「じゃあまあ、いいです」
少し不機嫌そうに唇をとがらせ、桐谷は口を閉じた。
タクシーは深夜の交通渋滞に巻き込まれ、ゆっくりと前へ進む。
その時、桐谷の鞄の中で携帯の振動が響いた。
けれど、桐谷はそれを取ろうとはしない。
「鳴ってるけど」
「すみません……」
桐谷はゴソゴソとスマホを鞄から取り出して画面を見て、また鞄の中にしまい込んだ。
スマホはまだ震えている。
「出れば?」
「いや、タクシーの中ですから」
「いいけど、別に」
「……」
桐谷は眉間に皺を寄せ、スマホを手にした。
「もしもし?」
「あ、カエデちゃん?」
相手の声が、漏れている。
──この声は。
「違いますけど」
「嘘だー。カエデちゃんでしょ?」
綾野だ。
桐谷は動揺も見せず通話を切り、バッグに押し込んだ。
それでもしつこくまたかかってきたので、電源を落としていた。
そして何て言うのかと思っていたら。
「間違い電話でした」
「違うでしょ」
「私、カエデちゃんじゃないので」
平然とした顔で、桐谷はそう言った。
──変わってない。
そう思うと、俺は笑いを堪えるために顔を手で覆った。
「笑ってます?」
「ちょっと待って」
こいつは、何も変わってない。
俺が我慢できずに笑っていると、桐谷もつられて笑った。
「笑うところじゃないですよ?」
彼氏が他の女の名前を口にしたってのに、余裕な桐谷が可笑しくて堪らない。
「いまの、綾野?」
「……え?」
「声でわかる」
「あー……まあ、……はい」
「いいの?」
昔から変わらず、男に対して興味も執着もなさそうなその姿が、変わらなさすぎて──やけに不快に思った。
「何がですか?」
「……いいけど、別に」
ああ、そう。
誰にでも、そうなわけね。
「いいんです。きっと酔ってるし」
「酔ってればいいんだ」
酔ってようがなんだろうが、どうせ同じなくせに。
「そうじゃなくて」
「そうやってまた、好きでもないやつと付き合ってんの?」
「……え、それ」
つい、口から出てしまった。
ちょうどそのタイミングで運転手が「駅前ですけど、どうしますか?」と言ってくれたおかげで、昔話を蒸し返してしまった失態はうやむやになった。
「どうする?」
「へっ? ……あっ、ど、どうぞ、お先に」
「……」
この様子なら、桐谷は俺が近所に住んでいることを知らないんだな、と。
「このまままっすぐ行って、先でいいです」
自分のマンションの前で止めてもらうように言った。
「はい」と、タクシーは駅前を通り過ぎ、交差点を過ぎてすぐに停車した。
「じゃ、これ」
俺は何も言わずにタクシー代を桐谷に渡すと、車を降りた。
本当は、桐谷もここで降りることを知りながら。
「やっ、これっ! 多いですっ……!」
後ろからそんな声が聞こえたけど、俺は返事をせずにマンションに入った。
好きでもないくせに男と付き合って、浮気されていようが、別れられようが、何ともない顔をしている桐谷を見ると。
蓋をしていたはずの記憶が溢れだしてきそうで、──気分が悪かった。
三日後。
店長会の後の打ち上げの酒の席。
酒には強いが、それを知られれば誘いが増えたり、面倒が多いので弱いということにしている。
「西嶋くん、あっちでゆっくりしましょう」
俺が酒に弱いと思っている竹森さんに誘われ、端の席に移動すると、桐谷の頭がちょこんと見えた。
「こんなところで自分達だけ逃げてー」
竹森さんが葉山の隣に腰を下ろし、俺は桐谷の隣に座る。
「あっちでけっこう飲まされたわよ、ねえ西嶋君」
「もう限界ですね」
全然イケるけどね、と舌を出しつつ、竹森さんに話を合わせる。
「酔ってるんですか?」
「酔っても顔に出ないんだけど、こう見えて弱いのよ、西嶋君は」
葉山の問いかけに、ふふ、と俺の代わりに竹森さんが答える。
葉山は俺を睨みながら、「へぇ」と呟いた。
「西嶋君、彼女いるのにモテモテだよね」
竹森さんがそう笑うと、「えっ! 彼女いたんですか!?」と、葉山が驚いて叫んだ。
「いるわよ、こんないい男なのに」
「いい男……ですね」
葉山が苦笑いをする。
嫌なのが顔に出すぎ。
横を見ると、俺達三人の会話に全く興味がなさそうにしている桐谷の横顔が見えた。
その姿が、面白くない。
綾野にさえ興味がなさそうなのに、他人の俺にもっと興味がないのはわかる。
でも、無性にそれがつまらなかった。
だから、ほんの出来心。
単なる、悪戯。
俺は素知らぬ顔をして、桐谷の手を掴んだ。
「でさ、可笑しいの。西嶋君って」
「まあ、可笑しいっちゃ可笑しいですかね。色々」
竹森さんも葉山も、気がつかずに話を続ける。
桐谷は、何事も起きていないような顔をして表情さえ変えない。
それが、余計俺をムキにさせる。
ぐっ、と絡ませた指先に力を入れる。
「酔ってればいいんだろ?」
そう口にした。
お前が三日前に言った言葉だ。
綾野が酔っていることを言い訳に浮気をするんなら。
俺も、お前もすればいい。
桐谷は俺の手から何度も逃れようとする。
それがおかしくて、俺はさらに指に力を入れる。
「あー、西嶋さん。こんなところで飲んでる。隣いいですかー?」
数人の関西エリアの店長達が、席にやってきた。
「あっ! 桐谷さんもいる! ずるいですよー、綾野さんがいるのに西嶋さんまで」
やっと焦った顔をした桐谷は、「そんなことないよ」と言って、もう一度絡まった指を抜こうとする。
へえ。
綾野の名前が出たら、動揺すんの。
「でも綾野さんって、ほら」
クスクス、と店長達は面白そうに笑う。
「ちょっと、感じ悪いよ。アンタ達。いくら酒の席だからってねー、綾野が女癖悪いの笑ったら文香に失礼でしょ」
「ちょ、……葉山」
よく言うよ。
葉山が一番、酷い裏切りをしてるってのに。
「女癖、悪いの? 綾野」
俺はわざとそう、葉山を挑発する。
葉山は恨めしそうな視線を俺に向けた。
「悪いよ、って言ったんですけどねー」
けれど、葉山の代わりに答えたのは店長だった。
「あー、関西の店舗の真理ちゃん?」
俺がそう言った瞬間、葉山の顔色が変わった。
店長が「西嶋さん、どうしてそれっ!」と言ってから、口を覆った。
葉山は、自分だけが特別な立ち位置にいたとでも思っていたんだろうか。
そんなわけないだろ。
「ちょっと、……西嶋さん」
「酔ってたわけじゃ、ないみたいだな」
対して、綾野の本命である桐谷のこの落ち着きよう。
俺はその桐谷の姿を見てやっと満足すると、その指先を離した。
綾野に少しでも気があるのかと思ってたけど、どうやらそれは違ったらしい。
「すみませーん! そろそろ時間になったので!」
幹事が遠くでそう叫んでいる。
「じゃ、また」
と、店長達は去っていった。
「ねぇ、文香さ。いい加減怒ったほうがいいよ。綾野ちょっと調子に乗りすぎ」
「あ、まぁ。いつものことだろうから」
「ねぇ、ホントにアンタ綾野のこと好きなの?」
葉山は焦っているのか、俺の前で堂々と桐谷にそう問いかける。
「そういうんじゃないでしょ、付き合うのって」
「なにそれ。綾野のこと好きで付き合ってるわけじゃないって聞こえるよ、文香」
ほんと、まさにそれな。
「綾野は、桐谷の気をひきたいだけなんじゃない?」
俺は意地悪ついでに、葉山にそう言った。
「まさか!」
と、葉山が笑い飛ばす。
おいおい。
「アイツの女癖の悪さは、入社した時からずっとですよ? 知ってます? 研修中のホテルで、夜中に女の子の部屋にいたのが見つかって、朝まで正座させられてたんですよ?」
葉山の必死さがおかしくて堪らない。
「知ってるよ。それ見つけたの、俺だから」
「ええー!?」
「若いうちは仕方ないんじゃない? 男なんか」
そう。
綾野みたいな勢いで遊ぶのは、入社したての若い頃だけ。
現に、今は桐谷との付き合いをオフィシャルにして、他の男から桐谷をガードしている。
「……何?」
「あ、いえ」
ぽかん、と口を開けて桐谷が俺を見ていたから、ついそう冷たく八つ当たりした。
店の前で解散し、宮益坂から渋谷駅の方へ、ぞろぞろと列を作る。
井の頭線の竹森さんと葉山と駅前で別れ、残ったのは俺達二人。
「桐谷」
「はい」
「悪いんだけど、タクシーで帰っていい?」
「あ、どうぞどうぞ。私は地下鉄で帰るんで」
なんでだよ。
「乗ってけばいいだろ、近いんだから」
桐谷が俺を敬遠しているのは、わかってた。
「あ、……はい。じゃあ今日は私がタクシー代出しま……」
「要らないから」
俺はタクシーを拾うと、今夜もまた桐谷を先に押し込んだ。
「よ、酔ってます……よね?」
「酔ってるよ」
そんなわけないだろ。
やけくそでそう返事をして乗り込むと、俺はまた桐谷の手を握った。
お前が言うように、酔ってるふりしてりゃいいんだろ。
「……あの」
「黙ってて」
「でも、これ」
「桐谷の指ってさ」
「……はい」
「細すぎて、折れそう」
昔から、なにひとつ変わらない。
俺が、手放し、諦めたこの手。
一度触れてしまったら、もう後戻りできなくなった。
「いや、そうじゃなくて」
テンパってる桐谷の声がしたから、俺は寝たふりをした。
このまま、離したくない。
綾野に、渡したくない。
桐谷が、欲しい。




