9話 好きだった
また先輩が、すべて会計をしてくれた。
「桐谷はメシ作る人。俺は食う人」
なんて言っていたけれど、どうにも腑に落ちない。
マンションに入り、エレベーターに乗り込む。会話が弾むこともないまま上の階へ上がり、先輩の部屋らしいドアの前で足を止めた。
ガチャ、と鍵が開く。
「散らかってるけど」
そう言って、中へ通される。
その時。
ミャー、ミャー。
奥の方から、猫の鳴き声が聞こえた。
「……え」
思わず先輩を見る。
「猫……飼ってるんですか」
「最近、ね」
私は靴を脱ぐのもそこそこに、ぱたぱたと奥へ向かった。
リビングにいたのは、小さな虎柄の猫だった。
……まさか。
「トラ、とかって名前じゃないですよね?」
「そうだけど」
「またですか!」
思わず声を上げて笑う。
「ケージから出していいですか?」
「いいよ」
扉を開けると、まだ幼いからなのか、トラは逃げることもなく私の胸の中に収まった。
「可愛い!」
小さな身体を抱き上げると、トラがミャーと鳴く。
「先輩、名前つけるの単純ですよね」
「自分もだろ」
「それは先輩がそうだったから……」
言いかけて、我に返った。
何を呑気に昔話に花を咲かせているんだ、私は。
そういえば。
『心配しなくても、俺一人じゃないし』
あの時、先輩が言っていたのは、もしかしてこの猫のことだったんだろうか。
「先輩、また拾って来たんですか?」
「また、って」
私はトラの小さな頭を撫でる。
「可愛い。いいな」
「いつでも来ればいいだろ」
「えっ! いいんですか!」
勢いよく振り向いてから、ふと動きを止めた。
……あれ?
「彼女、は来ないんですか?」
「猫アレルギーだから」
猫、アレルギー。
「だから、来ないんですか?」
「もういいだろ。早くメシ作ってよ」
「……はい」
うまく、はぐらかされた。
私と綾野君のことは色々知っているくせに、西嶋先輩と彼女のことを私は何も知らない。
それって、なんかフェアじゃない。
ミャー、とトラが鳴く。
私の腕から離れたトラを、先輩が抱き上げた。胸元に収めて、愛しそうに頭を撫でている。
「……台所、お借りします」
「おー。よろしく」
私は逃げるようにキッチンへ向かった。
猫が羨ましいとか。
一瞬でもそんなことを思った自分が、ちょっと嫌だった。
引っ越してきたばかりなのか、キッチンには余計なものがほとんどなかった。
リビングにあるのも、猫のケージと小さなテーブルくらい。
いつでも引っ越せそうなくらい、物が少ない。
「テレビないんですか?」
ふと気になって振り向くと、先輩は床にあぐらをかき、まだトラといちゃついていた。
「寝室にあるけど。見たい?」
「えっ、……いや」
「後から見れば? 録画しとく?」
後から。
寝室で?
一瞬で変な想像をしてしまい、胸がどきっと跳ねた。
「やっ、そんなんじゃないんで」
「そう?」
ああ、心臓に悪い。
誰も一緒にベッドへ横になってテレビを見ようなんて言っていない。
それなのに。
私は何を勝手に意識しているんだろう。
そもそも、図々しく部屋に上がり込んでしまったけれど、この先のことなんて何も考えていなかった。
自分の家はすぐ近くだ。
でも、そこには綾野君がいる。
そもそも、綾野君に会いたくなくてここに来た。
――私は、どうしたいんだろう。
食材を水にさらしながら、ぼんやりそんなことを考えていた。
「なぁ」
「っ!?」
突然すぐ隣から声がして、身体が跳ねる。
いつの間にか、先輩が隣に立っていた。
「はっ、はい?」
「電話、鳴ってるけど」
「えっ……」
振り返ると、バッグの中から振動音がしている。
……綾野君、かな。
「一緒に行こうか?」
「……へっ!?」
思わず先輩を見る。
「このままじゃ良くないんじゃねーの?」
それは。
そうなんだけど。
「西嶋先輩だって」
「俺は関係ないだろ」
胸の奥が、ずきっと痛んだ。
どうしてだろう。
後ろめたさはある。
綾野君に何も言わず、昔の恋人の部屋にいる。
それなのに、家へ帰りたくない。
綾野君に会いたくない。
「……食事が終わったら。一人で、戻ります」
「あ、そう」
西嶋先輩は、関係ない。
そうだ。
関係ない。
だったら。
どうして「一緒に行こうか」なんて言ったんだろう。
先輩が何を考えているのか、相変わらず全然わからなかった。
プロシュートとルッコラのサラダ。
ホタテのアヒージョ。
クリームチーズに蜂蜜をかけたクラッカー。
出来上がった料理を並べると、小さなテーブルはすぐにいっぱいになった。
「ほとんど酒のアテだな」
「……いま食べたいものを作ったら、こうなったんです」
先輩が料理を眺めながら聞く。
「ワインでも開ける?」
「そうですね」
返事をしてから、ふと思う。
酔わなきゃ、勢いがつかないかもしれない。
今日、このあと帰ったら。
綾野君と、ちゃんと話そう。
安易にお酒へ手を伸ばしたせいか、気づけばずいぶん気分が良くなっていた。
普段なら口にしないことまで、ぺらぺらと出てくる。
「私だって、好きになって、きちんと両思いで付き合ってみたいですよ?」
膝の上にトラを抱き、勢いよく言う。
「そんなにすぐ恋に落ちて、簡単に誰かを好きになるとか、私にはわからないです」
先輩が「いつも好きでもないやつと付き合ってる」なんて言うから。
お酒の力を借りて、私はずっと言いたかったことを力説していた。
「へぇ」
「ゆっくり、穏やかに育むっていうのもあるじゃないですか」
「学生じゃあるまいし」
「だからー、学生でもっ!」
「じゃあ、綾野は?」
「……綾野君の話なんてしてませんから。今してるのは、先輩の話でっ……」
そこまで言って。
止まった。
……あれ?
「……俺?」
「……そうですよ」
先輩が少し首を傾げる。
「なんで俺?」
なんで、って。
それは。
私がこうなっている原因が、先輩だから。
――って。
「桐谷?」
「……ちょっと、タイム」
「なんだそれ」
自分で言いながら、頭の中を整理しようとする。
ちょっと待って。
西嶋先輩と終わってから、私は何人かの人と付き合った。
でも、私にとっては誰もが同じようなものだった。
――こんなものか。
デートをして。
触れ合って。
その先には、もっと大きな愛情があるんだと思っていた。
でも実際は違った。
一緒にいれば情は湧く。
嫌いなわけじゃない。
だけど、自分を見失うほど誰かを好きになったことはなかった。
そして最後にはいつも。
今のように、相手から「終わらせて」ほしくなる。
私は誰かに執着できない。
でも。
それと西嶋先輩が関係あるはずなんて。
ない。
――なのに。
私は膝の上のトラを撫でながら、ぽつりと聞いた。
「先輩、どうして」
「――何?」
「あのあと、どうして私のこと無視したんですか?」
一瞬。
先輩の表情が止まった。
「桐谷が、そうしてほしいのかと思ったから」
――え?
「私が、ですか?」
「好きでもないのに付き合ってる、ってのは……酷いよ」
その言葉に、息が止まった。
私は。
好きだった。
ただ、突然すぎて、びっくりしただけだった。
一緒に登下校するのが楽しかった。
あまり笑わない西嶋先輩が笑うと嬉しくて、どうすればまた笑ってくれるだろうと、いつも考えていた。
身長差のある肩を並べて歩くことも。
先輩が指を絡めてくれるたびに、胸がどきどきしたことも。
二人で見た花火も。
今でも覚えている。
そして。
最後に見た、先輩の申し訳なさそうな顔も。
忘れたくても、忘れられなかった。
私の中にはずっと、あの日の後悔が根を張っている。
私が悪かったんだ。
私が未熟だったから。
あの人を傷つけた。
そう思っていたから。
そのあと私は、自分の「初めて」を簡単に手放した。
けれど、それは特別な思い出にはならなかった。
むしろ、できることなら記憶から消してしまいたいものになった。
恋なんて。
ちっとも、いいものじゃない。
ずっと、そう思ってきた。
私は顔を上げた。
「私、やっぱり今日は帰りません」
先輩がこちらを見る。
私が前へ進めていないのは、きっとあの日の後悔が残っているからだ。
だったら。
「泊めて、ください」
「最初からそのつもりだったけど」
何を今さら言ってるんだ、という顔をされる。
私は勢いのまま、前のめりになった。
「お風呂、借ります。着替えも貸してくれませんか?」
「……あ? ああ」
そうだ。
さっき、西嶋先輩も言っていた。
『酔ってみれば?』
って。
……いや。
もう十分、酔っぱらってるんですけどね。
でも、これはきっと。
なるべくして巡ってきたチャンスに違いない。
過去の恋に囚われて、ずっと前へ進めなかった私の。
転機だ。
「あ、でも先輩、お先にどうぞ」
「いーよ。洗い物しとくから、お前入ってこいよ」
「……では、お言葉に甘えさせて……」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、足元がふらついた。
……ワインって、結構酔う。




