16話 名前のない関係
余韻に浸ることも出来ないほど、その日は忙しかった。
搬入を終えると、先輩は他の店にも商品を運ぶため、一緒にいたのはお店まで。
こんなことになってしまったというのに、何も口に出来なかった私。
そして、先輩も何も言わなかった。
ベッドから出て、着替えて化粧をして。時間はギリギリで、車で二人、珈琲を口にしたくらい。
なんの約束も、契りもないまま、業務に突入。
眠さを感じる間もなく、一日が終わった。
閉店作業を終え、帰宅する。
駅を出たところでどっと疲れが押し寄せてきて、ヒールを脱ぎ捨てて、裸足で歩きたくなるほどだった。
とはいえ、そんなことが出来るはずもなく。
自宅についてすぐにお風呂のお湯を張り、少しぬるめの湯船に身体を浸してから、やっと一息つけた。
途端に眠くて仕方ない。
久しぶりに一日中店に立ったから、足が浮腫んでいる。
うとうととしつつも、リンパをマッサージする。
「もう、……ないのかな」
ぽつり、と。
無意識に出てきた言葉。
今日一日、先輩からの連絡はなかったし、次の約束も当然していない。
私達の関係は、常に宙に浮いたまま。
逢いたい。
今朝まで一緒にいたのに、もう寂しくなって。
会おうと思えば、すぐに会える近さだというのに。
恋人でもなければ、友達ですらもない。
ブクブクと顔を湯に浸し、水の世界の音の中で考える。
「……ぶはっ!」
そんなに息を止めていられず、ザバッと顔を上げた。
考えるの、よそう。
お風呂から出て、髪にバスタオルを巻きつけ、すぐにスマホを手にする。
業務連絡のLINEだけが、赤い数字で表示されている。
着信履歴から、綾野くんに電話をかける。
──出ない。
時刻は二十一時半過ぎ。
飲みにでも行ってるのかな?
……いや。
浮気してるのかも。
だったらいいのに、と思ってしまっている私はもう終わってる。
今すぐにでも別れ話をしたい。
もう、綾野くんの彼女であるということに耐えられなかった。
先輩に彼女がいても、自分の身辺整理はしてしまいたい。
一夜の遊びだったとしても、もう、この気持ちに気付いてしまった以上は、だらだらとした綾野くんとの関係を終わらせたかった。
西嶋先輩のことが好き。
それが許されることだとは思っていない。
綾野くんが浮気してるからって、私もしてしまったわけで。
そんなこと、ダメなのはわかってる。
でも私はずっと、この気持ちだけを背負って生きてもかまわない。
報われないとしても。
次に綾野くんが東京に来るのは、来週の月曜日。
直接会って話そうと考えていたけれど、電話でもいいから今すぐ話してしまいたかった。
待てども、折り返しは来ず。
そうこうしている間に、うとうととしてしまった。
ブンブンと振動の音が、どこからかする。
「……ん?」
あれ? スマホは……?
ベッドから身体を乗り出して、床に転がっていたスマホを手にする。
画面も確認せずに「はい」と声を出した。
「寝起き?」
その声が耳に入ってきた途端、一気に目が覚めた。
「あっ、いえ……うたた寝をしてしまっていて」
「ああ、今日はお疲れ」
「いえ……西嶋さんのほうがお疲れで……」
びっくりしたのと、声が聞けたことで心拍数が上がる。
やだ。
逢いたい。
「もう寝るとこ?」
「……あっ、いや……はい、まあ」
「来ない?」
「……えっ?」
「今日は何もしないから」
「そっ……そ、そんな……」
やだ。
そんな冗談だかなんだかわからないこと、返事に困る。
「無理には言わないけど」
「いっ、いきますっ……」
「じゃあ、下で待ってる。今コンビニ出るところだから。なんか要るものあったら買ってくけど」
「だ、大丈夫です。ゆ、ゆっくり歩いて下さいね! 少し時間がかかるかもなので」
「ああ、わかった」
スマホを切ったあと、慌てて着替える。
明日は休みだから、持っていくものはさほどないにしても。
──スッピンすぎる。
いや、昨日も見せたけど。
でも、数十メートルとはいえ外を歩くわけだし。
と、軽くファンデを塗って眉を描く。
慌てて外に出ると、先輩が歩いて来るのが見えた。
急ぎ足で近づく。
「あの、今日はお疲れさまでした」
「疲れた。ホント久しぶりに」
「ですよね……」
そんな他愛ない会話を少ししただけで、先輩のマンションについてしまった。
エントランスを抜けて、エレベーターを待つ。
「あれ? 化粧したの?」
「えっ……あ、……はい、一応……」
「寝るだけなのに?」
「……」
恥ずかしい。
化粧をしたことじゃなくて、先輩がその言葉を口にしたことが。
じわりと、来る。
エレベーターが来て、今日は忘れずに階数のボタンを押した。
「……すぐ落とします」
「眠いからすぐ寝ようと思ってたのに」
そう、先輩の声が近づいて来て。
唇を、奪われる。
この関係は、
何なんだろう。
「……ん」
深く絡まって、息が出来なくなる。
エレベーターはすぐに止まって、唇が離れる。
代わりに、指が絡まって、二人廊下を歩く。
気持ちが指先から全身に、ぎゅんぎゅんと駆け巡る。
玄関に入って、それはピークに達する。
「に……し、じま先輩……」
確かに過去の恋人で。
もう、とっくに終わった恋だった。
再び重なる唇に、顔が熱くなる。
いい大人になってから、気持ちが制御出来なくなるほどの、
恋をした。
自分にパートナーがいて、先輩にもそれがいるというこの状況で、熱に浮かれる。
けれど、心の片隅に罪悪感を押しやって、先輩の胸の中にうずくまる。
『好きです』
そのたった一言が、言えない。
そのことが胸を苦しくさせて、息が詰まりそうなほど辛い。
二人、もみくちゃになって玄関先で絡み合う。
相手の気持ちが見えないのに、どうしてこんなにも、身体は満たされていくんだろう。
先輩が私の身体に触れるたびに、私は熟れていく。
会話のない世界で、お互いに何かを確認したわけじゃないのに、同じように求め合う。
繋がった部分で粘膜が絡み合い、狭い空間に音を響かせる。
腰砕けになりそうになるたび、先輩に引き上げられて、私は受け入れる。
満ちて、溢れ出る感情に比例して、身体も達する。
何度も、何度も、荒い波にさらわれて、立っていられなくなるほどに崩れてしまった時。
先輩はそんな私を抱き上げて、寝室に向かった。
お互い、睡眠は足りてないはずなのに。
そんなことを忘れて、ベッドの上で絡まった。
──愛しい。
触れる部分も、落ちてくる汗の雫も。
何も語らない瞳も。
全てが愛しくて堪らない。
「せんぱ……い、もっと」
やっと口に出来る言葉はそれだけで。
本当は貴方が欲しいと言ってしまいたいのに、口にしてしまえば安っぽくなる気がして。
私の言葉に、先輩は身体で答えるように深く混ざり合ってくる。
朝が、来なければいいのに。
二人、息を切らせてベッドに沈んだ。
そして睡魔に負け、そのまま抱き合って眠った。




