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第9章『クリスタルヘイムの聖座』

暗雲が、白亜の尖塔を覆い尽くそうとしていた。

テラコッタ大陸の中央に君臨する聖都クリスタルヘイム。数千年の歴史を持つ「にゃんこ聖教」の本山たる大聖堂の最奥には、世界の運命を左右する最高意思決定機関『聖座』が存在する。

ステンドグラスから差し込む微光を浴びて、豪奢な祭壇の前に佇む一匹の巨躯があった。

にゃんこ聖教総主教、レオ2世。

『薄紫のメインクーン』と恐れられ、同時に熱狂的に崇められるその絶対者は、豊潤な、しかしどこか冷徹な気配を纏った薄紫色の長毛を静かに揺らしていた。メインクーン族特有の、強靭な骨格とライオンを思わせる威風堂々たる風格。その鋭い眼光は、いま、机上に広げられた大陸北部の地図の一点へと注がれていた。

「……ノルフィヨルドまでもが、陥落したか」

重厚で、大地を震わせるような低音が聖堂の静寂を破った。

彼の傍らに控えるのは、にゃんこ聖教が誇る最強の武力組織「聖堂騎士団」の重鎮たちだ。彼らもまた、選び抜かれた純血のメインクーンたちであり、白銀の甲冑に身を包んだその姿は、見る者を平伏させる圧倒的な威圧感を放っていた。

「はっ。極北の要塞都市ノルフィヨルドは完全に制圧され、ヴェルデンハーフェン共和国の協定都市として再出発した模様にございます。アムレシア帝国を滅ぼした『ドラゴン・バレーの戦い』に続き、これで北海の利権までもが、あの者たちの手に渡ることとなりました」

聖騎士の一人が、悔しげに爪を床の石畳に軋ませる。

レオ2世の胸中に去来するのは、激しい危機感だった。

かつて狂気の科学者オキシドールによって蘇った古代トラの化身、アムレシアス一世が帝国を築いた時、にゃんこ聖教はその脅威を警戒しつつも、静観を保っていた。なぜなら、アムレシアは「力による支配」という、理解しやすい既存のルールの中で動いていたからだ。

だが、ヴェルデンハーフェン共和国は違う。

あそこを統べるのは、特権階級の申請を拒み、誇り高く「平民雑種」を自称するマンチカンの男――でんすけ。そして、彼を支える闇市の商人たちや、規格外の能力を持つ雑種猫たちだ。彼らはニシンの経済力と海運力を武器に、大陸の数千年の歴史が作り上げてきた「純血種による秩序」を足元から引っくり返そうとしている。

「雑種猫どもが、世界の覇権を握ろうとしている。これは、神の調和に対する明白な反逆だ」

レオ2世は、その巨大な前足を地図の『ヴェルデンハーフェン』の文字の上に叩きつけた。

「アムレシアの戦役において、我が聖堂騎士団は前線で戦った。だがそれは、あの地を『平民雑種』という、血統の濁った泥棒猫どもに明け渡すためではない。純血種のノルウェージャンが雑種に支配されるなどという歪んだ構図を、この私が認めるわけにはいかないのだ」

「総主教聖下、なれば……!」

聖騎士たちが一斉に顔を上げる。その青い瞳には、異端に対する苛烈な闘志が宿っていた。

レオ2世はゆっくりと、祭壇に安置された黄金の聖杖を手に取った。

「大陸全土へ布告せよ。ヴェルデンハーフェン共和国、およびそこに与するすべての猫どもは、神の教えを汚す『異端』であると。本日この瞬間を以て、彼らを破門する。血統の調和を守るため、テラコッタ大陸のすべての清き血を持つ者たちよ、武器を取れ。異端撲滅の聖戦(十字軍)を開始する!」

その咆哮は、聖都の鐘の音と共に、瞬く間に大陸全土へと伝播していった。

「――破門、ねぇ。ずいぶんと大層な名前をつけられたもんだ」

ヴェルデンハーフェン共和国の最高政庁。

現国家元首ドージェであるでんすけは、机の上に放り出された聖都からの檄文を眺めながら、フンと鼻を鳴らした。そのスイカ模様にそっくりな見事な縞模様を持つ顔には、怒りよりもむしろ、呆れたような色が浮かんでいる。

「のん気なことを言っている場合ではありませんよ、でんすけ様。これは闇市の小競り合いとはわけが違います」

冷淡に、しかし完璧な手際で周辺諸国の動向をまとめた書類を整理しているのは、大書記官のアルフォンスだ。純白のラグドールであり、吸い込まれるような青い瞳を持つ彼は、相変わらずひどい寝癖をつけたまま、冷徹な視線ででんすけを見た。

「にゃんこ聖教の総主教レオ2世。通称『薄紫のメインクーン』。彼はアムレシアのクセルクセスや、ノルフィヨルドのボリスのような、私欲で動く俗物とは本質的に異なります。本気で『純血種の血統による世界の調和』を信じている、極めて狂信的で、それゆえに最強の男です」

「分かってるよ、アルフォンスの旦那。だけどさ、俺たち平民雑種が、汗水垂らしてニシンを仕入れて、美味いマタタビを並べて、ようやくここまで街を復興させたんだ。それを『血が濁ってるから異端だ』なんて言われて、はいそうですかって引き下がれるわけねぇだろ」

でんすけは短い四肢でぐっと床を踏み締めた。その『最強の低重心』には、どんな権威にも屈しない大商人の意地が満ちていた。

「おやおや、旦那様。また格好いいことを言って。でも、今回の敵はちょっと毛並みが良すぎるみたいですよ?」

鈴を転がすような声と共に、部屋の扉が開いた。現れたのは、でんすけの妻であるマシロだ。純白の毛並みを美しく整えた彼女は、かつて高級キャットフードを商う貴族階級の令嬢であったが、いまは元首夫人として夫を支えている。彼女の指先からは、薔薇の棘よりも鋭く長い『プリンセスクロー』が、いつでも戦えるように微かにのぞいていた。

「マシロ、心配すんな。俺の『アメイジング・ストライド』は、神仏の加護がなくても絶好調だ」

「フッ、頼もしいねぇ、国家元首殿」

部屋の窓から、音もなく一匹の猫が滑り込んできた。ベンガルと茶トラのハーフ、サスケだ。豹柄とトラ柄が混ざり合った独自の毛並みを持つ彼は、超低音の驚異的なイケボを響かせながら、肩をすくめた。

「だが状況は最悪だぜ。聖都の『聖堂騎士団』が動き出した。メインクーンの聖騎士どもが、周囲の純血種の諸国を糾合して、こっちに向かって進軍を始めてる。その数、なんと二万。おまけに、テラコッタ大陸全土の流通網が『聖教の破門』を恐れて、我が国との貿易を停止し始めやがった。このままじゃ、ニシンの倉庫は満杯、マタタビの買い手はゼロ、国全体が干からびる」

「二万だと……!?」

でんすけの顔がさすがに険しくなる。ヴェルデンハーフェンの防衛軍は、ノルフィヨルドの戦役を経て再編中であり、動かせる兵力は旧アムレシアのノルウェージャン精鋭部隊を合わせても、せいぜい四千足らず。数的な不利は圧倒的だった。

その時、部屋の影から巨大な影が姿を現した。サバトラの正統派マッチョ、ムサシだ。ヘリング軍の軍団長である彼は、無口な表情のまま、巨大な木刀を背中に背負い、低く呟いた。

「……マリアから、連絡。聖都の息がかかった伏兵が、すでに我が国の南の国境、ローゼンバッハ川の対岸に集結しつつある、と。奴らの狙いは、この国の防衛線が整う前に、一気に本陣を急襲することだ」

「なるほど。流石は薄紫のメインクーン、手が早いな」

アルフォンスがふっと美しく、しかし残酷な微笑を浮かべた。

「でんすけ様。向こうが神の名の元に僕たちを撲滅しにくるというのなら、こちらは『商人の生存戦略』を見せてあげましょう。数的に正面からぶつかれば圧勝される。だからこそ――こちらの『不確定要素』を最大限に突っ込む必要があります」

アルフォンスは地図の上に、一本の線を引いた。それは、聖堂騎士団の本隊が通るであろう、険しい断崖に囲まれた『聖なる巡礼路』を示していた。

「神聖な戦いだと思い込んでいる奴らの鼻柱を、僕たちの泥臭い戦術で叩き折る。準備を始めましょう」

夜霧が深く立ち込めるローゼンバッハ川。

ヴェルデンハーフェン共和国の南の防衛線であるこの大河の対岸には、にゃんこ聖教の先遣隊――純血種の長毛猫たちで構成された『異端撲滅義勇軍』が陣を敷いていた。彼らは聖堂騎士団の到着を待たず、雑種猫の国を蹂躙して手柄を立てようと息巻いていた。

「ふぅ……。今日も聖なる名の下に集まった、退屈なオスばかりね。どいつもこいつも、血統の誇りだなんだと口うるさい割には、中身がペラペラなんだから」

川岸に建つ『ヴェルデンハーフェン大修道院』の夜の姿――混沌の坩堝たる不夜城の最奥。

豪奢な天蓋付きのベッドに横たわっていたのは、ペルシャ混じりの妖艶な美人猫、マリアだった。昼は厳格な修道院長、夜はドラッグクイーンとして君臨する彼女は、煙管からマタタビの煙を妖しく吹き出した。

「お姉さん、そんなところで何をしているのかな?」

闇の中から、白銀の甲冑を着た聖堂騎士団の斥候――メインクーンの巨漢が姿を現した。彼はマリアの異様なセクシーさに目を奪われつつも、冷酷な笑みを浮かべた。

「ここは異端の土地だ。大人しく捕縛されれば、神のお慈悲で苦しまずに済ませてやるが――」

「あら、メインクーンのお兄さん。そんなに硬い鎧を着て、肩が凝らないかしら? アタシが少し、解してあげるわ」

マリアがベッドからしなやかに舞い降りた。その動きはセクシーでありながら、一瞬の隙を突いてメインクーンの巨漢の首を股間に挟み込んだ。

『三角絞め』!!

「がっ……は……!? な、なんだこの、圧倒的な……セ、セクシーさと、絞め……技……!」

巨漢の聖騎士は、恐怖と歓喜の混ざり合った涎を垂らしながら、白目をむいて失神し、ドサリと崩れ落ちた。

「神様にお祈りする暇もなかったわね。ツケはしっかりあの世で払ってもらうわよ」

マリアが妖艶に微笑んだ瞬間、修道院の窓からサスケが飛び込んできた。

「マリア、時間だ! 敵の先遣隊が川を渡り始めたぜ!」

「よし、男たちの泥仕合に、華を添えに行きましょうか!」

河原へと飛び出したマリアとサスケの前に、数千の義勇軍が押し寄せる。

「雑種どもを蹂躙せよ! 聖座に勝利を!」

叫ぶ純血種の騎士たちに対し、サスケが夜空を舞った。『おたまじゃくしのペントラ模様』を闇に紛れ込ませながら、驚異的な運動神経で空中を回る。

『バックフリップコークスクリュー720°(セブントゥエンティ)』!!

超高速の回転を伴った肉弾攻撃が、先遣隊の陣形を容赦なく粉砕していく。

さらに、闇の中から地鳴りのような足音が響いた。ムサシだ。彼は両手で敵の突撃兵をスリーパーホールドに捉えると、そのまま驚異的な跳躍を見せ、両足の爪を高速で突き出した。

『百烈蹴り』!!

大陸特有の赤い岩石をも粉々に砕く連撃が、義勇軍の鋼鉄の盾を木端微塵に破壊する。敵が恐怖に慄いたその瞬間、ムサシは突如としてその場で腕立て伏せの姿勢からジャンプし、空中で両手を三回叩いた。

伝説の『オットセイ・ターン』である。

あまりのシュールさと、筋肉から滲み出る異様なセクシーさに、敵の純血種のメス兵士だけでなく、一部のオス兵士までが「な、何だあの動きは……気高き我が心が、洗われるようだ……」と呆然と立ち尽くした。

「今だ、でんすけさん!」サスケが叫ぶ。

「待たせたな、血統至上主義の勘違い野郎ども! これが闇市を舐めたツケだ!」

泥にまみれた黒い商人の前掛けを締めたでんすけが、その短い足を爆発的な速度で回転させ始めた。

『アメイジング・ストライド』!!

低重心ゆえに空気抵抗を極限まで減らした彼の突撃は、雪崩のように敵の本陣へと飛び込む。

「短足の気をつけ姿勢」で一発のロケット弾と化したでんすけは、敵の指揮官の脳天へと一直線に突き刺さった。

『ロケット式ヘッドショット』!!

ドゴオオオン!!!

凄まじい衝撃波が河原を駆け抜け、義勇軍の先遣隊は文字通り将棋倒しとなり、壊滅した。

「ば、馬鹿な……! 我ら気高き純血種が、あんな短い足の頭突き一本で……!」

這いつくばる敵兵たちを見下ろし、でんすけは不敵に笑った。

「短足ってのはな、倒れようにも倒れない『最強の低重心』って意味なんだよ! 覚えておきな!」

だが、勝利の余韻に浸る時間はなかった。地平線の向こうから、本物の絶望が近づきつつあったからだ。

翌朝、険しい断崖に囲まれた『聖なる巡礼路』。

太陽の光を浴びて、薄紫色の長毛を美しくなびかせながら、総主教レオ2世率いる『聖堂騎士団』の本隊二万が、堂々たる進軍を続けていた。

白銀の甲冑が連なるその隊列は、まるで光の河のようであり、大陸最強の武力の威容をこれでもかと見せつけていた。

「総主教聖下、先遣隊がヴェルデンハーフェンの雑種どもに撃破されたとの報が」

聖騎士の報告を聞いても、レオ2世の峻厳な顔はピクリとも動かなかった。

「ふん、烏合の衆の義勇軍など、所詮はその程度だ。だが、我が聖堂騎士団のメインクーンたちの前には、マンチカンの玩具のような突撃など通用せぬ。神の調和の前に、すべての雑種は平伏するのだ」

その時、巡礼路を囲む切り立った断崖の頂に、ひとつの影が現れた。

美しきラグドール、アルフォンスだ。彼は風に白い毛並みをなびかせながら、手にした采配を静かに見下ろした。

「これより、我が共和国の真の力――否、『商人の知恵』を示します。総主教レオ2世、神の加護が物理法則に勝てるか、試してみましょう」

アルフォンスが采配を振り下ろした瞬間、断崖の上流に仕掛けられていた罠が発動した。

それは、かつてアムレシアやノルフィヨルドの戦いでも敵を恐怖に陥れた、海運国ヴェルデンハーフェンならではの最悪の泥流だった。

渓谷の堰が一気に決壊し、大量の水と共に流れ込んできたのは――特産の『ニシンの内臓の山』である。

ドブゥウウウウウ!!!

「な……なんだ、この世の終わりかのような生臭さは……!? ぐはっ、目が、鼻が曲がる……!」

さしもの聖堂騎士団も、突如として足元を襲った「魚の内臓と脂の泥流」に大混乱に陥った。お高くとまっていたメインクーンたちの気高き薄紫や白銀の毛並みは、一瞬にしてドロドロの脂まみれになり、強烈な生臭さが渓谷中に充満する。

「うわあああ! 我が気高き毛並みが! 誇り高き長毛が脂ぎって束になっている!」

「足元が滑る! 骨格が重すぎて泥濘から抜け出せん!」

重厚な体躯と長い毛皮という、メインクーンの誇りであり強みであった特性が、この底なしの生臭い泥濘の中では、完全に仇となったのだ。

「そこへ、僕たちの特攻隊長を投入します」アルフォンスが冷ややかに微笑む。

「行くぞおおお! 野郎ども、雑種猫の底力を見せてやれ!」

断崖の上から、でんすけを先頭に、ムサシ、サスケ、マリア、そして旧アムレシアのノルウェージャン重装兵たちの『混合軍』が飛び降りた。彼らは泥濘など意ともせず、驚異的な柔軟性で着地すると、混乱する聖堂騎士団へ容赦なく襲いかかった。

「おのれ、不浄の雑種どもがァ!」

泥まみれになりながらも、レオ2世が巨大な黄金の聖杖を振り回し、地響きを立ててでんすけの前に立ちはだかった。その巨体が生み出す質量攻撃は、周囲の雑種猫たちを風圧だけで吹き飛ばす。

「でんすけ、危ない!」

後方からマシロが叫び、プリンセスクローを構えて飛び出そうとするが、でんすけはそれを制した。

「マシロ、下がってろ! ここは俺が、あの偉そうな総主教の鼻柱を叩き折る!」

でんすけは短足を踏ん張り、短足特有のぶれない軸回転を始めた。雪を、脂を、泥を蹴って、その身体が高所へと爆発的な推進力で跳躍する。

「神の秩序だと? くだらねぇ! 俺たちはな、自分が雑種だろうが何だろうが、この足で立って、美味いもん食って、仲間と笑って生きてるんだよ! その日常を、お前らの勝手な物差しで異端なんて呼ばせてたまるか!」

高所へと上り詰めたでんすけの身体が、月光ならぬ朝日の光を浴びて、激しく逆さに回転を始めた。繰り出されるのは、彼の最大奥義。

『垂直落下式ピルムショット(逆さ頭突き)』!!!

「神に仇なす異端め、我が聖なる一撃で肉塊に変えてくれる!」

レオ2世が黄金の聖杖を真っ向から振り下ろす。

バチィィィィィィンッ!!!!

金属と頑強な頭蓋が激突する、絶叫のような音が渓谷に響き渡った。

でんすけの超高速回転から放たれた質量以上の破壊力は、レオ2世の振り下ろした黄金の聖杖を文字通り粉々に砕き散らし、その巨体の脳天へと直撃した。

「ごふっ……!? ば、馬鹿な……神の……調和が……短い足に……」

大陸最強と恐れられた『薄紫のメインクーン』の巨体が、ニシンの脂まみれの泥濘へと、完全に叩き伏せられた。

静寂が、巡礼路に訪れた。

総主教の敗北、そして完璧に汚された毛並み。それは、聖堂騎士団という完璧な秩序の、決定的な機能停止を意味していた。

「そ、総主教聖下が、倒れた……」

誰かの呟きがドミノ倒しのように広がり、戦意を完全に喪失したメインクーンの聖騎士たちは、一人、また一人と武器を地面に落とし、その場に膝を屈していった。

「戦いは、終わったな」

アルフォンスが静かに采配を収めた。

数日後。

聖都クリスタルヘイムとの和平協定が結ばれ、ヴェルデンハーフェン共和国に対する破門と異端の表明は、正式に撤回された。にゃんこ聖教は、雑種猫たちの生存権と経済力を認めざるを得なくなったのだ。

ヴェルデンハーフェンの最高政庁の一室。

「痛ててて……。やっぱりあの技は、腕が短いから自分の顎を少し打つんだよな」

でんすけが顎をさすりながら、やれやれとため息をついていた。

「お疲れ様でした、でんすけさん」

マシロが優しく夫の汚れを拭い、クススクと上品に笑った。

「でも、本当に格好良かったですよ。総主教様の大きな杖を跳ね返すなんて」

「はは、マシロちゃんにそう言ってもらえるなら、顎の痛みも吹き飛ぶぜ」

照れまくってスイカ模様の顔を真っ赤にするでんすけの横から、ひょっこりと顔を出したのはマリアであった。

「あらあら、熱いねぇ。異端撲滅運動を返り討ちにして、今度は夫婦の熱気でこっちを焦がす気かしら?」

「マリア! 邪魔しないでよ!」

でんすけが怒ると、マリアはウインクをして見せた。

「冗談よ。でもね、でんすけ。アンタがこの大陸の教会の歴史まで変えたのは本当よ。これからは純血も雑種も関係ない、みんなが楽しくマタタビを吸って、美味いニシンを食べられる世界が、本当に広がるかもしれないわね」

離れた場所では、アルフォンスが静かに窓の外の街並みを見つめていた。その隣には、無口なムサシと、相変わらず若いメス猫をくどいているサスケがいる。

「アルフォンス様、次はどうされるのですか? 聖教の権威を失墜させた今、我が国は名実ともに大陸の中心ですよ」

サスケが声をかけると、麗しき軍師はふっと美しく微笑んだ。

「僕はまた、書類の山に戻るさ。軍師の出番がない世界こそが、最も平和で美しい世界だからね。……だが、もしまた『でんすけ商会』が困ったときは、美味しいキャットフードと一緒に呼んでくれれば、考えてあげなくもないよ」

「フッ……違いない」

ムサシが珍しく口元を緩め、腕立てジャンプからの『オットセイ・ターン』を繰り出した。

チャチャチャッ!

「キャーッ! ムサシ様素敵ーっ!」

遠くで見守っていた街の若いメス猫たちが悲鳴を上げる。

赤き土の大地、テラコッタ大陸。

聖職者の権威が去り、平民たちの逞しい笑い声が響く今、この大地に訪れたのは、血統を超えた絆と、未来を切り拓く猫たちの足音であった。

『にゃんこ戦記』の歴史に、また一つ、偉大なる雑種たちの英雄譚が刻まれたのである。


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