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【完結】キスからその先は。  作者: もぁらす


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14/53

10話 あの日のつづき


シャワーを浴びたら、少しだけ酔いが覚めた。


脱衣所に置かれていた先輩のスウェットを見て、私はそこでようやく我に返る。


……私、とんでもないことをしようとしてる。


かも。


しかも泊めてもらう立場なのに、洗い物まで任せてしまった。


私って何様なんだろう。


自己嫌悪に陥りながらTシャツへ袖を通すと、ふわっと先輩の香りがした。


途端に、心臓がどくどくと脈打ち始める。


いや。


これはアルコールのせいだ。


そうだ。そうに違いない。


「お、お先にすみませんでした」


脱衣所から出ると、冷房の効いた空気が火照った肌に触れて気持ちよかった。


「トラ寝たから、あっちの部屋でテレビでも見てて」


「あ、はい」


「俺も入ってくる」


「あっ、洗い物ありがとうございました」


「ああ。こっちこそ、ご馳走さん」


「……いえ、お粗末さまでした……」


先輩が浴室へ向かいかけてから、ふとこちらを見る。


「美味かったよ」


「……」


うっ。


なんだろう。


さっきより動悸が激しくなった気がする。


気を紛らわせようと、すやすや眠っているトラをしばらく眺めてみた。


けれど、浴室からシャワーの音が聞こえてくると、余計に落ち着かない。


仕方なく、言われた通り奥の部屋の扉を開けた。


六畳ほどの寝室。


そこにあるのは、シンプルなダブルサイズのベッドとサイドテーブル、それからテレビくらいだった。


「……ん?」


先輩がここで寝るとして。


私は?


床?


それとも。


まさか、一緒に――。


いや。


そういうことは、あとで考えよう。


考えたら負けだ。


「失礼します……」


誰に断るでもなく呟いてから、ベッドへ上がった。


身体を倒すと、そのまま柔らかな布団に沈み込む。


先輩のお布団、いい匂いがする。


……って。


これじゃ、ただの変な女だ。


このままだと本当に眠ってしまいそうで、私は慌てて起き上がり、テレビをつけた。


部屋の灯りを一番暗くすると、テレビの光だけがちらちらと壁や天井へ反射する。


映像は流れているのに、内容はまるで頭に入ってこなかった。


音だけが、どこか遠い世界から響いているように聞こえる。


それはきっと、さっきからずっと、ひとつのことしか考えていないからだ。


どれくらいそうしていたのかわからない。


「あれ、起きてんの」


突然扉が開き、先輩が現れた。


「あっ……」


驚いて身体を起こす。


お布団、ありますか。


そう聞こうとして、口を閉じた。


――違う。


そうじゃない。


静まり返った部屋で、息をすることさえ慎重になる。


私は膝の上で指を握った。


それでも、このまま何も言わずに朝を迎える方が怖かった。


「先輩」


「ん?」


「あの日の、続き。しませんか?」


先輩の表情が止まる。


「いーの?」


「じゃないと私、きっと前に進めないです」


言ってしまった。


ギシ、とベッドが軋む。


それは先輩が近づいてきたからではなく、私がその分だけ反射的に後ろへ逃げたからだった。


自分から言ったくせに、もう後悔している。


「嫌なら、いーよ」


「嫌じゃ、ないですから」


嫌だとか、嫌じゃないとか。


私にとっては、そういうことではなかった。


出来るのか。


出来ないのか。


ずっと、それだけだった。


先輩は私のパーカーのフードの先をつまみ、そのまま深く頭に被せた。


視界が暗くなる。


そして次の瞬間、唇に柔らかな感触が触れた。


――こんなこと、やめておけばよかった。


そう後悔したのは、唇が触れたその瞬間だった。


視界を遮られたまま触れ合った感触だけが、ゆっくりと身体の奥へ染み込んでくる。


辛いなぁ。


どうして顔を隠したんだろう。


どうしてこんなに簡単に、私にキスできるんだろう。


あの頃と同じ場所が、胸の奥で疼く。


私のことなんて、もうどうでもいいのかもしれない。


彼女がいるのに。


私が相手でも。


こういうことができてしまうんだ。


自分から言い出したくせに、もう苦しい。


正当化できるものなんて、何ひとつない。


だからきっと、この胸の痛みは罪悪感なんだ。


そうだ。


そうに違いない。


軽く触れて、一度離れた唇が、また重なる。


今度はさっきより深く。


罪悪感に押し潰されそうなのに、私は離れようとはしなかった。


むしろ息をすることすら忘れるほど、それを受け入れていた。


気づけば腕を先輩の首へ回し、もっと近くへと引き寄せている。


そのまま身体が倒れ、ベッドへ沈んだ。


頭を覆っていたフードが外れる。


暗闇に目が慣れていたせいか、すぐ近くに先輩の顔が見えた。


先輩は何も言わない。


ただ、もう一度唇を重ねた。


あの時も、そうだった。


私はいつも、この人に飲み込まれて言葉を失う。


何も言わないまま、何度も唇だけが重なる。


言葉のない空間には、息をすることさえ許されないような緊張感が漂っていた。


何度目かのキスのあと、唇がわずかに離れる。


「今回は逃げねーの?」


「……逃げたわけじゃ、ないですから」


自分でも情けないくらい、弱い声になった。


「……へぇ」


「慣れて、なかったから」


あの時は、初めてだったから。


何も知らなかった。


「今は、慣れてるって?」


「そんなんじゃ……」


その瞬間。


先輩の表情が変わった。


「茶番はここまで」


「えっ」


身体が離れる。


「俺、下で寝る。桐谷はそこで寝ていーから」


「……」


あまりにも突然で、声が出なかった。


先輩はクローゼットから布団を取り出すと、何の説明もないまま床へ敷き、こちらへ背を向けて横になった。


私は何が起きたのかわからず、その姿をぼんやり見つめる。


……何か、怒らせるようなことをしたんだろうか。


そう考えてみたものの、そもそも今日の私は最初から間違いだらけだ。


思い返せば返すほど答えが見つかるどころか、自分のしたことが恥ずかしくなってくる。


私は何をしているんだろう。


静まり返った部屋に、お互いの呼吸だけが響いていた。


これで良かったのかもしれない。


私も。


先輩も。


そもそも、こんなことをしていい立場じゃない。


現実から逃げたくて、私はしてはいけないことをした。


掛け布団を頭まで被り、その中でひたすら反省する。


理由その一。


順番が、違う。


――順番?


私は勢いよく布団から顔を出した。


床では、先輩がこちらに背を向けて寝ている。


私。


綾野君と別れてから、西嶋先輩とそうしようとしてる?


そう考えた瞬間、胸が強く締めつけられた。


先輩の部屋。


先輩の香り。


唇には、まだキスの感触が残っている。


明日の朝になれば。


ここから帰れば。


これらは全部なくなって。


もう二度と、ない?


そう思った瞬間、今度は猛烈に苦しくなった。


……やだ。


そんなの、嫌だ。


けれど、この状況をどうすればいいのかわからない。


そもそも私が綾野君との関係を片づけたところで、それだけでは意味がない。


先輩には、彼女がいる。


こんな図々しいことをしておいて、その上さらに何かを望むなんて。


私はいつから、こんなに卑しくなったんだろう。


暗闇の中にいると、考えはどんどん悪い方へ落ちていく。


だんだん悲しくなって、余計に眠れなくなった。


先輩は『茶番』と言った。


あれは、どういう意味だったんだろう。


「……せんぱい……」


小さく呼んでみる。


返事はなかった。


もう眠っているのかもしれない。


でも、このまま夜を明かしたくない。


このまま終わりになんてしたくない。


ちゃんと話がしたかった。


起きているかな。


そう思いながら待っていたけれど、返事はなく。


悶々としているうちに、窓の外が明るくなっていった。


……寝られなかった。


先輩は私に背を向けたまま、一度も起きることはなかった。


どうやっても眠れなかった私は、静かに寝室を抜けてリビングへ向かった。


夜は眠っていたトラが、今は元気にケージの中で跳ねている。


扉を開けて抱き上げると、人懐っこい瞳でこちらを見た。


シロはあんなに人見知りだったのに、この子は違うんだな。


小さな身体の温かさに、少しだけ気持ちが落ち着く。


……帰ろう。


帰って。


綾野君と、きちんと話をしよう。


時計を見ると、七時を少し過ぎていた。


今から戻れば、まだ綾野君はいるはずだ。


家にいなかったことを怒られるかな。


喧嘩になるかな。


考えれば考えるほど不安になって、すぐに「やっぱり……」と尻込みしてしまう。


その繰り返しだった。


しばらくして、寝室の扉が開いた。


……うっ。


「……おはようございます」


「ああ、おはよ」


気まずい。


あまりにも気まずい。


それなのに。


寝癖で髪がぴょんと跳ねている。


素っ気ない態度とまるで釣り合っていないその姿が、ちょっと可愛いと思ってしまう自分が嫌だった。


なんだか、そわそわする。


「……メシは?」


「えっ」


「メシ食べないの?」


「えっ、あ。ちょっと待ってください」


えーっと。


昨日、朝ご飯になるものって買ったっけ。


抱いていたトラをケージへ戻し、キッチンへ向かおうとする。


その瞬間。


腰に腕が回った。


「……わっ」


身体ごと、後ろへ引き寄せられる。


「寝れた?」


どっ、どの口が。


「はい。良く」


「……あ、そ」


なんなんだろう、この人。


掴みどころがなさすぎて、軽くパニックになる。


「メシないなら、外行く?」


「……あ、いえ。私……」


「何?」


私は一度息を吸った。


「帰ります」


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