14話 キスからその先
お風呂から上がると、部屋の中は妙に静かだった。
トラはご飯を食べ終えると、もう何事もなかったみたいに身体を丸めて眠っている。私はそのケージの前にしゃがみ込み、助けでも求めるように小さな寝顔を見つめていた。
……落ち着かない。
さっきから胸の奥がずっと騒がしい。何か別のことを考えたいのに。
「トラってば……」
小声で呼んでも、耳すら動かさない。こんな時くらい起きていてくれたっていいのに。
そう思いながら規則正しく上下する小さなお腹を見ていると、今度は私まで眠気に引っ張られてくる。
ドキドキしてるくせに、眠いなんて。
自分でもおかしい。
「あれ、ずっとそこにいたわけ?」
はっとして振り返る。
先輩が風呂から出てきたところだった。スウェット姿で、首にはバスタオル。まだ乾ききっていない髪から、ぽたりと雫が落ちる。
「おっ……おりました」
「なんだそれ」
笑われて、私は目を逸らした。このあとのことを意識しすぎているなんて、絶対に気づかれたくない。
「はい」
頭の上から声が落ちてきた。
見上げると、先輩が手を差し出している。私は意味がわからず、首を傾げた。
「手」
手?
言われるがまま、その掌へ自分の手を乗せる。
「いや、お手じゃないから」
先輩が笑った。
次の瞬間、ぐっと腕を引かれた。
「わっ」
急すぎて、声がうまく出なかった。そのまま手を引かれて、寝室へ連れていかれる。
パタン、と扉が閉まる音。
暗闇の中で、また唇が、重なる。
言葉も、灯りもない世界。
──無意識に高校生の頃に何度もしたキスを思い出してしまう。
あの頃は、それしか知らなくて。その先は、未知だった。
でも、今は違う。
でも、余計な事は口にしなかった。
そのままじりじりとベッドに押され、倒れるように横になる。汗ばんだ先輩の肌が、Tシャツから出ている私の腕に触れる。
──昔から、知っている人なのに。
知らない、身体。
懐かしい唇の感触は、鮮明によみがえるのに、この先からは──。
「脱がす?それとも自分で脱ぐ?」
私に覆い被さった先輩の表情は見えず、カーテンの隙間から微かに入ってきていた灯りが輪郭だけを浮かびあがらせる。
正体のわからない重圧が、ずっと私の喉元を締めていて、……声が、出ない。
「言わないと、寝れねーよ?」
余裕のあるその声に、逃げ出したくなる。
「自分で」、そう言おうとしたつもりだったけれど、そう声を出す前に、先輩の手がTシャツの中にするりと入ってきた。
びくん、と身体が反応して、思わず口を押さえる。
「手は邪魔」
捕らわれた手首は頭上にあげられ、あらわになった素肌の上に、先輩の唇が、触れた。
唇からざらついた舌が這い上がって来て、首筋にまで到達した。
「我慢してんの?」
ぎゅっ、と噛み締めていた唇の力を緩めたら、その先の想像が自分でもつかない。
そんな私に構わず、先輩の指先はゆっくりと撫でるように下着の中に、浸入してきた。
指先はその先で意地悪く円を描く。そのたび、身体が反応する。
そして、同時に首筋を舌がなぞる。
……熱い。
身体の芯が、熱くなってきて、私は身をよじる。
そんな私に気づいているのか、いないのか。先輩の唇は、私の耳たぶに触れて、そして、そのまま口に含んだ。
暗闇の中は無音で、耳に直接──先輩の呼吸と、息がかかって。
生暖かい先輩の舌の温度が耳に伝わる。
「……っ……あ」
そう声が思わず漏れて、身体がビクン、と動いてしまった。
恥ずかしくて仕方ないのに、何も言わずにされるがまま、私は身を任せた。
もういい大人になった。
この先にあるのがなんなのか、わかっているのに。
割り切れない。
感情に流されないようにしようとしても、胸が痛くて仕方がない。
何時の間にか、緩んだ唇から声が漏れてしまっていて、我慢することもやめた。
闇に、湿った音が絡み合う。
「もっと、触って」
先輩がそう、私の手をつかんで言った。
私は言われたとおり、先輩の肌に直接手のひらをあてる。
「もっと、下」
胸から、下に。
ゆっくりと手を滑らせていく。
すぐにスエットに指先が当たって、私は固まった。
「もう終わり?」
そう挑発されて、私はスエットの上から──なぞる。
……男の人だ。
この人は、私が知っている高校生の先輩なんかじゃない。
熱く、変化していることがわかると、急に鼓動が速まった。
丸裸になるタイミングはどこか間抜けな気がして、いつもは適当に相手に任せていた。
でも、突き動かされる本能のままに、私はスエットをずらすと、顔を埋めた。
「変わったな、お前も」
それは、お互い様じゃないですか。
何十年もたって、あの時のうぶなままだなんてことは不可能だ。
私は返事をせずに、行為にふけった。
自分からそうしたい、なんて思ったのは初めてだった。
「……桐谷」
そう呼ばれても、また無視をした。
「文香」
そう言って引き離された顔を、ぐいっと上に上げられた。
「そんな早く終わらせようとすんなって」
「ちっ、違います」
「心配しなくても、ちょっとは寝れるように終わらせるから」
……えっ。
「あっ、ちょっ」
着ていたTシャツを勢いよくはぎ取られ、他も同様に脱がされた。
「乗って」
あぐらをかいて座る先輩の上に膝をついて座ろうとする。
「違うだろ」
向かい合って、肌が重なる。
「手は肩」
そう言われて、肩に手を回す。でも、肩が広くてうまく回せない。
そんなことを考えて戸惑っていると、先輩の唇が重なった。
「……腰」
先輩の熱い部分に密着していた。
「動かして」
その場所に、言われるがまま擦り付けるようにして動く。
絡まる、舌の音と、濡れて、摩擦する音が、響く。
そのまま欲しくなって、腰を浮かせた瞬間。
「まだ」
そう言って口内に先輩の声が響く。
「やだ」
「まだまだだろ」
気が狂いそうになる。
腰の動きを早め、そんな自分の行動を制御出来なくなって、身体がビクンと震え上がった。
「……あっ」
そのすぐに、先輩が、深く私に入り込む。
「や……っ、まだっ」
腰から身体を駆け抜ける、快楽。
のみ込まれる。
どこまでも、深く。
こんな風に男の人と抱き合ったのは初めてで、幾度と達するたびに、私は自分の中にあったものを、こんな中、認めた。
私は、この人が、好き。
ああ。
私。
この人が。
好きなんだ。
認めた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
今さら。
今になって。
こんな取り返しのつかない状況になってから。
私は自分の気持ちを知った。
先輩には、彼女がいる。
私には、まだ綾野くんがいる。
私たちは。
間違っている。
それでも。
好きだった。
西嶋先輩が。
ずっと。
たぶん。
自分で思っていたよりも、ずっと。
もう、気づかなかった頃には戻れない。
この先に待っているものが、幸せじゃないことくらい。
それでも私は。
また、同じ人に恋をしてしまった。
でも、この恋のその先にあるのは……。




