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第10章〜黒き煙の鉄鉄(くろがね)帝国〜

聖都クリスタルヘイムとの間に歴史的な和平協定が結ばれてから、テラコッタ大陸には表向きの平穏が戻っていた。雑種猫たちの生存権と経済力は「にゃんこ聖教」に認めさせ、総主教レオ2世による「破門」の檄文は正式に撤回されたのである。

ヴェルデンハーフェン共和国の最高政庁。

「あーっ! 終わらん! なんで聖都と仲良くなったのに、書面仕事が三倍に増えてるんだよ!」

現国家元首ドージェであるマンチカンの『でんすけ』は、短い四肢を机の上でジタバタとさせながら、スイカ模様の顔を不満で膨らませていた。

「諦めてください、でんすけ様。貿易ルートが拡大したということは、それだけ関税、臨検、そして他国からの投資の管理が増えるということです」

冷淡に、しかし恐るべき速度で書類に判子を押し続けているのは、大書記官アルフォンスだ。純白のラグドールでありながら、頭の寝癖は相変わらずで、青い瞳には一切の容赦がない。

「だいたいさぁ! 聖都のメインクーンどもが大人しくなったと思ったら、今度は西の大陸から『産業の発展』だか何だか知らんが、変な鉄の船がバンバン港に入ってくるだろ? 闇市の利権調整だけで俺の脳みそはキャパオーバーなんだよ!」

でんすけが頭を抱えたその時、部屋の扉が鈴を転がすような音と共に開いた。

「おやおや、お疲れ様です、でんすけさん。今日は特製の『ニシンとマタタビのジュレ添え』を持ってきましたよ」

現れたのは、でんすけの最愛の妻であり、元貴族令嬢のマシロだった。純白の美しい毛並みを揺らし、疲れ切った夫の額を優しく撫でる。その指先からは、かつて極寒の地で遠征軍を支えた鋭い爪『プリンセスクロー』が微かにのぞいているが、夫に向ける眼差しはひたすら温かい。

「マシロちゃん……! 天使だ、本物の天使がここにいる!」

でんすけがジュレに飛びつこうとした瞬間、窓が音もなく開き、一匹の猫が滑り込んできた。

「よぉ、元首閣下。のんびり飯食ってる場合じゃねえぞ。西の海からキナ臭い煙が流れてきてる」

ベンガルと茶トラのハーフ、サスケである。超低音の驚異的なイケボでプレイボーイを気取る彼は、共和国最強の隠密として、大陸中の不穏な動きを察知していた。

サスケは泥のついた書簡をアルフォンスの机に放り投げた。

「テラコッタ大陸の西端、これまで未開の地とされていた山岳地帯に、突如として巨大な『黒鉄くろがねの城』が築かれた。自らを『鉄鉄てつてつ帝国』と名乗る純血のブリティッシュショートヘアの一派だ。奴ら、蒸気で動く機械と、黒い石の煙を使って、周囲の猫の集落を片端から奴隷化し始めてる」

アルフォンスの手がピタリと止まった。青い瞳が軍師の鋭さを取り戻す。

「ブリティッシュショートヘア……。実質主義で知られる頑強な純血種ですね。聖都が『血統の調和』を重んじたのに対し、彼らは『機械と富による支配』を掲げていると聞きます」

「それだけじゃねえ」サスケが真面目な顔で続けた。「奴らの狙いは、我が国の命綱であるニシンの漁場と、マタタビの流通網の完全強奪だ。すでに我が国の西側国境に近い港町へ、装甲を貼り付けた『蒸気鉄甲船』が向かっているとの情報がある」

「なんだと!?」

でんすけがジュレを落としそうになりながら立ち上がった。

「俺たちの美味いニシンとマタタビを、機械の煙で汚そうってのか!? そんな不粋な連中、この『最強の低重心』で叩き潰してやる!」

その時、部屋の影から大柄な影が静かに進み出た。サバトラの正統派マッチョ、ヘリング軍の軍団長ムサシである。背中にはいつもの巨大な木刀を背負っている。

「……すでに、マリアから連絡。西の港、包囲されている。敵の数は、鉄甲船が十隻。兵力は五千」

アルフォンスがふっと、冷徹ながらもどこか楽しげな微笑を浮かべた。

「いいでしょう。神の次は機械ですか。どちらが物理法則に忠実か、我が共和国の『商人の生存戦略』で教えてあげましょう」



共和国の西部に位置する港町「ウェストヘリンズ」。ふだんはニシン漁の活気に満ちたその海は、いまや異様な黒い煙に覆われていた。

海上に浮かぶのは、木造の美しい船体を黒い鉄板で覆い、巨大な煙突から火の粉を撒き散らす鉄鉄帝国の「蒸気鉄甲船」である。

「ハハハ! 見ろ、南の温い水で茹でられた雑種どもが、右往左往していやがる!」

旗艦の甲板で、分厚い灰色の毛並みと、丸々とした頑強な体躯を持つブリティッシュショートヘアの将軍・アイアン・ブルーが、パイプからマタタビの煙(人工合成された粗悪品)を吹き出しながら笑っていた。

「にゃんこ聖教のメインクーンどもは、格式にこだわって雑種に不覚を取ったようだが、我が帝国の科学力の前には無力だ。このウェストヘリンズを占領し、大陸の物流をすべて我が帝国の蒸気機関の燃料にしてくれるわ!」

港の防波堤には、でんすけ率いるヴェルデンハーフェンの防衛軍が陣を敷いていた。しかし、敵の鉄甲船から放たれる大砲の威力は凄まじく、激しい着弾音が周囲の岩壁を砕いていた。

「でんすけさん、敵の船はこれまでの木造船と違って、こちらの矢も通常の火器も弾き返してしまいます!」

防衛軍に志願したノルウェージャンの若き兵士が叫ぶ。かつてアムレシアの精鋭として恐れられ、いまは共和国の自由のために戦う彼らも、未知の機械兵器には戸惑いを隠せなかった。

「フン、鉄の皮がなんだってんだ!」

前線に飛び出したのは、ムサシだった。サバトラのマッチョ猫は、上空から迫る敵の砲弾を真っ向から睨みつけると、恐るべき体幹から脚を連続で突き出した。

『両足爪による・百烈蹴り――ッ!』

ドバババババババッ!

放たれた砲弾がムサシの肉弾連撃によって空中で次々と叩き落とされ、爆風が周囲の霧を吹き飛ばす。

「な、なんだあのサバトラは!? 大砲の弾を足技で落としたぞ!?」

鉄鉄帝国の兵士たちが目を剥く。

しかし、アイアン・ブルーは動じない。

「個の武力など、量産された機械の前には無意味だ。蒸気歩兵連隊、突撃せよ!」

鉄甲船のタラップが開き、全身を真鍮製の蒸気装甲で固めたブリティッシュショートヘアの歩兵たちが、蒸気の排気音を響かせながら上陸してきた。彼らの持つ「蒸気噴射槍」からは、高熱の蒸気が吹き出している。

「あら、ずいぶんと暑苦しい格好をしたお兄さんたちね。そんなに汗をかいていたら、毛並みが台無しよ?」

霧の中から妖艶に現れたのは、ヘリングのドラッグクイーンこと『マリア』だった。昼は厳格な修道院長、夜は夜の街の支配者である彼女は、極度のマタタビ中毒でありながら、その戦闘力は一級品だ。

マリアのセクシーなウィンクに、蒸気装甲に身を包んだ敵兵が一瞬動きを止める。その隙を、マリアは見逃さない。華麗なステップで飛び込むと、先頭の巨漢兵の首を股間に挟み込んだ。

『必殺・三角絞め――ッ!』

「がっ……は……!? な、なんだこの圧倒的な……セ、セクシーさと、絞め……技……!」

頑強なブリティッシュの兵士が、恐怖と歓喜の混ざり合った涎を垂らしながら白目を剥いて失神した。さらにマリアは『腕ひしぎ逆十字』を連発し、装甲の関節部分を次々と破壊していく。

「今だ、サスケ!」マリアが叫ぶ。

「了解、お待たせ!」

上空から影が舞い降りる。サスケが自慢の斑模様の毛皮を闇に紛れ込ませながら、驚異的な空中殺法を繰り出した。

『バックフリップコークスクリュー720°(セブントゥエンティ)』!!

超高速の回転を伴った肉弾攻撃が、敵の蒸気パイプを正確に蹴り砕く。プシューッという悲鳴のような排気音と共に、敵の装甲が次々と機能停止に陥っていった。

「ええい、小ざかしい雑種どもめ! 全艦、港を文字通り灰にせよ!」

アイアン・ブルーが激怒し、十隻の鉄甲船の砲門が一斉に光を放とうとした。



「陸からも、海からも、そして機械の力をもってしても、我が共和国の『知恵』の前には一歩も進めませんよ」

港を見下ろす高台から、アルフォンスが静かに采配を振り下ろした。

その瞬間、ウェストヘリンズの海に異変が起きた。

敵の鉄甲船の周囲の海面が、突如として真っ白に泡立ち始めた。

「な、何事だ!? 魚群か? いや、これは――」

アイアン・ブルーが船べりから海を覗き込んだ。

流れ込んできたのは、大量の水と共に押し寄せる、ヴェルデンハーフェン共和国特産の「ニシンの加工残渣と超濃厚マタタビ発酵液の山」であった。アルフォンスが事前に海流を計算し、上流の水門から一気に流し込ませた特製の「生臭泥流」である。

ドブゥウウウウウ!!!

強烈な生臭さと、マタタビの濃厚すぎる匂いが海下一帯に充満する。

「うわあああ! なんだこの世の終わりかのような臭いは!? 目が、鼻が曲がる……!」

お高くとまっていた純血のブリティッシュショートヘアたちにとって、この生臭さは致命的だった。さらに、超高濃度のマタタビ成分が空気中に気化し、彼らの嗅覚を直撃する。

「あ、頭が、フワフワするにゃん……」

「戦うどころじゃない、この匂い、毛並みに染み付いたら一期の大事だ……!」

規律正しかった鉄鉄帝国の兵士たちが、次々と甲板でのたうち回り、酩酊状態に陥っていく。さらに、鉄甲船の命綱である蒸気機関の吸気口にニシンの内臓が吸い込まれ、黒煙の代わりに白煙を吐き出して次々と沈黙していった。

「そこへ、我が国の特攻隊長を投入します」アルフォンスが冷ややかに微笑んだ。

「待たせたな、機械カブレの勘違い野郎ども! これが闇市と、雑種の底力を舐めたツケだ!」

防波堤の先端から、でんすけが短い足を爆発的な速度で回転させ始めた。泥にまみれた黒い商人の前掛けを締め、低重心の体勢を整える。

『アメイジング・ストライド』!!

空気抵抗を極限まで減らした彼の突撃は、海面を滑る弾丸のようだった。でんすけは、動力を失って停止した一番近い鉄甲船の甲板へと一気に跳躍した。

「ば、化け物か! 短足の雑種が、海を跳んだだと!?」

アイアン・ブルーが驚愕する。

「短足ってのはな、倒れようにも倒れない『最強の低重心』って意味なんだよ! 覚えておきな!」

高所へと上り詰めたでんすけの身体が、太陽の光を浴びて激しく逆さに回転を始める。

『垂直落下式ピルムショット(逆さ頭突き)』!!!

ドゴオオオン!!!

でんすけの頭突きが、アイアン・ブルーの構えた鉄製の盾を真っ向から粉砕し、その分厚い脳天へと直撃した。

「ごふっ……!? 馬鹿な……帝国の最高の科学力が……短い足に……」

鉄鉄帝国の誇る猛将が、白目を剥いて甲板に沈んだ。

将を失い、さらにニシンの臭気に完全に戦意を喪失した鉄鉄帝国の艦隊は、一斉にクモの子を散らすように西の海へと逃げ出し始めたのであった。



戦いは終わった。ウェストヘリンズの港には、再び静寂と(少々の生臭さが)戻ってきた。

「痛ててて……。やっぱりあの技は、腕が短いから自分の顎を少し打つんだよな」

でんすけが顎をさすりながら、やれやれとため息をついていた。

「お疲れ様でした、でんすけさん」

マシロが駆け寄り、優しく夫の汚れを拭う。

「でも、本当に格好良かったですよ。あの恐ろしい鉄の船を一台で黙らせてしまうなんて」

「はは、マシロちゃんにそう言ってもらえるなら、顎の痛みも吹き飛ぶぜ」

照れまくってスイカ模様の顔を真っ赤にするでんすけの横から、ひょっこりと顔を出したのはマリアであった。

「あらあら、熱いねぇ。西の機械人形たちを返り討ちにして、今度は夫婦の熱気でこっちを焦がす気かしら?」

「マリア! 邪魔しないでよ!」

でんすけが怒ると、マリアはウインクをして見せた。

離れた場所では、アルフォンスが静かに海を見つめていた。その隣には、無口なムサシと、相変わらず地元のメス猫をくどいているサスケがいる。

「アルフォンス様、次はどうされるのですか? 鉄鉄帝国の本拠地は、さらに西の山岳地帯。今回の敗北で、奴らが本気で牙を剥いてくる可能性がありますが」

サスケが真面目な口調で尋ねると、麗しき軍師はふっと美しく微笑んだ。

「彼らは『富と効率』で動く実利主義者です。ならば、叩き潰すだけでなく、我が国の『海運力』と『ニシンの経済力』がどれほど彼らにとって利益になるか、交渉のテーブルをこちらから用意してあげましょう。商人の生存戦略とは、敵を顧客に変えることですからね」

「フッ……違いない」ムサシが珍しく口元を緩めた。

しかし、テラコッタ大陸の平和は、そう簡単に続くものではなかった。

同じ頃、大陸の中央に位置する聖都クリスタルヘイムの大聖堂の最奥。

ステンドグラスから差し込む微光を浴びて、にゃんこ聖教総主教レオ2世は、西から届いた鉄鉄帝国の敗戦報告を眺めていた。

「……鉄鉄帝国までもが、あのマンチカンの短い足に屈したか」

重厚な低音が聖堂に響く。レオ2世の傍らに控える白銀の聖堂騎士たちも、一様に険しい表情を浮かべていた。

「総主教聖下。ヴェルデンハーフェンの雑種どもは、もはや一国の枠に収まらぬ一大勢力。血統の調和を脅かす最大の異端でございます」

レオ2世はゆっくりと立ち上がり、巨大な前足を机の上の地図に叩きつけた。

「分かっている。西の機械どもが敗れた今、神の秩序を守るために動くのは我らしかいない。純血種の誇りと、数千年の歴史の重みを、あの平民雑種どもに思い知らせてやるのだ」

レオ2世の青い瞳に、狂信的で冷徹な闘志が宿る。

「大陸全土へ告げよ。ヴェルデンハーフェン共和国との講和は一時的なものに過ぎぬ。これより、聖都の全戦力を結集し、真なる『聖戦』の準備を開始する。血統の調和を守るため、すべての清き血を持つ者たちよ、今一度武器を取れ!」

その咆哮は、聖都の鐘の音と共に、再びテラコッタ大陸全土へと不穏な影を落としていくのだった。

雑種たちの国、ヴェルデンハーフェン共和国。

でんすけとアルフォンス、そして規格外の個性を持つにゃんこたちの前に、かつてない規模の暴風雨が近づきつつあったが、彼らの逞しい笑い声が消えることは決してないだろう。

『にゃんこ戦記』の歴史に、また新たなる激動の章が刻まれようとしていた。


西の『鉄鉄てつてつ帝国』をニシンの生臭戦術で退けたでんすけ商会。しかし、その勝利は聖都クリスタルヘイムの総主教レオ2世の危機感を決定的なものにしてしまう。一時的な和平は破られ、にゃんこ聖教は純血種の諸国をすべて糾合した「二万の大軍」を再び動員。さらに、テラコッタ大陸全土の流通網を封鎖する完全経済制裁を敢行する。「血が濁った異端どもに、数千年の秩序の重みを教えてやる」と息巻く聖堂騎士団に対し、ヴェルデンハーフェンの防衛軍はわずか四千足らず。絶体絶命の資金難と兵力差の中、天才軍師アルフォンスが描いた次なる一手は、険しい断崖に囲まれた『聖なる巡礼路』での泥臭い迎撃戦だった!

次回『にゃんこ戦記 〜聖戦と商人の生存戦略〜』。

「神の秩だか何だか知らねえが、俺たちの美味い飯と笑い声を、お前らの勝手な物差しで奪わせてたまるか!」

でんすけの『最強の低重心』が、大陸最強の『薄紫のメインクーン』と正面から激突する!


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