第二章 言っていないことを謝る
【ここまでのあらすじ】
月曜午前八時五十六分、投稿件数ゼロのまま炎上警報が鳴った。四分後の午前九時、匿名アカウント〈KLS INSIDE〉が、介護見守りシステムLINOの社内検討会を二十三秒に切り取った動画を投稿する。映っていたのは「認知症の人には、選択肢はいらない」と言う野々村志穂だった。広報の久瀬塔子は原本の確保を指示するが、最初に拡散した四十一のアカウントは、一分二十秒のあいだに整然と並んでいた。燃えたのではない。配られている。
九時十二分、野々村志穂は、第七会議室のドアをノックせずに開けた。
左手のスマートフォンが震えている。野々村は画面を見ず、机へ伏せた。
「投稿するな、と言ったのはどなたですか」
「私です」
塔子が答えると、野々村は一度だけ頷いた。
「名前があるだけ、ましです」
勧められた椅子には座らなかった。動画の中とよく似たグレーのカーディガンで、袖は同じところまで上がっている。そこまでが、この人の仕事着なのだと思わせた。
「原本、出ます」
大和田がノートパソコンを抱えて戻ってきた。
「四十七分十八秒。広報共有庫にはありませんでした。製品企画の議事録に残ってます」
「ダウンロード権限は?」
「申請中です。ただ、待っていたら午前が終わるので、野々村さんの権限で書き出してもらいました」
「手続きの話はあとでします」
野々村が言った。
「今は、私が何を言ったことになっているのか、最後まで見せてください」
大和田が再生位置を合わせた。
大型モニターに、先ほどと同じ会議室が映る。野々村が操作パネルを指し、三つ並んだ選択ボタンのうち、一つだけを大きくした画面へ切り替えた。
『認知症の人には、選択肢はいらない――そう決める側が、いちばん考えなくて済むんです』
映像は、そこで切れなかった。
『選べる数に絞る。順番を変える。いったん保留できるようにする。本人が選べる形を作るのが設計です。私たちが先に選択肢を捨てたら、それは見守りではなく管理になります』
大和田が一時停止した。
「逆ですね」
『意味が、ですか』
モニターの中で九条が訊いた。
「はい」
『倫理もです』
「法務が倫理を認定した」
真帆が呟いた。
『最低かどうかは管轄外です。加工の悪質性は、法的評価に使えます』
「やっぱり法務だった」
真帆は投稿動画と完全版の波形を上下に並べた。完全版で野々村の発言が続く箇所だけ、投稿動画の波形はきれいに途絶えている。
「切り抜きというより、切断ですね」
「その言い方なら、私が切断されたみたいですね」
野々村が言った。
「違いますか」
真帆は返事をしなかった。しないことが、この人なりの謝罪らしかった。
塔子は、梨木から届いていた一次回答案を開いた。
〈当社社員の発言により誤解を招き、皆様にご不快な思いを――〉
「招いていません」
野々村は画面を覗き込んだ。
「まだ案です」
「案の段階なら、人の口に別の意味を入れていいんですか」
『主語を当社へ変えましょう』
別窓の梨木が言った。
『当社の発信により誤解を招いたことを――』
「同じです」
塔子は文案を閉じた。
「野々村さんは、何を謝るべきだと思いますか」
「私は、言っていないことを謝りません」
「会社は?」
「まず、事実を出してください。謝罪は、何をしたか分かった人がするものです」
塔子は新しい文書を開いた。
〈当社は、投稿された動画において、発言直後の映像が削除されていることを確認しました。現在、完全版の公開準備を進めています〉
『「完全版」は「元映像」に』
九条が言った。
「理由は?」
『完全かどうかを、現時点で法務は保証できません』
「四十七分あります」
大和田が言った。
『長さは完全性の証明になりません』
「法務の棚、細かすぎません?」
真帆が訊いた。
『燃えたときに探せるよう、分けてあります』
今度は、冗談だと分かった。たぶん。
真帆の端末が短く鳴った。
「本物、入りました」
「何が?」
「怒ってる人です」
最初の四十一アカウントから枝分かれした投稿の先に、施設名をプロフィールへ記した個人アカウントがあった。
〈母がいる施設でLINOを使っています。本当なら怖い。違うなら、早く説明してください〉
「この人は投稿業者じゃありません」と真帆は言った。「三年前から介護日記を書いてる。最初の四十一は配られてます。でも、受け取った先の不安まで作り物じゃない」
野々村が、伏せていたスマートフォンを裏返した。通知は百件を超えていた。
「この人に返してください」
「個別には返せません」
「では、全員に」
野々村の声は大きくなかった。そのぶん、会議室のどこにも逃げ場がなかった。
「偽物を作った人のせいで、本当に怖がっている人まで偽物にしないでください」
塔子が一次回答へ手を戻したとき、大和田が投稿動画を拡大した。
「ここ、原本にないです」
画面の左上、映像の縁に白い点が四つ並んでいた。三つ目だけが、わずかに下へずれている。
「照明の反射では?」
野々村が訊いた。
「反射は、九十フレームごとに同じ場所へ戻りません」
真帆が動画を送ったり戻したりした。白い点は、同じ間隔で現れては消えた。
「配布コピーの識別子です」
松永がネクタイを緩めた。さっきまで締めていたものを、もう緩めている。
「危機対応訓練の素材に入れてる。持ち出されたとき、どのコピーか追えるように」
「この検討会を訓練に使ったんですか」
塔子が訊いた。
「公開前の社内動画を何本か。アークラインの外部演習だ。俺が承認した」
「あの、ナラティブ耐性化演習」
真帆が眉を寄せた。
「名称を聞くだけで耐性が削られるやつ」
「高かったぞ」
「名称にですか」
「演習にだ」
『笑えない金額でしたら、あとで契約書をください』
九条が言った。
「それは法務の冗談か」
『請求です』
松永だけが笑い、すぐにやめた。
『念のため申し上げますが』
梨木の声は、会議の空気が止まる半歩前に入ってきた。
『弊社は演習設計を担当しましたが、素材は御社環境で管理されています。弊社で動画データは保持していません』
「この点の並びが誰のコピーかは?」
塔子が訊いた。
「情シスの配布台帳を見ないと分からない」と松永は言った。「広報室内のコピーは六つ。訓練事務局にもある」
「照会します」
『コピー番号だけを先に――』
「こちらで依頼します、梨木さん」
塔子は言葉を重ねた。相手の踵を、初めてこちらから踏んだ。
『では、証拠保全も同時に』
九条が続けた。
「完全版を出すな」
佐伯の声で、全員の手が止まった。
「理由をお願いします」
塔子は訊いた。
「今出せば、反論を用意していたように見える。批判の論点が出切るまで待つ」
「元映像は、もう確認できています」
「事実を持っているだけで、出し方まで正しくなるわけじゃない」
「私の人格を、論点の採取に使うんですか」
野々村が佐伯を見た。
「社員個人の感情で、明日の審査を危険にできない」
「社員個人の人格なら使える?」
佐伯は答えなかった。
松永が机へ両手をついた。
「少なくとも、編集があることだけ先に出せませんか」
「小出しにすれば論点が増える。元映像、編集点の解析、拡散経路。十一時を目安に一度で出す」
『九時四十分に、論点の重複率を再判定します』
梨木が言った。
「世論が出切ったと、誰が決めるんですか」
塔子は佐伯へ訊いた。
「アークラインの分析を基に、私が判断する」
主語はあった。
だから余計に、不自然だった。
午前九時二十七分。
元映像は確保できた。発言の意味も確認できた。投稿動画が訓練用コピーから作られた可能性も高い。
出せる事実は、もう机の上に揃っている。
それでも、最短の公表時刻は十一時に置かれた。
塔子は、公開待ちの元映像と、増え続ける投稿件数を同じ画面へ並べた。
偽物だと分かってからの二時間を、誰のために空けているのか。




