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第九章 主語のない会社

【ここまでのあらすじ】

外部委託で作られた炎上と、書き換えられた事故記録。二つを同じ〈KLS INSIDE〉で束ねたまま、会社は「一連の捏造」を選んだ。真帆、大和田、松永には措置が下り、告発者の名前だけが外へ流れていく。塔子は翌日の記者会見原稿を渡された。読み上げ者欄には、すでに自分の名前が入っていた。


---

午後四時六分、自宅待機の大和田と、職務停止中の松永と、全権限を失った真帆は、顧客相談室の第三会議室にいた。


「自宅待機の人が会社にいるの、規程上は大丈夫なんですか」


大和田が訊いた。


「法務の事実確認に呼びました。今は待機命令の範囲内です」


九条が答えた。


「帰れと来いを同じ命令に入れられるんですね」


「会社の文章は便利です」


塔子は、佐伯の会見原稿を机の端へ置いた。


第三会議室には窓がなかった。大型モニターもない。あるのは、顧客相談の研修で使う小さなホワイトボードと、五脚の椅子と、保留音の設定表だけだった。


野々村が六脚目を隣室から持ってきた。


「広報室より狭いですね」


「会社から人数を減らされたので、ちょうどいいです」


真帆は椅子を受け取った。


九条が灰色の保全端末を開いた。


「先に言います。法的保全は万能鍵ではありません。保全した資料は法務レビューの目的でだけ閲覧できます。コピーの持ち出し、元データの変更、外部送信はできません」


「鍵じゃなくて金庫ですね」


「中に入っている人が自由とは限らない点も含めて、近いです」


松永が手を挙げた。


「俺の説明を、監査等委員会へ出してくれ。照会を隠したことも、素材を渡したことも、八時五十六分に気づいて止めなかったことも、全部書く」


「出します。ただし、証拠の中心には置きません」


「なぜだ」


「あなたが明日、発言を撤回しても崩れないようにするためです」


九条は大和田を見た。


「羽鳥さんの証言にも、大和田さんの記憶にも依存しません。人は圧力を受ける。間違える。黙る。証言は必要ですが、証言だけで作った鎖は、証人を一人外せば切れます」


「全員を疑うんですね」


「全員が嘘をついても残るものを探します。そのほうが、正直な人を守れます」


塔子はホワイトボードを二つに分けた。左に〈炎上〉、右に〈事故記録〉と書く。


「出所ではなく、時刻と保存場所で並べます」


九条が最初の資料を出した。


金曜午後五時三十八分。東都新聞からの照会は、メールジャーナルに残っている。


五時四十三分。問い合わせ番号18472が松永の担当へ移る。


五時五十分。表示範囲が担当者だけに変わる。


「ここまでは、俺の操作だ」


「操作履歴だけでも分かります」


九条は言った。


「説明は、なぜしたかを補ってください。したかどうかは、履歴に任せます」


二枚目は、金曜夜に完成していた反論資料の版履歴だった。


午後八時十四分。元映像と加工版の波形比較、編集点、想定問答十一問を含む版が保存されている。その後に変わったのは、月曜朝の投稿URLと再生数だけだった。


「炎上を見て作った資料じゃない」


大和田が言った。


「照会の二時間三十六分後。炎上の六十時間四十六分前です」


塔子は左側へ時刻を書いた。


「細かいですね」と真帆。


「四分を見落としたので」


三枚目には、月曜午前八時五十六分の監視アラート。四枚目には、九時開始と記されたアークラインの進行表。


「警報と開演時間」


真帆が言った。


「比喩は要りません」


「私の比喩です」


松永は何も言わなかった。


九条が五枚目を開いた。〈ナラティブ耐性化演習〉の追加実施指示書。金曜午後六時十一分に起案され、六時二十四分に決裁されている。


決裁者欄には〈佐伯諒〉。


添付された納品物は、初動投稿シナリオ、反証素材、監視先行アラート。


「これで、炎上側は五つです」


「五つじゃない」


大和田が言った。


「一つのことを、五か所が覚えてる」


「その言い方を採用します」


塔子は左側の下に一本、線を引いた。


右側には、二つ置いた。


一つは、三月十八日の事故から九十五日後に塔子が初めて書いた〈ご家族への十分な説明を実施済み〉という文が、三月の事故記録へ入っていること。


その下に、塔子は〈誰に/何を/未回答〉と書き足した。六月のFAQには、どれもなかった。


もう一つは、施設端末の未応答と、中央側だけにある午前三時ちょうどの〈対応確認済み〉だった。


「今ある端末ログは、告発資料に添付された青葉台の写しです」


九条が言った。


「出所を攻撃されたら弱い。施設から原本を受け取る必要があります」


野々村は、顧客相談室の電話を引き寄せた。


「三施設とも、私が話します」


「製品部門から圧力をかけたと言われます」


「では、圧力に聞こえない頼み方を考えてください」


「頼み方で圧力を消したことにはできません」


「そういうところは信用しています」


一件目、ケアホーム青葉台。野々村は、会社側の説明が正しかったかを調べている、と最初に伝えた。


「御社の操作が正しかったと証明するためではありません。御社が操作したのか、していないのかを、御社に残る記録で確かめたいんです」


相手が長く話した。野々村は途中で遮らなかった。


「はい。会社へ都合よく使いません。都合が悪くても、削りません」


二件目のみずほ苑は、弁護士を通すことを条件に同意した。


三件目のグループホーム汐見は、最初に断った。


『また、うちが確認を忘れたことにするんでしょう』


受話器から、男性の声が漏れた。


「その説明をしたのは、当社です」


野々村は言った。


「その説明が事実だったかを調べます。施設のせいにしないという約束では足りないなら、施設のせいにできない形で、法務へ直接渡してください」


三秒後、男性は送付先を訊いた。


午後七時三十三分までに、三施設から原本が届いた。あとから変わっていないと確かめるため、九条は受領時のハッシュ値を記録した。


青葉台とみずほ苑は、異常検知が未応答のまま残っていた。汐見は古い事象行の一部が保存期限で欠けていたが、午前二時四十分から三時十分まで、職員による確認操作は一件もなかった。


三施設のどの端末にも、午前三時の操作はない。


中央サーバーだけが、三件を同じ秒に確認済みへ変えていた。


「これで羽鳥さんが戻らなくても、記録の差は残ります」


大和田の声は、安心したようには聞こえなかった。


「戻らなくていい、という意味ではありません」


野々村が言った。


「戻るまで、事実を止めなくていいという意味です」


真帆は、保全されていた投稿データを紙へ広げた。


「炎上のほうも、一つ訂正があります。作ったのは、最初の道だけです」


最初の十五分を運んだ中心は四十一アカウント。その後に投稿した人の大半は、数か月から数年の履歴を持つ実在の利用者、家族、介護職だった。共通の投稿時刻も、同じ文面もない。


「じゃあ、怒った人は騙されたんですか」


大和田が訊いた。


「そう書くと、会社がまた被害者になれます」


真帆は一枚の投稿を指した。


〈母が認知症です。切り抜きだと分かっても、あの言葉が簡単に信じられたことが怖い〉


「この人の怒りは、アークラインから届いてません。入口を渡されただけです」


「私が言っていないことで傷ついた人も、本当に傷ついた」


野々村が言った。


「会社が利用したあとで、あなたたちは愚かでした、とは言えません」


塔子は、佐伯の原稿にある〈悪質な偽情報の被害を受けた〉へ線を引いた。


「会社は、被害者の席から話せない」


午後九時十八分、九条は保全資料、三施設の原本、投稿分析を監査等委員会へ送った。


送信が終わるまでの十数秒、誰も画面を見なかった。窓のない部屋で、空調だけが同じ強さで鳴っていた。


「臨時取締役会は、明日午後一時です」


「決まったんですか」


「今、決まりました。佐伯執行役員にも通知されます」


「僕らは出られますか」


「大和田さんと椎名さんは、法務の補助者として待機。松永さんは、証言者として呼びます」


「久瀬は?」


松永が訊いた。


「会見説明者です」


机の端には、佐伯が承認した原稿がある。


塔子は新しい文書を開いた。


「二本作ります」


「嘘と本当を?」


真帆が訊いた。


「承認された原稿と、確認できたことだけを書く原稿」


「同じ意味に聞こえませんね」


「同じなら、二本は要りません」


一本目は、〈動画および関連文書は、一連の捏造です〉から始まっていた。


二本目の最初に、塔子は〈当社は〉と書いた。


午後十一時四十二分、第三会議室に残っていたのは塔子だけだった。


六脚の椅子が、空いたまま机を囲んでいた。机には二本の原稿と、三人への措置通知、自分への業務継続通知がある。


通知を閉じると、翌朝の最終審査がカレンダーに現れた。通知にも予定にも、塔子が変更できる項目はなかった。


佐伯の原稿を読めば、三人の処分を軽くできると、佐伯は言った。その約束は、どの文書にも書かれていない。読まなければ、処分は軽くならないかもしれない。製品を止める判断になったとき、夜勤一人の施設で誰が巡回を増やすのかも、塔子の原稿には書けなかった。


午前零時十一分、塔子は返信欄に〈読みません〉と入力した。


送らなかった。


二本目の原稿へ戻った。〈当社は〉のあとへ、確認できた事実だけを置いた。誰がしたか。何がまだ分からないか。次にいつ答えるか。書くたびに、原稿は長くなった。


午前二時十六分、バックスペースから指を離すのが遅れ、冒頭の〈当社は〉まで消えた。夜間運転の空調は止まらず、塔子の指先は冷えていた。


塔子は両手を膝の下へ挟み、しばらく待った。


それから、〈当社は〉ともう一度打った。


午前七時五十二分、返信欄に〈「一連の捏造」という表現は読みません〉と書いた。


送信ボタンの上へ指を置いたまま、画面の時刻が七時五十三分へ変わった。

---


次章へつづく。


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