7話 自然消滅
「付き合う」ことがどんなことなのか、最初はわかっているようで、何もわかっていなかった。
「西嶋先輩とどう?」
昼休み、祐実がそう聞いてきた。
「どう、って」
祐実には、中学の頃から付き合っている別の高校の彼氏がいる。私にとっては、いわば恋愛の先輩だ。
西嶋先輩と付き合うようになってから、メールをしたり、電話をしたり、一緒に登下校したりはしている。でも、それだけだった。
「てか、二人はどこまで進んだの? 家行った? 猫の写メばっかり眺めてないで、猫に会いたいって言って家押しかければ?」
「ちょっと、猫じゃなくてシロちゃんて言って」
「ダメだこれ」
祐実が呆れた顔で私を見る。
言いたいことはわかる。
でも、私たちはまだ手を繋いだだけだった。
「西嶋先輩の写真とかないの?」
「そんなのないもん」
「……」
なら貰えばいいじゃん。
そう言いたげな顔をする祐実に、私は「もう、いいの」と返した。
西嶋先輩と付き合い始めてから、二ヶ月が経っていた。
夏休みが明けて、季節は少しずつ秋へ向かっている。それでもまだ残暑は続いていた。
先輩はサッカー部を引退して受験勉強中で、私は吹奏楽部がある。朝は一緒に学校へ行けても、放課後まで毎日一緒というわけにはいかない。
付き合い始めてすぐ夏休みに入ったこともあって、休み中にしたデートらしいことといえば、一緒に花火大会へ行ったくらいだった。
「私だって、シロちゃんに会いたいよ」
「猫? 先輩といちゃつきたいからじゃなくて? じゃあ、そう言えばいいじゃん」
「やだ、そんなの無理」
「ってか、猫に会いたいって! おかしいでしょ、そうじゃないでしょ!」
「シロちゃん」
「……シロちゃんじゃなくてさ。家に行きたいって素直に言いなよ」
そんなの、恥ずかしくて言えない。
先輩の家は、私の家とは反対方向にある。だから、いつも一緒にいられるのは駅までの道のりだけだった。
もう少し一緒にいたい。
そう思うことはある。
でも、その気持ちをどう伝えればいいのかがわからなかった。
最初は、彼氏ができたというだけで浮き足立っていた。けれど、時間が経つにつれて、わからないことばかりが増えていく。
そもそも私は、先輩に「好き」と言われたわけじゃない。
――私だって、言っていない。
そのことだけは、祐実にも言えなかった。
そして私は、「付き合う」ということに終わりがあるなんてことも知らなかった。
ずっと、このまま続くものだとばかり思っていた。
五限目が終わったあと、先輩からメールが入っていた。
【帰り、俺の教室で待ってるよ】
その一文だけで、私は舞い上がった。
部活中もなんとなく落ち着かなくて、終わるとすぐに先輩の教室へ向かった。
三年生の教室を覗くと、先輩は机に座り、参考書を開いていた。
「お待たせしました」
教室の入口から、ひょこっと身を乗り出す。
「びっくりした」
突然声をかけたからか、先輩が笑った。
へへ、と私もつられて笑う。
「入ってきていーよ」
言われるまま中へ入る。
自分の教室と同じような机と椅子が並んでいるのに、三年生の教室というだけで、なんとなく違う場所のように感じた。
遠慮がちに近づくと、先輩が前の席を指さした。
「ここ、座っていーよ」
私は椅子を引き、そのまま黒板に向かって腰かけた。
「そうじゃなくて」
後ろから笑い声がする。
振り向く。
「なんでそっち向いてんだよ」
夕陽が窓から差し込み、先輩の笑顔を照らしていた。
その光景が、妙に印象に残った。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような感覚がした。
それなのに、顔は勝手に緩んでしまう。
私は椅子を向き直し、先輩の机の上に広げられている参考書を覗き込んだ。
全然わかんないなー。
そう思って顔を上げる。
思っていたよりずっと近いところに、先輩の顔があった。
目が合う。
その瞬間だけ、時間が止まったように感じた。
「キス、していい?」
先輩の声で、止まっていた時間が動き出す。
心臓が、一気に激しく脈打った。
私は反射的に人差し指を伸ばし、先輩の唇にそっと触れた。
驚いたように見開かれた目を見たまま、その指をゆっくり自分の唇へ運ぶ。
「かっ、間接……キ……」
ス、です。
そう続けようとした言葉は、先輩の唇にかき消された。
一度離れた唇は、すぐにまた戻ってきた。
今度はさっきよりも長く、深く重なった。
どのくらい時間が経ったのかは、よくわからなかった。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなり始めていた。
恥ずかしくて先輩の顔をまともに見られなかった私には、その薄暗さがありがたかった。
「暗くなったな」
先輩が少し照れくさそうに言い、帰る準備を始める。
教室を出て、廊下を数歩進んだところで、先輩が自然に私の手を取った。
そのまま駅まで、手を繋いで歩いた。
先輩の手は大きかった。
家に着いてからも胸の高鳴りはなかなか収まらず、その夜はしばらく眠れなかった。
その日から、私たちは何度か秘密の放課後を過ごした。
人のいなくなった教室で二人きりになって、話をしたり、キスをしたり。
暗くなると危ないから、と先輩が家まで送ってくれるようにもなった。
季節が進み、少し肌寒くなってきた頃。
私はやっと、
「シロちゃんを見に、先輩のお家に遊びに行きたいです」
と言った。
先輩は受験生だ。
邪魔をしたくない気持ちもあって、なかなか言い出せなかった。
自分が先輩の足枷になるのは嫌だった。
先輩は「いつでも」と言ってくれた。
十月の祝日。
午後一番。
それなりに身構えて先輩の家を訪ねたものの、家にいたのは先輩と、ミケとシロだけだった。
ご家族が不在だと知り、少しだけほっとする。
「ミケとシロにもお土産だよー」
すっかり大きくなったシロと、シロより一回り大きなミケ。
けれど二匹とも人見知りするのか、私を見るなりどこかへ消えてしまった。
……悲しい。
「まあ、猫だからさ」
「やっぱり飼い主じゃないからですよね」
「また来ればいいじゃん。そのうち慣れるだろ」
ははっ、と先輩が私を見て笑う。
ずるいなあ、もう。
先輩が笑う姿が、私は一番好きだった。
「何度も通います」
そう言いつつも諦めがつかず、何度かシロたちを追いかけてみたけれど、まるで相手にされなかった。
今日はもう諦めよう。
そう思ってリビングのソファに腰を下ろした時だった。
「俺の部屋に行く?」
一瞬、返事に迷った。
無邪気すぎたんだろうか。
それでも私は、小さな声で「はい」と答えた。
二階へ上がり、先輩の部屋に入る。
当然だけれど、私の部屋とはまるで違う。
初めて入る異性の部屋というだけで、緊張がさらに増した。
この家に来た時からずっと緊張していたのに、ここにはもう、猫と戯れるという逃げ場もない。
勉強机とベッド。
テレビ台の前には、小さなローテーブル。
私はそのローテーブルとベッドの間に座った。
「なんか飲む?」
「だっ、大丈夫ですっ」
「……そう?」
大丈夫です、って何が大丈夫なんだ。
急に喉が渇いてきた。
や、やっぱり何か……。
そう言おうとした、その時。
すとん、と先輩が私の隣に座った。
驚いて、言葉が止まる。
……く、来る。
そう思って、ぎゅっと目を瞑った。
先輩の気配が近づく。
唇に、柔らかい感触が触れた。
何度しても、まだ慣れない。
身体はぎこちなく固まったままだった。
それでも、キスは何度か経験していた。
だから。
そこまでは、いつもと同じだった。
ぐい、と身体に圧がかかった。
次の瞬間には、私の身体は床に横たわっていた。
先輩が、私に覆いかぶさるようにして上から見ている。
突然だった。
気持ちが、まったく追いつかなかった。
恋に興味を持ったのだって、つい最近のことだ。
キスだって、まだうまくできない。
彼女らしく振る舞うことも。
何も。
まだ、何もわからない。
先輩の手が、ニットの裾から入ってきた。
ひんやりした手のひらが、私の肌に触れる。
恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて、私はただ目を閉じた。
これが当たり前なのかもしれない。
付き合っているなら、この先へ進むものなのかもしれない。
でも、その先に何があるのか、私には何ひとつわからなかった。
もっと祐実に聞いておけばよかった。
そんなことを頭の中でぐるぐる考えているうちに、先輩の手がさらに動いた。
その瞬間。
「……やだっ!」
身体が先に反応した。
私は無意識に、先輩の身体を押し返していた。
「かっ……帰ります」
先輩の驚いた顔を見て。
たぶん、一番驚いていたのは私だった。
あの時のことは、あとになって思い返しても、どうしてあんなふうに逃げてしまったのか、自分でもよくわからなかった。
先輩のことは好きだった。
一緒に登下校するのも楽しかった。
メールなら少し甘えられるのに、電話になるとうまく話せなくなったり。
実際に会えば、まだ緊張したり。
そういうものは、時間が解決してくれるんだと思っていた。
私が未熟すぎたのかもしれない。
先輩の進む速さに、ついていけなかっただけなのかもしれない。
でも、そのあと私は謝るきっかけを失った。
気まずいまま時間だけが過ぎ、冬休みに入ってしまった。
休みが明けて。
勇気を振り絞って送ったメールは、宛先不明で戻ってきた。
そのあとも、何度も謝ろうと思った。
けれど、メールを拒否されたのだと思うと、声をかける勇気が出なかった。
もう私のことなんて、嫌いになったに違いない。
そう思った。
そして。
何も言えないまま。
西嶋先輩は卒業していった。




