19話 曖昧なままで
綾野くんに、別れ話をした。
「は? 何言ってんの?」
今まで、別れる時はいつも振られてばかり。
『何を考えてるのかわからない』
『お前といても、空気吸ってる気分になる』
散々な言われようだったし、その都度泣いた。
私だって、血の通った人間だ。
その傷は何度も重なっていって、自分でも気がつかないほど深い傷を作っていった。
いつしか、別れることを前提に守りに入っていたのかもしれない。
だから、自分から別れを切り出した時、少しだけ今までの相手の気持ちがわかった気がした。
こっぴどく言わないと、相手は納得しないんだ。
別れ話というものは、思っていた以上に難しい。
私のように、相手がすんなりその要求を飲んでくれるとは限らない。
「頭冷やせよ」
綾野くんはそう言って、私には何も話させてくれなかった。
大阪支店で売り上げを作れば、本社に戻る頃には部長代理になれる。
「すぐに戻ってくるから、結婚しよう」
その言葉を置いて、綾野くんは仕事に向かった。
──私は、身動きがとれなくなった。
先輩が好きな気持ちと、
恋人と別れ話がうまくいかないという悩みに挟まった。
ただでさえ、先輩には彼女がいるのに。
そもそも、先輩は……私のことをどう思っているんだろう。
それを知る勇気は、まだない。
知ってしまえば、私のこの気持ちは行き先を失ってしまう。
私はこの恋心をまだ、失いたくはない。
──いつか、失わなければならないとしても。
*****
「……同窓会?」
「そう、寒くなる前に久しぶりに皆で集まろうって。東京にいるのは文香だけでしょ。たまに適当に集まったりはしてるんだけどさ」
高校からの親友、祐実に綾野くんのことで電話をしたのに、肝心の相談をする前に同窓会の誘いを受けた。
まあ、いいか。
その時にでも相談はできる。
「珍しく文香から電話がきたから、てっきり誰か連絡したのかと思ったよ」
地元を早くに離れ、毎度参加しない私を見た両親は、同窓会のハガキが届いても、それを渡してくれることもなくなった。
「たまには帰っておいでよ。新幹線ですぐでしょ」
……確かに。
「考えておく」
「考える時間なんかないから。今週の土曜日だからね?」
「え、そんなすぐ!?」
思ったよりもすぐで驚いたけれど、それもそういうタイミングなのかもしれない。
私は参加すると返事をした。
せっかくの休みだったのに、気がつけばもう夜。
朝に綾野くんと話してから、まだ一度も先輩とは話していない。
何度も謝りの電話をしようとしたけれど、言葉が見つからなかったし、先輩を置いてあの場を去ったことが悔やまれて。
先輩は、──何かを言おうとしてくれていた。
私のために、綾野くんに……。
それを止めたことが正解だったのか。
……そうじゃなかったのか。
わからない。
もうずっと一日、先輩の顔が見たくて仕方がなかった。
会えばこの不安が打ち消されるような気がして、どうにかして会うだけでも、と何度も出掛けようとした。
でも、また外で綾野くんがいたら。
今度は、あんなものじゃ済まない気がする。
そう思うと、外に出る勇気すら湧いてこなかった。
このままで、いいんだろうか。
……いいはずがない。
これを繰り返しているうちに、夜になったというわけで。
眠ろうとしても寝付けず、そして翌日は来る。
先輩に会ったら何て話そう、と考えていたが、そんな時に限って会社で先輩に会うことはなかった。
一日目は会えなくてがっかりして。
二日目は不安が膨らんで。
三日目には、もうダメだ、と落ち込んだ。
綾野くんは、来週また東京に来る。
何一つ解決できない自分が情けなくて。
そして、あの日以来、先輩とは話せないまま土曜日がきた。
「ありがとう、祐実」
「久しぶりだよね。変わってない!」
「祐実も変わってないよ。そんなすぐに変わったりしないでしょ」
駅前まで祐実が車で迎えに来てくれて、そのままお店に向かった。
変わらない地元の景色。
けれど、ほんの数年東京に暮らしただけで、育ったこの地がまるで異国のように感じてしまう。
確かに、数年前まで私はここにいたのに。
「で、話したかったことって何?」
「……あー……」
祐実にそう尋ねられ、「実は……西嶋先輩と」と口にすると、
「西嶋先輩?」
と、祐実が首を傾げた。
「会社が同じなんだよね」
「あ、そうなんだ」
「うん」
うまく説明ができなくて、私は黙り込む。
「あ、もう着くから。詳しくは後で聞くわ」
祐実はそう言って、居酒屋の駐車場に車を入れた。
「うわ、文香!」
店に入り、座敷に通され襖を開けた瞬間、懐かしい顔が並んでいた。
「文香、超久しぶりー!」
そう声が重なる。
顔は覚えているのに、名前がなかなか照合できない。
長い間、皆には会っていなかったからか、面影を探しながら会話に混ざっていると、徐々に記憶が蘇ってきた。
「桐谷」
「わ、佐藤!」
斜め向かいから、懐かしい声と顔。
佐藤とは腐れ縁で、三年間クラスが同じだった。
「ちょっとお前、こっちこい」
ほんのりピンク色をした顔の佐藤が、ポンポンと自分の隣の空いた席に手を下ろす。
「えー」
「ちょっと、行ってやんなよ」
祐実がニヤニヤと笑いながら、私の背中を押す。
「なんで」
そう言いつつも、私は佐藤の隣に移動した。
「お前、東京に行ってから全然帰ってこなくなったと思ったら、そんな綺麗になって」
ええっ!
私はのけ反って佐藤を見た。
「なんなの、そんなこと言う奴だったっけ」
「大人になったと言いなさい」
ギャハハ! と祐実が大袈裟に前の席から笑っている。
「佐藤、嬉しいくせに!」
「まあな」
と、祐実の言葉にも気を悪くせず、佐藤がにやけている。
「どうしたの、ほんと」
私がそう聞くと、「またー、ほんとに気がついてなかったの!」と祐実が笑う。
「何をよう、もう」
「佐藤はずっと文香が好きだったんじゃん」
「またまたー」
もう、皆出来上がってるんだから。
と、私もビールを口にした。
「けど、今や一児のパパだけどね」
「えっ! 結婚したの!? いつ!?」
「式は来月」
「え、授かり婚?」
「ちげーよ! 式前に発覚したの」
「すごいね! おめでとー!」
ああ、そうか。
自分の時間だけが進んでないだけで、こうやって周りは皆、ちゃんと大人になっていってるのか……。
と、一瞬で気持ちが滅入る。
「お前、ほんと変わってないなー」
ぐしゃ、と佐藤は私の髪をかき混ぜながら、頭を撫でる。
「ちょっと、ほんと変わんないなー。やめてよー」
そう手をはたいていると、「あー、変わらないね」と祐実が笑って、
「で、西嶋先輩がなんだっけ?」
その途端、佐藤の手がピタリと止まる。
「西嶋先輩?」
「なんか同じ会社なんだってよ?」
祐実がそう言うと、佐藤の顔から笑いが一瞬で消えた。
「え? 俺、たまに西嶋先輩と会ってたけど、そんなこと一言も言ってなかったよ?」
「……」
「つか、なんで今さら西嶋先輩?」
「あー……その、いや、ちょっと……話すとややこしいというか」
私がゴニョゴニョと言っていると、
「まさか」
と、佐藤が私を睨む。
「……いや、そうじゃなくて」
「やめとけよ。西嶋先輩、彼女いんだろ」
グサリ、と佐藤の言葉は思った以上に私に突き刺さった。
っていうか、知ってるんだ。
「そ、そう」
「やだ、何? 文香も彼氏いるじゃん」
祐実がそう言って、私は黙り込んだ。
「そう、なんだよね……」
「は? 何それ、お前」
「そんな怒らないでよ……」
わかってるよ。
そんな顔しなくても……。
「ちょっとマジでなんなわけ」
「そんなんじゃないんだってば」
本当のことを言えば、きっと。
……そう思うと、もう何も言えなくなった。
「いいから、言えよ。俺が西嶋先輩に言ってやるよ」
「や、やめてよ!!」
そんなことしないで!
と、私が声を張り上げたせいで、注目が集まった。
「えー、やだ。なになにー?」
少し離れた席にいた晴美ちゃんが、クスクスと笑ってこちらを見て言った。
「……ごっ、ごめ……」
「別にいーけど。つか、お前東京に何しに行ってんだよ」
すっかり怒ってしまった佐藤に、なぜか謝る私。
「まあまあ、文香もさ、わかってあげなよ」
……何をよ?
と、私は祐実を見る。
「俺は別に構わねーけどさ」
「佐藤も大人になったんでしょ。全然大人対応できてないよ?」
落ち着いた祐実にそう言われ、佐藤はジョッキを一気に飲み干すと、
「ごめん」
と、言った。
「いや、全然。むしろ私のほうがなんかごめん……。
ただ、彼とうまくいってなくて別れたいんだけど……結婚しよう、って言われて」
「「はあ!?」」
佐藤と祐実の声が重なる。
「めでてーじゃねえかよ」
「そうじゃん。なのにどうして西嶋先輩がそこに登場してくるわけ?」
「……それ、は……」
「バカじゃねーの?」
佐藤はそう言うと、眉間に皺を寄せて立ち上がった。
「外行ってくる」
そんな佐藤を見上げてから、祐実の顔を見た。
「あーあ」
「何よ」
「文香は本当にわかってないなー。まあ仕方ないけど」
「……」
「西嶋先輩と別れたあとの文香につけ入る隙がなかった佐藤の気持ちもさ」
祐実にそう言われ、過去を思い出す。
でも、その記憶の中にあるのは、苦い恋の思い出だけ。
好きだったんだ。
それは淡い恋で、
未知で、……何もわからなくて。
でも、確かに十代の私には、精一杯の大切な恋だった。
ふわふわとして、色んなものがわからなくて。
怖くて。
脆かった。
戻ってきた佐藤は、別の席に行ってしまった。
私は祐実にすべて話すと、「でも浮気は応援しがたいなー」と、綾野くんと仲直りするようにやんわりと言われた。
私の気持ちは、元々そこにあったのか。
腑に落ちないまま、時間が過ぎた。
この年齢にもなれば家庭のある人達も三割ほどいて、早い時間にお開きになり、店を出た時だった。
「……あれ?」
その祐実の声に、視線を前へ向ける。
一瞬、見違えたのかと目を凝らして、もう一度よく見る。
「……先輩」
私がそう呟いたと同時に、西嶋先輩がもたれ掛かっていた車から体を離し、こちらへやって来て、
「久しぶり」
そう、私の後ろにいた佐藤に声をかけた。
でも、佐藤は何も言わなかった。
先輩は私に、
「帰るだろ」
と言うと、歩き出す。
「……は、はい……」
本当は実家に帰ろうと思っていたけれど、そんなことは考えずに返事をしてしまった。
振り返ると、驚いた顔をした祐実と、怒った顔の佐藤。
「じゃ、じゃあ」
私は西嶋先輩の後について、車に乗り込む。
「あれ誰ー!?」
と、声が聞こえていたけれど、私はドアを閉めた。
「西嶋さん、どうしてここに」
「出張中。明日帰ろうと思ってたけど、佐藤から連絡が来たから」
……佐藤。
「佐藤、……何か言ってましたか?」
「……」
先輩は何も言わず、エンジンをかけた。
何て言って電話をしたんだろう。
「……同窓会」
ぽつり、とそう声がした。
「そうなんです。久しぶりに……」
「そう。俺は出張があるから、たまにこっちには帰って来てるけど」
「会社で見かけないって思ってたら、出張だったんですね」
車が走り出す。
ぎこちない空間で、当たり障りのない会話が続いた。
本当は、……どうして先輩がここにいるのかが気になって仕方なかった。
でも、なかなかその話ができなくて。
……綾野くんの話も、当然。
出せなくて。
「……あれ? 西嶋さん、この車──」
「……」
車なんて持ってたんだっけ?
と、運転している先輩の横顔を見る。
「……実家の車」
「ええっ」
「桐谷さ」
「……はい」
「いや、いい」
張り詰めた車内。
二人とも、思うように会話が進まない。
話したいことは沢山あるのに、そのどれもが、話してしまえばこうしていられなくなるような結果にしかならないものばかりで。
「どこか、泊まる?」
その声に、私は静かに頷いた。
こんな曖昧なままじゃいけないとわかっていても、
曖昧な関係のままでしか、一緒にいる方法が見つからない。
車はホテルの駐車場に入り、
二人、黙ったまま部屋に向かう。
来てしまった。
何も話さないまま。
「佐藤のこと、好きだっただろ」
部屋に入って突然、先輩のその言葉が聞こえ、
「──え?」
と返事をする間もなく、私は先輩に唇を塞がれた。
私が、佐藤を……?
そんな風に一瞬だけ思ったけれど、
深く繋がった唇に、そんな考えはすぐにどうでもよくなってしまった。




