11話 終わった恋 :西嶋
「ねぇ、明人」
大学時代から付き合っている茜とは、もう五年になる。
勤めていた会社を辞め、もともと実家暮らしだった茜は、それ以来、以前にも増して俺のマンションへ顔を出すようになっていた。
呼ばれて振り向くと、茜はどこから手に入れてきたのか、新築マンションのカタログを広げている。
「こう見えて私、貯金も結構あるし。合わせればこういうマンションもアリだよ?」
『結婚したい』
直接そう言われたわけではない。
それでも、その意思は充分に伝わっていた。
社会人三年目。
結婚を視野に入れられるほど、まだ仕事にも金にも余裕はない。
「まだ早いだろ」
「そんなこと言ってたら、私もうオバサンになっちゃうよ?」
「ならないだろ」
「ならないけどね」
ふふっと笑うと、茜はカタログを閉じ、そのままぽんとゴミ箱へ放り込んだ。
いずれは結婚するつもりだった。
少なくとも、その頃の俺はそう思っていた。
仕事にはやり甲斐があった。毎日のように深夜まで会社に残り、帰宅した時には茜がもう眠っていることも珍しくなくなった。
気づけば、恋愛より仕事の優先順位の方が高くなっていた。
茜もいつの間にか以前ほど部屋へ来なくなったけれど、それを大きな問題だとは思わなかった。
付き合いが長くなれば、こんなものなんだろう。
安心しているからこそ、毎日連絡を取り合わなくても平気になる。
そういうものだと思っていた。
俺の生活は、すっかり仕事を中心に回っていた。
そんな社会人三年目の春。
入社式。
桜もほとんど散った頃だった。
何百人と並ぶ新入社員の中に、見覚えのある姿を見つけた。
ほんの一瞬だった。
それなのに、そこから目が離せなかった。
桐谷。
そう思った時には、その姿は他の新入社員の群れへ紛れて見えなくなっていた。
最初は、目の錯覚だと思った。
疲れているんだ。
毎日ろくに寝ていないから、昔の記憶と誰かを重ねただけだろう。
何かの間違いだ。
そう思おうとした。
けれど。
間違いじゃなかった。
忘れたつもりでいた、苦い記憶。
高校時代。
桐谷を気にしていた後輩がいることを知っていながら、俺はそいつを出し抜くように先に桐谷へ手を伸ばした。
桐谷が俺のことを好きらしい。
そんな話を聞いて。
だったら、と思った。
俺も気になっていたから。
それなのに、最後はうまくいかなかった。
今になって思えば、何が正解だったのかなんてわからない。
ただ、あの時の俺は、桐谷に拒絶されたと思った。
好きでもないのに付き合っていたんじゃないか。
俺だけが勘違いしていたんじゃないか。
そう思った。
だから、離れた。
それが一番いいと思った。
でも。
忘れようと思えば思うほど、あの頃の記憶はなかなか消えてくれなかった。
何年も経って。
大学に入り。
茜と出会って。
新しい恋愛が、その上から時間を重ねていった。
気づけば茜との関係も長く続き、生活は穏やかで安定していた。
桐谷のことも、もうほとんど思い出さなくなっていた。
――そのはずだった。
入社式で、もう一度あの姿を見るまでは。
穏やかだった心の水面に、少しずつ波が立ち始めた。
最初は、入社式。
二度目は、配属先の店頭で偶然見かけた時。
わざわざ話しかけたりはしなかった。
仕事上の接点もなかったし、向こうも俺に気づいている様子はなかった。
それでいいと思っていた。
同じ会社にいたところで、何千人も社員がいる。
そのうち見かけることすらなくなるだろう。
そう思っていたのに。
三度目。
一番大きく心が乱れたのは、桐谷が同僚の綾野と付き合い始めたと耳にした時だった。
自分でも驚くほど動揺した。
その夜は、なかなか眠れなかった。
社内恋愛というものは厄介だ。
聞きたくなくても、どこからか情報が入ってくる。
本人たちが隠しているつもりでも、部署も店舗も違う人間までいつの間にか知っている。
しかも相手が綾野だった。
女癖がいいなんて話は、一度も聞いたことがない。
むしろ逆だ。
それでも桐谷は、綾野を選んだ。
俺じゃダメだったのに。
綾野ならいいのか。
その違いは何なんだろう。
そんな、どうしようもなく情けないことまで考えた。
もう何年も前に終わった話なのに。
俺には茜がいるのに。
何を今さら引っかかってるんだと、自分でも思った。
でも。
桐谷が綾野のことを本当に好きだとは、どうしても思えなかった。
――いや。
そう思いたかっただけなのかもしれない。
桐谷が俺を好きじゃなかった。
それならまだわかる。
でも。
俺を好きじゃなかった桐谷が、その後誰かを心の底から好きになって幸せになっている。
その事実を認める方が、たぶん嫌だった。
最低だと思う。
自分でもわかっている。
綾野なんかに取られるくらいなら。
俺が先に。
そんな考えが、一瞬でも頭をよぎった。
でも、当然そんなことができる立場じゃない。
俺には茜がいる。
桐谷にも綾野がいる。
何より、俺は一度桐谷に拒絶されている。
もう一度同じ目に遭うほど、物好きじゃない。
そうやって考えないようにして、また仕事へ逃げた。
月日は流れた。
そして数年後。
桐谷は本社勤務になった。
意識するつもりなんてなくても、自然と目に入る。
誰かと話している姿。
仕事をしている横顔。
笑っている声。
見ようとしなくても、気づけば見つけてしまう。
困ったことに。
昔より、よく笑うようになっていた。
俺は昔から、桐谷の笑った顔が好きだった。
そんなことまで思い出した。
その頃には、俺ももう三十手前。
同い年の茜からも、
『いい加減、将来のこと考えて』
と、以前よりずっとはっきり言われるようになった。
何度も考えた。
このまま茜と結婚すればいい。
長く付き合っている。
気心も知れている。
一緒にいて楽だ。
茜を嫌いなわけじゃない。
むしろ大切な人間だと思っている。
だからこそ、何度も言おうとした。
結婚しよう。
それだけなのに。
いざ言葉にしようとすると、どうしても声にならなかった。
理由は考えないようにした。
考えたところで、ろくな答えにならない気がしたから。
そのまま、状況だけが停滞していった。
そんな中。
会社帰りに捨て猫を見つけた。
放っておけずに連れて帰ったはいいものの、ペット禁止だったマンションの管理人にすぐ見つかった。
さすがに猫をまた捨てるわけにもいかない。
それで、今の部屋へ引っ越した。
ただそれだけ。
本当に。
それだけだった。
そして引っ越して間もないある日。
近所のコンビニで、桐谷を見つけた。
……参った。
これじゃまるで。
俺が追いかけてきたみたいじゃないか。
何年も前に終わった女と同じ会社で。
しかも今度は、住んでいる場所まで近い。
偶然にしては出来すぎている。
桐谷がこっちに気づく前に帰ろうかとも思った。
でも。
気づけば、見ていた。
昔と変わらない横顔を。
それ以来、極力桐谷には関わらないようにしようと思った。
仕事以外では距離を置く。
余計なことはしない。
昔のことも掘り返さない。
綾野とのことだって、俺には関係ない。
そうやって日々を過ごせばいい。
そう思っていた。
――本当に、そうするつもりだった。
でも。
そんなわけには、いかなかった。




