8話 戻れない理由
『俺の時もそうだっただろ』
あの時、向き合えなかった人が、今、目の前にいる。
何年も前の話だ。今さら掘り返さなくてもいい。そう思って、ずっと触れないように避けてきたのに。
『好きじゃない人となんて付き合いません』
そう言い返そうとして、私は言葉に詰まった。
今、西嶋先輩が話しているのは【現在の綾野君と私】の話であって、【過去の先輩と私】の話ではない。それに、先輩と付き合っていた頃と、綾野君と付き合っている今では、状況だって違う。
「そんなこと、西嶋さんだって同じじゃないですか」
私を拒否したのは、先輩だって同じじゃないか。
『俺の時もそうだっただろ』なんて、一方的すぎる。
思春期の男子高校生なんて、付き合っている女の子なら誰だってよくて、うまくいかなければ、はい、さようなら。
あの頃の私は、そう受け取った。
この人は私に、そういう扱いをした。
「だいたい、西嶋さんのせいですから」
酔っぱらいに絡むなんて、私も相当たちが悪い。でも、この際だ。私だって言いたいことを言ってやる。
「――俺の?」
「そうですよ」
「俺の、何が?」
「西嶋さんが、私を抱きそこねるから……」
口にした瞬間、自分が何を言おうとしたのか理解した。
……あ。
しまった。
西嶋先輩の目が、わずかに細くなる。
「じゃあ、もう一度試してみる?」
心臓が跳ねた。
きっと私も酔っているのかもしれない。
お酒じゃなくて、この状況に。
「た、試してみる、って……」
自分からあんなことを口にしておきながら、もう尻込みしている。
先輩は少しだけ私を見て、それから何事もなかったように視線を前へ戻した。
「予定変更。そこで買い物して、家で食べる?」
「……えっ」
指さした先には、明るいスーパーの看板があった。
「桐谷の手料理で」
「……ええっ」
「外のほうが安心?」
「安心っ……て」
意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
「また押し倒されたら、って?」
「……っ!」
顔が一気に熱くなる。
「しないよ、もう」
「や、やめてください。そんな風にいじるの」
「その話題に持ってったのは、そっちだろ」
「……ち、ちょっと。西嶋先輩がっ……」
言ってから、気づいた。
――あ。
つい口から、『先輩』という呼び方がこぼれた。
西嶋先輩が、少し意味ありげに笑う。
「先輩、……ね」
「……」
もう。
そんなところを拾わなくてもいいのに。
先輩は「ほら」と言って、私の前に手を差し出した。
「何ですか、これ」
わかっているくせに、聞いてしまう。
「手、繋がなくていーの?」
「なっ、何でそんな――」
「あ、信号」
先輩が言ったのとほとんど同時に、横断歩道の信号が点滅を始めた。
私は反射的にその手を握った。
「え、ちょっ――」
二人で走り出す。
途中、足がもつれてよろけそうになったけれど、繋いだ先輩の手が私を引き上げてくれた。
なんとか渡り切った頃には、私は肩で息をしていた。
「はぁ……っ。走る必要ありました?」
隣を見ると、先輩は息ひとつ乱していない。
「ほら」
その指が示した先へ目を向ける。
タクシーが停まり、後部座席から男が降りてきた。
綾野君だった。
息が止まる。
「また、渡る?」
「――え?」
「あっち側に」
先輩は、ずるい。
反対側の歩道を歩く綾野君の姿を見ると、なぜだか急に胸が苦しくなった。
――今なら、まだ。
戻れる。
そんな考えが頭をよぎった。
「いいよ」
「えっ?」
「行けば?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
私はここで、何をしているんだろう。
彼氏がいるのに、昔の恋人と手を繋いで。
どうして。
どうして私は、西嶋先輩の手を振りほどけないんだろう。
「ああ、ごめん。これじゃ行けないか」
先輩の声と一緒に、絡んでいた指先がほどかれた。
信号が青に変わる。
ずるい。
西嶋先輩は、ずるい。
行けと言いながら、私に選ばせる。
自分からは、何ひとつ引き止めない。
「いっ……」
一歩踏み出そうとしても、足が重くて動かなかった。
「行きません」
私がかたくなに言い切ると、先輩がぶはっと吹き出した。
「行かないのかよ」
「だから、ここにいるんじゃないですか」
「あ、そ」
笑っていた先輩の顔から、すっと表情が消える。
「で、どうする?」
私たちに気づかないまま、綾野君は路地の向こうへ消えていった。
「どっ、どうするって……」
「買い物してくか、どっか店行くか」
……あ。
そっちの話か。
ちらりと、自分のマンションの方角を見る。
外をうろうろしていて、もし綾野君に出くわしたら面倒なことになる。
「……かっ、買い物しましょう」
仕方ない。
もう、なるようになれだ。
私は西嶋先輩と一緒に、目の前のスーパーへ入った。
「うち、なんもないから。欲しいのあったら言って」
「……」
自炊、しないんですか。
彼女は?
そんな疑問が頭に浮かんだけれど、なぜか口にはできなかった。
棚に並んだ商品を眺めながら、私は気持ちを切り替えるように尋ねる。
「西嶋さんは、何か食べたいものあります?」
「酒以外で」
その言葉に、ぷふっと笑ってしまった。
「酔ってないほうがいいんだろ?」
「そ、そんなこと……」
「桐谷は飲めば?」
「私だって、そんなに強いわけじゃないですから」
「そうじゃなくて」
「え?」
先輩が、私を見る。
「酔ってみれば?」
その言葉が、妙に近く聞こえた。
それって。
どういう意味――。




