第五章 三頭龍の戦い
あらすじ
三頭龍の谷。3つに分かれた帝国軍を殲滅すべく。
でんすけ達の戦いが始まる。
聖都クリスタルヘイムへと至る峻険なる山脈の最南端。そこに、大陸全土にその名を轟かせる険しき断崖――『三頭龍の谷』は存在していた。
天を突き刺すようにそびえ立つ山肌は、聖都へ向かう街道を完全に三つへと引き裂くように刻まれており、それぞれの谷の入り口には、気の遠くなるような歳月をかけて風雨に削られた奇怪な巨岩が鎮座している。天を睨み、牙を剥く三つの頭を持った巨龍の姿にも見えるその岩肌から、古くよりその名で呼ばれ、恐れられてきた天然の要塞である。
この切り立った断崖に囲まれた狭隘な迷宮こそが、天才軍師アルフォンスが描き出したアムレシア帝国軍壊滅のための、最終にして唯一の戦舞台であった。
「――すべては計算通り、等比級数的な狂いもなく進行している」
着古した外套のフードを深く被り、三頭龍の谷を見下ろす高台に立ったアルフォンスは、冷徹な、しかし確信に満ちた笑みを浮かべていた。
南の森林地帯で繰り広げられた、でんすけたちによる泥臭く苛烈なゲリラ戦。それはアムレシア帝国軍の先遣隊に致命的な焦りを与え、さらににゃんこ聖教の総主教レオ2世による徹底交戦の呼びかけが、帝国軍の最高権力者である皇帝『クセルクセス』を動かした。聖都を電撃的に制圧せんとする帝国軍の主力は、この狭隘なる三頭龍の谷へと進軍ルートを絞らざるを得なくなったのだ。
だが、クセルクセスもまた、凶暴な野生のなかに冷徹な知性を兼ね備えた化け物であった。大軍をそのまま一本道に突入させれば、上空からの奇襲や隘路での混雑を招く。そう直感した皇帝は、全軍を三隊に分かち、三つの谷へ同時に侵攻させるという、一見すれば隙のない完璧な包囲進軍を選択した。
それこそが、アルフォンスの仕掛けた最たる罠であった。
「大軍というものは、その圧倒的な物量ゆえに一つの意志で動く。だが、ひとたびそれを物理的に分断してしまえば、ただの巨大な肉塊の集まりに過ぎない。個別に撃破し、内側から崩壊させる。これより、僕の数理の証明を始めよう」
アルフォンスの作戦に基づき、三つの谷にはそれぞれの特性に合わせた「矛と盾」が配されていた。
◇
最も険しく、高低差の激しい『北の谷』を受け持つのは、でんすけが率いる『ヘリング自由解放軍』であった。
急造の自警団や、燃える街から命からがら生き延びた雑種猫たち、その数およそ三千。彼らは血統の純さを誇る帝国の正規兵に比べれば、装備も規律も劣るチンピラの集まりに過ぎなかった。だが、その胸に宿る「街を奪還する」という烈火のごとき決意と、でんすけへの絶対的な信頼が、彼らを一固まりの強固な軍勢へと変えていた。
「おい、野郎ども! びびって短足がすくんじまってる奴はいねえだろうな!」
シルバータビーの美しい毛並みを逆立て、でんすけは三千の兵たちの前で吠えた。短足なのは自分だけだが、ぐっと踏みしめられた大地には、倒れようにも倒れない圧倒的な低重心の覚悟が宿っていた。
「アムールトラだか何だか知らないが、俺たちの商売と街を荒らしに来た帝国軍を、タダで通すわけにゃあいかないい! この北の谷を、鉄屑どもの墓場にしてやるぞ!」
「ククッ、そうこなくっちゃな!」
サスケが「おたまじゃくしのベントラ模様」を不敵に躍らせ、巨木の影から影へと音もなく跳躍した。変幻自在の『空中殺法』をいつでも繰り出せるよう、両手の鋭い爪が暗がりのなかで怪しく光る。
「でんすけ、ここは俺たち一対一では負け知らずの雑種の意地、見せてやろうぜ」
「……フン。ヘリングの誇り、これ以上は一歩も引かない」
巨躯を誇るサバトラのマッチョ、ムサシが背負った巨大な木刀の柄に手をかけた。居合の名手であり、一撃必殺の猫パンチや、赤い岩石をも粉々に砕く『百烈蹴り』を持つ彼が、北の谷の最前線にそびえ立つ盾となっていた。
「でんすけぇ、あんたが死んだら、極上のマタタビを誰に売りつければいいのさ。マシロちゃんの前で、いいところ見せなさいな」
マリアが咥えたマタタビの枝を噛みながら、妖艶に微笑む。その隣では、純白のラグドール、マシロが実家を焼かれた絶望を乗り越え、鋭利な長い爪『プリンセスクロー』を静かに剥き出しにしていた。彼女の青い瞳には、でんすけと共に戦うという、清廉ながらも苛烈な光が灯っている。
北の谷に突入してきた帝国軍の北翼部隊に対し、でんすけ率いる三千の解放軍は、地の利を活かした苛烈な防衛戦を開始した。
まずは『マタタビ爆弾』の投下である。頭上から降り注ぐ大量のマタタビの砂煙に巻かれ、酔いに酔った帝国兵の隊列は瞬く間に乱れていく。そこへ容赦なく巨石が落とされ、狭い道に密集したノルウェージャンたちの重装甲部隊を圧殺していった。
でんすけ自身も、超高速の回転数とパワーを誇る走法『アメイジング・ショートストライド』で戦場を縦横無尽に駆け抜けた。短足特有のぶれない軸回転から繰り出される高所からの『フロントフリップ・ツインクロー』や『垂直落下式ピルムショット』が、狼狽する帝国兵たちへと容赦なく叩き込まれていく。
◇
一方、三つの谷の『中央』――。
最も広く、平坦であり、故に大軍の進撃に最も適したこの本道には、帝国軍の「本体」が突入していた。その中心に君臨するのは、アムレシア帝国の皇帝クセルクセス。冷凍保存された古代の卵から蘇ったアムールトラの猛獣であり、大陸最悪の皇帝が自ら軍を率いていた。
このクセルクセスの本隊を正面から受け持つのは、にゃんこ聖教が誇る最強の矛、『聖堂騎士団』の聖騎士たちであった。
一糸乱れぬ規律で白銀に輝く甲冑を身にまとい、神の祭壇を守るための巨大な盾と、目も眩むような長槍を揃えた重装騎兵部隊。総主教レオ2世との会談により派遣されたこの神の兵たちは、正面からぶつかり合う重戦車同士の激突のごとく、クセルクセスの本体と凄まじい金属音を響かせて激突していた。
白銀の槍と黒鉄の戦斧が火花を散らし、大地を揺るがす地鳴りが中央の谷を支配する。教団の意地と帝国の武力が真っ向から噛み合い、血飛沫が舞う凄惨な主戦場となっていた。
しかし、そのパワーバランスをたった一匹で、それも文字通り「蹂躙」という形で崩し去ったのが、皇帝クセルクセスであった。
「退け、雑種に跪く狂信者どもが」
地響きのような低い咆哮と共に、クセルクセスの巨体が動く。サバトラのムサシをも遥かに凌駕する、規格外の筋肉の塊。彼が手にする特大の戦斧が一閃される度、聖堂騎士団が誇る最高硬度の「白銀の盾」が、まるで薄いガラス細工のように火花を散らして粉砕されていった。
衝撃波だけで数匹の聖騎士が宙を舞い、岩壁に叩きつけられていく。居並ぶ猫たちとは根本的に生物としての次元が違う――その圧倒的な「個の武力」は、戦場に冷酷な絶望を振りまいていた。
「怯むな! 槍衾を作れ! 皇帝を突き崩せ!」
指揮官の怒号に応じ、十数匹の聖騎士が一斉に長い槍を繰り出し、クセルクセスの胸元へと突き立てる。まともに喰らえば、いかな猛獣とてただでは済まない必殺の連携。
だが、クセルクセスは避けることすらしなかった。
ガギィィィン! と、肉体と金属がぶつかり合う音とは思えない鈍い音が響く。極寒の北地で鍛え上げられたアムールトラの毛皮と硬質の筋肉は、聖騎士たちの決死の刺突を、かすり傷一つ負うことなく弾き返したのだ。
「……浅いな。教会の針仕事はその程度か」
クセルクセスは獰猛な牙を剥き出しにして嗤うと、突き出された槍の束をまとめて太い腕で掴み取り、怪力に任せて強引に引き剥がした。勢い余って前のめりになった聖騎士たちの頭上へ、容赦なく黒鉄の爪が振り下ろされる。
それは戦術や規律といったものを、純粋な質量と暴力で叩き潰す、まさに動く要塞の如き突進力であった。物理的な物量と個の武力、その双方において、帝国軍の本体は聖都の精鋭を完全に圧倒しつつあった。
◇
そして、残された最後の道――『南の谷』。
ここは三つの谷のなかでも最も狭く、切り立った岩壁が両側から圧迫するように迫る、暗く不気味な割れ谷であった。この南の谷へ向かって、アムレシア帝国軍の南翼部隊、およそ数千の重装甲兵が進軍を続けていた。
その数千の敵を迎え撃つために、谷の出口に陣取っていたのは――。
「……わずか、百騎か。本当に、あいつの計算は狂っていないんだろうな」
聖堂騎士団からアルフォンスの直卒として引き渡された、百人の聖騎士たちの指揮官が、思わず冷や汗を流しながら呟いた。南の谷を守る布陣は、軍師アルフォンスと、わずか百騎の聖騎士。それだけだった。
数千の重装甲兵に対し、たったの百。正面からぶつかれば、一瞬にして踏み潰され、文字通り肉塊に変えられるであろう絶望的な戦力差であった。百人の聖騎士たちの間には、死を覚悟した緊迫感と、この寝癖のついた白いラグドールの若き軍師に対する、強い不信感が渦巻いていた。
しかし、アルフォンスはそんな騎士たちの動揺など、一瞥もくれなかった。
彼は懐から、いくつかの数式が細かく書き込まれた手帳を取り出し、南の谷の入り口をじっと見つめていた。その爛々と輝く目の奥には、恐怖など微塵もなく、ただ冷徹な実験者としての光だけがあった。
その彼の背後には、異様な光景が広がっていた。なんと、100匹のゴリラと、500匹の武装したサル達が静かに控えていたのである。ゴリラ達は巨大な木樽を抱え、サル達は怪しげな液体を入れた瓶を手に持っていた。
「どれほど強靭な肉体を持ったノルウェージャンたちの軍隊であっても、この狭隘なる南の谷に押し込めば、一度に戦える兵の数はせいぜい数匹に限定される。つまり、数千という『大軍』は、この瞬間からただの長い『列』へと退化するのさ」
アルフォンスは外套を翻し、百騎の聖騎士たちに向かって、氷のように冷たい声で命じた。
「白銀の聖騎士諸君。君たちの任務は、正面から敵を撃破することではない。僕の指示する寸分の狂いもないタイミングで、盾を構え、ただそこに『壁』として存在し続けることだ。一歩も進まず、一歩も退かず、敵の先頭をその場に固定しろ。時間にして、わずか数百秒でいい」
「正気か、軍師殿! たった百騎の盾で、数千の突撃をその場に止めろというのか! 持ちこたえられるわけがない!」
指揮官が怒鳴り散らしたが、アルフォンスはふっと薄い笑みを浮かべた。
「持ちこたえさせるさ。なぜなら、この谷の真の主役は君たちではない。この液体こそが地獄絵図を描いていくんだ」
アルフォンスは、手に持った瓶を高くかざした。
「軍師殿! それはいったい……!?」
「玉ねぎのすりおろし液です。我々ネコ科には猛毒の」
その言葉に、百戦錬磨の聖騎士たちも一斉に驚き、さすがに動揺を隠せなかった。猫にとって玉ねぎは、赤血球を破壊し重篤な貧血を引き起こす、文字通りの猛毒である。それをこれほどの量、戦場で兵器として使うなど、常人の発想ではなかった。
話は、でんすけが闇市でマタタビ売りを成功させた時代まで遡る。
当時、でんすけが一人で森にマタタビ探しをしていたとき、悪ふざけで遊びを仕掛けてきた一匹のサルがいた。次第に彼らは毎日のように遊ぶようになり、でんすけは干したニシンと交換で、サルにマタタビの採取をお願いするようになったのだ。
森のサル達にはもともと海の魚を食べる習慣はなかったが、次第にニシンに含まれる塩分と良質なたんぱく源が自らの身体に有用であることを、体験的に感じ取っていった。そして何より、慣れてみれば美味く、非常に食べ応えがあった。
やがて、でんすけはサル達にマタタビの大規模な栽培を依頼するようになる。その際、でんすけが指示したのが「マタタビ畑の周囲を玉ねぎ畑で覆う」という奇策であった。
猫にとっては近づくだけでも忌避すべき玉ねぎの壁。そうすることによって、他の野生の猫や競合の商人は誰一人としてその場所に近づくことができなかった。でんすけのマタタビがなぜこれほど高品質なのか、そしてなぜこれほどの大量入荷が可能なのか、闇市の誰もが今日まで気が付かなかった秘密がここにあった。
当然ながら、サル達にとっては玉ねぎは何の有害性もないただの野菜である。アルフォンスはこのサル達との信頼関係、そして将来的にさらなるニシンを提供するという契約を経て、この『すりおろし玉ねぎ作戦』を極秘裏に準備していたのだ。
「さあ、始めようか」
アルフォンスの冷徹な号令とともに、ゴリラ達が木樽を開け、サル達がその中へ次々と玉ねぎのすりおろし液を注ぎ込んでいく。谷の奥からは、重厚な黒鉄の鎧を鳴らし、何も知らぬ帝国の重装甲兵たちが、一本の長い列となって刻一刻と近づいていた。
◇
地を揺らす重低音。それは三つの谷のいずれからも等しく響き渡り、テラコッタ大陸の夜気をビリビリと震わせていた。
アムレシア帝国軍の「本体」が突入した中央の本道では、白銀と黒鉄の巨大な波頭が正面から激突し、凄惨な削り合いが始まっていた。皇帝クセルクセス自らが駆るアムールトラの巨体は、戦場にあって圧倒的な恐怖の象徴だった。その一振りがにゃんこ聖教の最強の盾を弾き飛ばし、咆哮一つで聖騎士たちの馬脚をすくませる。
「引くな! 神の祭壇を守る盾となれ!」
総主教レオ2世の意志を体現する聖堂騎士団の指揮官が叫び、白銀の槍を突き出すが、アムレシア軍のノルウェージャン重装甲部隊が誇る規律は微塵も揺らがない。物理的な物量と個の武力、その双方において帝国軍は聖都の精鋭を圧倒しつつあった。
一方、最も過酷な地形である『北の谷』では、でんすけ率いる「ヘリング自由解放軍」が、文字通り泥にまみれた死闘を演じていた。
「オラァ! 突っ込んでくる鉄屑どもの顔に、特製のマタタビ爆弾をぶち込んでやれ!」
でんすけの怒号が響く。頭上の断崖から次々と投げ落とされる樽が炸裂し、中から濃厚なマタタビの粉末が砂煙となって立ち込める。いくら鉄の規律を誇る帝国の精鋭部隊とはいえ、その本能までは抗えない。粉末を吸い込んだノルウェージャン兵たちが、一人、また一人と瞳孔を開かせ、その場でゴロゴロと転がり、あるいは千鳥足となって隊列を崩していく。
「今だ! 押し潰せ!」
間髪入れず、ムサシが巨大な木刀を振り下ろして合図を送る。自警団の猫たちが一斉にロープを切り落とすと、数トンはある巨石が容赦なく狭隘な谷底へと転がり落ちた。轟音と共に、重装甲で身を固め、身動きの取れなくなった帝国兵たちが圧殺されていく。
「ククッ、隙だらけだな!」
サスケが巨木の影から影へと弾丸のように跳躍し、狂おしいまでの速度で空中から襲いかかった。鎧の隙間、その喉元だけを正確に狙い撃ちにする『空中殺法』が冴え渡り、次々と敵の戦闘力を奪っていく。そのすぐ側では、マリアが妖艶な笑みを浮かべながら、首を突っ込んできた敵の将兵を『三角絞め』で次々と締め落とし、オス猫たちを歓喜の涎と共に失神させていた。
「でんすけさん、後ろは任せて!」
純白の毛並みを血と泥で汚しながらも、マシロが叫ぶ。彼女の細い指先から突き出された、普段は隠された鋭利な長い爪『プリンセスクロー』が、背後からでんすけを狙った兵の顔面を深く切り裂いた。
「おうよ、マシロ! よくやった!」
でんすけは短い四肢を爆発的に回転させ、地を這うような超高速の加速『アメイジング・ショートストライド』で敵陣の真っ只中へと突っ込んでいった。短足特有のぶれない軸回転。そこから繰り出される高所からの『フロントフリップ・ツインクロー』が、狼狽する重装兵の兜を叩き割る。
北の谷は、アルフォンスの計算通り、地の利とゲリラ戦術によって三千の雑種猫たちが数倍の帝国軍を文字通り翻弄していた。
だが――すべての勝敗の鍵を握る『南の谷』は、いまだ静寂のなかにあった。
◇
『南の谷』の出口。
百人の聖騎士たちが、鉄の壁となって道を塞いでいた。その背後、少し離れた岩陰には、100匹のゴリラと500匹の武装したサル達が、アルフォンスの指示を待って息を潜めている。
谷の奥から、ドスドスと不気味な地鳴りが近づいてくる。アムレシア帝国軍の南翼部隊――およそ数千の重装甲兵の先頭が、ついにその姿を現した。狭い一本道を埋め尽くす黒鉄の鎧の列は、それだけで息が詰まるような圧迫感を放っている。
「……軍師殿、敵が来ます! 本当にここで耐えるだけでいいのだな!?」
聖騎士の指揮官が、恐怖を押し殺した声で叫ぶ。
「一歩も動くなと言ったはずだ。僕の数式に、君たちの余計な一歩は含まれていない」
アルフォンスは着古した外套のフードを深く被ったまま、冷淡に言い放った。その手には、すりおろされた玉ねぎの強烈な刺激臭を放つ瓶が握られている。
「突撃ーーーっ!」
帝国軍の先頭が、巨大な戦斧を掲げて突入してきた。数千の自重が狭い谷の中で圧縮され、一筋の巨大な鉄の弾丸となって聖騎士たちの防壁へと激突する。
ズゥゥゥン!!!
凄まじい金属音が谷間に反響した。百人の聖騎士たちは、互いの盾を噛み合わせ、文字通り一枚の「白銀の壁」となってその衝撃を受け止めた。凄まじい圧力が彼らの肢体を押し潰そうとする。骨がきしむ音が聞こえ、数人の聖騎士が口から血を吐きながらも、必死に足を踏ん張った。
「耐えろ! ここが神の防壁だ!」
「まだだ……まだ引き付ける」
アルフォンスの爛々と輝く瞳が、迫り来る帝国軍の「密度」を測っていた。狭隘な南の谷。一度に戦えるのは先頭の数匹のみ。しかし、その後ろには数千の兵が、前のめりになって一本の長い列を形成している。逃げ場のない、完全に密閉された肉の回廊。
敵の自重によって、進軍の速度が完全に鈍り、密集度が極限に達したその瞬間――。
アルフォンスの細い片腕が、天に向けて鋭く突き上げられた。
「サル共、樽へ注げ! ゴリラ達、押し流せ!」
キィィィーッ!!!
サルの群れが甲高い鳴き声を上げ、抱えていた瓶から、大量の「すりおろし玉ねぎ液」を、ゴリラたちが構える特製の木樽へと一斉に注ぎ込んだ。その樽の底には、アルフォンスが物理学的に計算し尽くした、液体の流速と拡散効率を最大化するための噴射ノズルが取り付けられていた。
「いけ」
アルフォンスの冷徹な号令と共に、100匹のゴリラたちが、その圧倒的な怪力で木樽の圧搾レバーを一気に押し下げた。
ブシュゥゥゥゥッ!!!
刹那、南の谷の出口から奥に向けて、白濁とした濃厚な霧が、猛烈な勢いで噴射された。ただの霧ではない。極限まで微細化され、空気中に爆発的に拡散された「玉ねぎの揮発成分」の嵐である。
その凄まじい刺激臭の霧は、逃げ場のない狭い谷の壁に沿って、まるで生き物のように奥へと激流となって流れ込んでいった。
「……な、なんだこれは!? 霧か……?」
先頭の帝国兵が、不審げにその白い霧を見つめた、次の瞬間だった。
「ぎゃああああああああっっっ!!!」
凄絶な悲鳴が、谷底に響き渡った。
玉ねぎの成分が、帝国兵たちの目や鼻、そして喉の粘膜を容赦なく襲ったのだ。人間とは比較にならないほど鋭敏な感覚器官を持つ猫たちにとって、それは文字通り「化学兵器」に等しい破壊力だった。
「目が! 目が開かない!!」
「息が……息ができない! 喉が焼ける!!」
黒鉄の鎧に身を包んだ屈強なノルウェージャン兵たちが、武器を放り出し、自らの顔をかきむしりながら狂ったように転げ回った。しかし、本当の恐怖はそこからだった。
アルフォンスが計算していたのは、単なる目潰しではない。呼吸を通じて肺へ、そして皮膚の粘膜を通じて体内へと吸収されたその成分は、ネコ科動物の血液中にある赤血球を、分子レベルで酸化させ、急速に破壊し始めたのである。
「身体が……力が、入らない……」
先ほどまであれほど猛々しかった帝国兵たちの身体から、みるみるうちに血の気が引いていった。歯ぐきは真っ白に変色し、激しい貧血によって、立っていることさえできずにその場へ崩れ落ちていく。
さらに、狭い谷の中で数千の大軍が「一本の列」になっていたことが、決定的な破滅を招いた。先頭の兵たちが苦悶し、倒れ、後退しようとするが、後ろの兵たちは何が起きているか分からず、自重で前へと押し寄せてくる。
「戻れ! 後ろへ下がれ!」
「だめだ! 押し潰される!!」
倒れた兵の上に、さらに後ろの兵が重なり、谷の中は瞬く間に、黒鉄の鎧が折り重なる地獄絵図へと変貌していった。霧は容赦なく谷の奥深くまで浸透し、数千の南翼部隊は、刃を交えることさえなく、ただその場に頽れていったのである。
「……なんという、悪魔の知恵だ……」
白銀の盾を構えていた聖騎士の指揮官が、目の前の光景にガタガタと震えながら呟いた。自分たちが命懸けで耐えた数百秒は、この凄惨な罠を発動させるためだけの、完璧な「蓋」だったのだ。
アルフォンスは倒れ伏す帝国兵たちの山を一瞥すると、冷酷に笑った。
「言ったはずだ。大軍など、分断してしまえばただの巨大な肉塊に過ぎないとね。さあ、残るは『中央』だけだ」
◇
中央の主戦場。
「報告! 南翼部隊からの連絡が途絶! 生存者の大半が原因不明の重い貧血に陥り、壊滅状態にあります!」
「なにいっ!?」
伝令の悲鳴に、アムレシア帝国の皇帝クセルクセスは、その獰猛な顔を怒りに歪ませた。
「馬鹿な……雑種どもの急造の軍勢相手に、我が帝国の精鋭が壊滅だと? どのような罠を使った!」
「分かりません! 谷の奥から、異様な臭いのする霧が立ち込め、触れた者たちが皆、血を吐いて倒れたと……!」
クセルクセスは、背後の闇を見つめた。自らの冷徹な知性をもってしても、この事態は予測の範疇を超えていた。
「……あのラグドールの変人か。僕の計算を狂わせる不確定要素め」
その時、中央の街道の左右の断崖から、新たな鬨の声が響き渡った。
「でんすけ自由解放軍、参上!!」
北の谷を完全に制圧し、最短ルートで中央へと駆けつけたでんすけたちが、アムレシア軍の側面に完全に回り込んでいた。
「クセルクセス! 俺たちの街を、商売を荒らした代償、きっちり払ってもらうぜ!」
シルバータビーの小さな身体が、夜風を切り裂いて突撃する。その左右には、ムサシの巨大な木刀、サスケの変幻自在の爪、マリアの艶めかしい関節技、そしてマシロの鋭利な『プリンセスクロー』が、勝利の確信と共に躍動していた。
正面の聖堂騎士団、そして側面からの自由解放軍。二つの強固な「矛」に挟まれ、完璧だったはずのアムレシア帝国軍の陣形が、内側から音を立てて崩壊し始める。
「おのれ……平民の雑種どもが、調子に乗るな!」
クセルクセスが咆哮し、自らでんすけに向けて巨大な爪を振り下ろした。その野生の凶暴さは、一撃で大地を叩き割るほどの威力を秘めている。
しかし、でんすけの瞳に恐れはなかった。
「アルフォンスの計算式は、100パーセントの確率で『勝利』へと昇華する……! 潰れろ、クセルクセス!!」
短足の重心がぐっと沈み込み、アメイジング・ショートストライドが限界を超えて回転する。
テラコッタ大陸の歴史が、今、激しく覆ろうとしていた。




