[SIX PATHS 008] 向かうは浜松、浜名湖迷宮
# Heading for Hamamatsu: The Lake Hamana Labyrinth:
東京駅のホームに立つ俺は、旅行用鞄のトップハンドルを左手で握り、頭上を見上げていた。
澄み渡る青空は、いかにもな五月晴れで、絶好の行楽日和だ。
(……まあ、俺が行く観光地は、血に塗れた迷宮なんだけど)
結衣の鈴を転がすような声が、俺の耳に届いた。
「お兄ちゃん、お弁当買おうよ!」
「ん? 静岡だし、二時間もかからないけど……いや、そうだな。久しぶりの旅行なんだ。そうするか」
「やった! 何にしようかなあ」
俺はリリスに視線を向け、口を開いた。
「リリス、昼食は弁当だ」
俺の言葉を聞いたリリスが、碧い瞳でこちらを見た。
透き通るような長い金糸の髪が、眩い陽光を返しきらきらと輝いていた。
「む? 列車で食事をするのか? あれは、食事をするような空間ではなかったが」
「今日乗る電車は特別仕様なんだ。椅子は個別だし小さなテーブルもある」
「獣世界は変わったものが多いな。分かった。ユイ、どこで買うのだ?」
結衣が、自分が呼ばれたことに気が付き、リリスのほうへ駆け寄った。
当然ではあるが、固有名詞は分かるのだ。
「リリスさん、こっちだよ。一緒に行こ」
結衣が、毛先のウェーブがかったセミロングの黒い髪を揺らし、リリスの手を引いて売店へ向かう。
旅行鞄の車輪をがたがた鳴らしながら、俺も後に続いた。
白いパーカーに赤いハーフパンツの結衣と、シンプルな黒のワンピースを着たリリス。
昼前の太陽の光に照らされる彼女たちの姿は、俺の目に健康的な眩さを帯びて映った。
最近のリリスは、迷宮の外だと、この世界の服を身につけることが多い。
全身に偽装魔法をかけ続けるのは、割と面倒らしい。最近は耳だけ誤魔化しているとのことだ。
売店の中へ足を踏み入れた俺は、二人のもとへ歩み寄る。
リリスが、他の商品を取るためにしゃがみ込んでいた。
俺の視線が、しゃがんだことで張ったワンピースの薄布に浮かぶ、彼女の丸い尻の輪郭へ向いた。
紙に包装された二つの商品を見比べていた彼女は、真っ黄色な背景に兎の絵が描かれた商品を選んだ。
「うむ、これにしよう。どうだ、ユイ」
「何々? リリスさん、それお弁当じゃないよ。お菓子だよ。まあ、それも買っちゃおっか」
結衣がリリスの示したお菓子を、俺が右手に持つ買い物かごへ入れた。
立ち上がって首を傾げたリリスに、俺は声をかけた。
「リリス、これは菓子なんだ。まあ、買っておいてホテルで食べればいい」
思案するリリスが、胸元で腕を組んだ。
むにゅりと形を変える大きな胸に、視線が惹き寄せられるのを、俺は全力で耐える。
彼女が、まぶたの半分落ちた目元のまま、視線をこちらに向けた。
「ふうむ。そうか、この派手な色の紙で包まれているものは、菓子なのだな?」
「いや、そうとも限らないんだ。文字が分からないんだから、包装された弁当は見分けがつかないよな。これで中身を見て選んでくれ。俺が持ってくるよ」
売店のサイトから外国人観光客用のメニューを開いたスマホを、俺はリリスに手渡した。
他世界から来たリリスだが、一ヶ月の生活を経て、そこそこ電子機器を使えるようになっていた。
「む。気が利くではないか。尻を見ていたことは許してやろう」
「ええ!? なんで分かったの!?」
「……言ってみただけだ。……はぁ。お前はいつも発情しているな」
お前は、嘘と冗談は言わないのではなかったのか。
呆れた表情を浮かべこちらを見るリリスから、俺は視線を外した。
しばらくして、二人が選んだ弁当と自分の焼肉弁当をかごに入れ、セルフレジへ向かった。
バーコードを手早く読み込ませ、レジのモニターパネルにスマホを翳して、金を払うと売店を出た。
リリスと結衣がまるで姉妹のように、仲良く列に並んでいた。
(……言葉が通じなくても、友達になれるものなんだな。……二人とも大したもんだ)
俺たち三人は、これから新幹線に乗り、静岡の浜松へ向かう。
純也さんから指定された迷宮が浜松だったのだ。
あの手紙が差し込まれていた翌日、アルカディア・セトラーズ株式会社の名義で、俺の電子マネーに交通費が振り込まれていた。怖すぎる。
三席並んだ座席に座り、俺たちは弁当に手をつけ始めた。
窓際に座るリリスが、手に持った箸で、器用に寿司を口に運んでいる。
金髪のエルフが、箸で寿司を食べているのは凄まじい違和感だ。
結衣は真ん中の席で、ちらし寿司をもぐもぐと食べながら、満面の笑顔を浮かべていた。
「楽しいね、お兄ちゃん! リリスさん、富士山には絶対行こうね。エルフなら、富士山見たことないよね! わたしもないけど」
「結衣、行きたいとこに連れて行ってやるが、観光は全部終わってからだぞ?」
俺は、頬張っていた焼肉弁当を飲み込むと、言った。
綺麗な黒い髪を揺らしながら、結衣が答えた。
「うん。それにしても、アルカディアからスカウトなんて、お兄ちゃん凄いね。しかも、スターウェイが試験官なんでしょ? ねえねえ、リゼロッテさんのサイン、貰うの忘れないでよ!」
あっという間に弁当を食べ終わった俺は、紙箱を片付けながら結衣に視線を向けた。
「遊びじゃないんだぞ。まあ、一応聞いてみるけどさ」
「ありがとう! 大好きお兄ちゃん!」
俺は苦笑しながら、ペットボトルの蓋を捻った。
結衣が上目遣いで、可愛らしい笑みを俺に向けてきた。
「わたしも行きたかったなあ。ねえ、だめ? お兄ちゃあん。えへへ」
「可愛く言っても駄目だ。そもそも、お前はいつも可愛いから意味はない。いや、連れていけるわけないだろ。リリス、お前からも言ってやってくれ」
「確か、中層に行くのだろう? 初心者のユイが行ける階層ではない。私も、強度の高い偽装魔法をかけながら、ユイの護衛に割く余裕はない。いざというときは戦いになるのだしな」
口を尖らせた結衣が、リリスを見たあと、こちらへ向き直った。
「リリスさんはなんて?」
「危ないから絶対駄目だとさ」
結衣が、小さく息を吐くと言った。
「そっかぁ。じゃあ、諦めるしかないね。残念だなあ」
「なんでリリスが言ったら、素直に聞くんだよ。まったく」
「ふふ、お前に甘えているんだ。分かってるだろう」
入院中の結衣は、わがままを言うことはほとんどなかった。
俺のほうもこんなふうに、強く駄目だということはできなかった。
お互いに気を遣っていたのだ。
それを悪いことだったとは思わないが、こうして我がままをいう結衣を見るのは、とても嬉しかった。
食事を終え、結衣が観光ガイドを開いたスマホを見せながら、リリスにあれこれと話しかけていた。
俺ではなく、リリスに声をかけるのは彼女なりの気配りなのだろう。
そんな彼女たちを、俺は目元を細めて眺めながら、今回の件について考えを巡らせた。
道化師との戦い以降も迷宮に潜り続けた俺のエレメントレベルは、現在62だ。
アルカディア社が経験値測定でレベル推測をしているのなら、俺を勧誘すること自体は理解できる。
だが、わざわざ純也さんが接触してきた理由にはならない。
彼はアルカディア・セトラーズという大企業の最上位探索者なのだ。
もとから、俺の急激なレベル上昇に裏があると勘ぐっていたのだろうか。
(……そうだ。……自分のことだから見落としていた。俺はリリスと出会うまで万年駆け出しだったんだ。聡い人なら何かあると思うのも当然なんじゃないか?)
茶に口をつけていたリリスに、俺は視線を向けた。
(あ! じゃあ、リリスの存在に気が付かれたのは、あの日、ぼけっと彼女たちを追いかけた俺のせいじゃないか! ……つけられたんだ)
差し込む陽の光が、彼女の整った顔に陰影を浮かべていた。
結衣が見せるスマホの写真に目を落としていたリリスが、俺の視線に気がついた。
「どうした? ソースケ」
「ああ。この事態は俺のせいだなと思ってさ。ごめん」
顔を上げたリリスが、碧い瞳をこちらへ向けた。
長いまつげが陽光に照らされ、透き通るように輝いて見えた。
「ん? ああ。いや、私も油断していた。お前だけのせいではない」
「これからは気をつけるよ。……考えてみたんだけどさ、入社試験なんて建前だよな?」
「ふむ。そうだな。無論、私の正体を探っている可能性が一番高い。だが、それだけとも限るまい」
俺は、首を傾げた。
「そうなの? それしかないと思ってた」
「うむ。なんと言えばよいか……。お前は決して平凡な男ではない。精神力だけなら大したものだ。だが、お前はずっとへっぽこだった。それはなぜか。お前の重力属性のレベルが異常だったせいだ。だが、もしお前がもとから"LV.1"であったなら、今回のような急激な成長も不可能ではない。ソースケが千人いればひとりはそこへ辿り着く」
少し吹き出した俺は、笑みを浮かべてリリスに答えた。
「なんだそりゃ」
「要するにだ。裏を勘ぐってもいる。お前に才能を感じてもいる。どちらもなのだ。私は天才ゆえ、そのジュンヤという天才未満の考えは想像がついている。だが、そんなことはお前が知らずともよい。そんなことより……いいか、絶対に怪我をするなよ」
腕を組んだ俺は、眉根を寄せて頭上を見上げたあと、リリスへ視線を向けた。
「どうにもならない?」
「ならん。私の偉大な魔法が生み出したお前の身体は、いかなる状況においても元に戻ろうとする。私は天才だからな。ああ、あと回復術師には気をつけろ。確か、隊にいると言っていたな」
「スターウェイのヒーラーは凄いぞ。国内どころか、世界でも随一のヒーラーだ」
少し間を置いて、目元を細めたリリスが涼やかな声で静かに言った。
「そんな探索者の回復魔法を受けたら、半身が消し飛ぶと思え」
俺は大きくため息をついた。
あの日、手紙を受け取ったあと、試験を受ける旨のメッセージを、スマホで純也さんに送った。
その際、当面はスキルを秘匿したいのでパーティーは組みたくないという条件を提示した。
ああいう助言をした手前なのか、純也さんは快諾してくれた。
リリスの同行禁止については、そもそも守るつもりはなかった。
レベル180を超える彼女の偽装魔法を見破れる探索者など、この世界にはいないだろう。
ともあれ、これでステータス問題は解決だ。
だが、俺が人間ではないという事実が露見する現象はまだある。
俺は身体がばらばらになったとしても、勝手に、血液ごとすべてもとに戻る。
さらに、今回リリスから聞いて初めて知ったのだが、俺は回復魔法でダメージを受けるらしい。
それも最高効率で通るらしく、簡単に吹き飛ぶ。そして、再生もなかなかしないそうだ。
身体が千切れてもくっつき、回復魔法でダメージを受けるやつを、人間とは呼ばない。
つまり、試験を受けている間、俺は魔物の攻撃を一撃も喰らってはいけないのだ。
これらをくぐり抜けられず、俺の正体が露見した場合、リリスはその場の全員を殺すと言って憚らなかった。
スターウェイ全員の命を俺が握っているのだ。……失敗できない。
思考の海に沈んでいた俺の耳に、結衣の楽しそうな声が届いた。
「わあ! お兄ちゃん、見て見て!! 富士山だよ! 新幹線からも見られるんだね」
「……ん? おお、すげえ!」
「ほう。美しい山だ。故郷のマアト山を思い出す」
結衣の、花が咲いたような笑みを見て、俺は沈んでいた気持ちを持ち直した。
リリスがこちらへ視線を向け、仏頂面のまま、うすい笑みを浮かべた。
「心配するな、ソースケ。お前が危なくなったら、すべて殺してやる。私はお前の主人だからな。安心しろ。迷宮の中なら、皆殺しにしても外には露見しない」
慈愛あふれるリリスの笑みを見て、再び俺は頭を抱えた。
富士山を通り過ぎたあと、ほどなくして列車は浜松駅へついた。
俺たちは、駅近くのホテルにチェックインした。
装備を確認した俺は、いつも以上に気を使って身だしなみを整えると、結衣に声をかけた。
「じゃあ、結衣。明後日には戻るから、大人しく待ってるんだぞ。夜中に出歩くなよ」
「分かってるよ! もうっ、子どもじゃないんだから。大丈夫ですう!」
「お前は子どもだ。じゃあリリス、行ってくるよ。後ろから来るんだよな? 俺には見えるのか?」
タイトな黒い法衣に着替えたリリスが、結衣に向けていた視線をこちらに向けた。
「平均がレベル90らしいからな。念のため監視は使い魔で行う。お前は魔力の波長ですぐに気がつくだろう」
「おお。俺の弟みたいなのが、出てくるのか?」
「使い魔は、時間が過ぎれば霧散する。情を持つのはおすすめせんが、そう思いたいなら思え。見た目はただの蝙蝠だ」
俺の腕の中でぬいぐるみみたいな蝙蝠が消えていく様子を、ぽわぽわと思い浮かべた。
「やめとくわ。俺の兄妹は結衣だけだ」
「何の話?」
結衣を見てリリスは、少し思案したあと、魔法を行使し始めた。
彼女の全身から鮮やかな紫色の魔力が溢れ出し、結衣に向けた左腕の先で収束していく。
輝きを放った魔力が形を変え、紫色の小鳥の姿になり、羽ばたいて結衣の肩に乗った。
「ユイにも使い魔を付けておこう。何をしでかすか分からんところがあるからな。私も心配になってきた。蝙蝠では目立つゆえ、姿を変えておいた。私と視界が共有されているので、何かあればすぐに分かる。さらには、目から稲妻を放つことも可能だ。そのへんのごろつき程度なら焼き殺せるぞ」
「わあ! リリスさん、本当にすごいね。でも、これはなあに?」
「素晴らしい魔法だ。結衣、その小鳥はリリスの使い魔だ。俺たちが帰ってくるまで、寂しいだろうと、彼女がお前のために作ってくれたんだ。仲良くな」
小鳥を手のひらに乗せた結衣が、嬉しそうに指先で撫でながら口を開いた。
「ありがとう、リリスさん。すごいなあ。わたしも魔法をもっと上手く使えるようになれば、こういうこともできるのかな?」
「どうなんだろうな。そういえば、俺はお前のステータスを知らないぞ。教えてくれよ」
「リリスさんが、一緒に迷宮に入るまで内緒にしておけって。だから駄目!」
こちらへ碧い瞳を向けたリリスが、笑みを浮かべた。
「知りたければ、さっさと勇気を出すことだ。……では行くぞ」
「へいへい。気の回ることで。結衣、その小鳥は魔法だから、数日で消えるそうだ。あまり情を持つなってさ」
「はあい。大丈夫だよ。玉で魔物を捕まえるゲームの鳥さんみたいなものでしょう?」
俺はそのゲームで魔物を消すことなど、とてもできないが。
子どもでも、女は割り切りが凄いな……。
二人にもう一度声をかけ、俺はホテルをあとにした。
リリスはホテルの屋上から、使い魔を介してこちらを監視するらしい。
距離を取ってから付いてくるそうだ。
ホテルをあとにした俺は、てこてこと歩きながら駅へ向かった。
◇ ◇ ◇
浜松駅のターミナルについた俺は、黒のジャケットからスマホを取り出し時間を確認した。
まだ約束の時間まで少しあるが、喫茶店に入るほどでもないと思った俺は自動販売機で缶コーヒーを買った。
プルタブを開け、缶に口をつけていると、ふと妙な波長を身体が感じた。
そちらを見上げると、上空に一匹の蝙蝠が羽ばたいていた。
(おお……。絶対あいつだ。何だか同族味を感じるぞ。えぇぇ……。あいつ消えちゃうのか……)
しばらく時間を潰していると、鮮やかな赤い車がターミナルに入ってきた。
スポーツタイプのシルエットをした車は、EVらしい静かな駆動音で、俺の目の前に止まった。
(赤のスポーツカーって。なんて、こてこてな人なんだ)
運転席のドアを開いて、見覚えのある、赤い髪を靡かせるサングラスの美青年が現れた。
濃い赤の長袖を着た純也さんが、爽やかな笑顔を浮かべ、俺に向かって手を振った。
「宗介君、お待たせ。おお? キメてるね! ははぁ、愛莉に会うからだな?」
「うるさいよ。あ、いえ、わざわざ迎えに来てくれてありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
思わず口をついた罵倒を誤魔化しながら、お礼を言っていると、助手席のドアが開いた。
てっきり出迎えに来たのは、純也さんだけだと思っていたのだが、同行者がいたようだ。
結衣より少し長い、ミディアムロングの水色の髪を揺らす、美しい少女が降りてきた。
濃紺を基調としたチェック柄の服を着た少女が、口を開いた。
「はじめまして、宗介君。へえ、写真より可愛いじゃない! リゼロッテだよ。リゼって呼んでね! 愛莉派なんてやめて、今日から君もリゼ派になろう!」
「は、はじめまして。渋谷宗介です。いつも、リゼさんの攻略記事は拝読させてもらってます。新曲も買いました」
純也さんが、車の後ろに向かいながら言った。
「ふむ。君はやはり女の顔はしっかり覚えているんだな」
にんまりした笑みを浮かべたリゼさんが、口を開いた。
「ぷぷぷ。男の子だねえ。そういう素直な子、お姉さん好きだよ。ささ、宗介君! 一緒に後ろに座ろう」
純也さんが開けたトランクに、俺は刀と荷物を仕舞いながら答えた。
「い、いえ。やめておきます。初対面の綺麗な女性の隣は緊張してしまうので」
「ははは。リゼ、宗介君は心に決めた女性がいるそうだ。お前の出る幕はないよ。なんと、すでに同棲中らしいぜ」
「そうなんだ? 可愛い顔してやるじゃない。まあ、お姉さんは彼女がいても気にしないけどね。いつでもウェルカムだよ」
俺は苦笑を浮かべながら、助手席に乗り込んだ。
リゼさんが後部座席に座ると、純也さんは車を発進させた。
車内で俺はふと思い出して、鞄から小さな色紙を取り出し、リゼさんへ顔を向けた。
「あ、そうだ。妹がリゼさんのファンなんですよ。サインお願いしてもいいですか」
「うん、もちろんいいよ。妹さんの名前は何ていうの? 漢字も教えて」
さらさらと色紙にサインをしている彼女の名は、リゼロッテ・ヴィーゼ。スターウェイ所属のヒーラーだ。
探索者として活動できるのは三十代前半が限界なので、二十代後半の彼女は熟練の探索者だ。
つまり、見た目は俺と同じ年頃にしか見えないが、少女ではない。
胸の大きい年上の女性であるリゼさんは、とても俺の好みだ。
だが、彼女から発せられる神聖な魔力に、俺はびりびりとした威圧感を覚えた。
隣に座るのを断ったのは恐怖心からである。
結衣宛の名前まで入れてくれたリゼさんのサインを受け取り、俺は結衣の喜ぶ顔を想像して、笑みを浮かべた。
移動中も、リゼさんはあれこれと話しかけてくれた。
「じゃあ、宗介君は妹さんの治療代のために探索者を始めたんだね。格好いいじゃない。あ、お菓子食べる?」
「おい、俺の車で菓子を食うな」
想像してもいなかった一流パーティーの気安さに、油断しそうになりつつ、俺は窓の外に視線を向けた。
少しずつ見えてきていた大きな汽水湖が、一気に眼前に広がった。浜名湖だ。
湖のど真ん中に、威容を誇る巨大な漆黒の門が聳え立っていた。
「お、おお……。本当に湖に門がある……」
湖畔にある喫茶店の駐車場に車を止め、俺たちは店内に入った。
奥の席に二人の人物が腰掛けているのが、見えた。
黒のシャツに、同じく黒のミニスカートを身に着けた、ポニーテールの赤い髪を揺らす少女が立ち上がり、口を開いた。
「兄さん、お疲れ様です。ええと、あなたが渋谷宗介君ですね。お話は聞いています。私は星川愛莉。剣士です。よろしくお願いしますね」
「は、はい! 渋谷宗介です! お会いできて光栄です。剣術についての本はとても参考になりました! 写真集も買いました!」
愛莉さんが差し出した小さな右手を取り、握手した俺の声が上ずった。
切れ長の目元を優しく細めた愛莉さんが、口を開いた。
「ありがとうございます。確か、宗介君は私と同じ年ですよね。気軽に接してください。敬語もなくていいですよ。私の敬語はくせなので、気にしないでください」
「いえ! 恥ずかしいので無理です! あ、あの、この前はサインありがとうございました!」
頬を上気させ、手を握ったままでいると、俺の背筋にぞくりとした悪寒が走った。
ばっと窓の外を見ると、一匹の蝙蝠が飛んでいた。
心なしか、蝙蝠が目から稲妻を放ちそうな雰囲気を感じ取り、俺は表情を正すと手を離した。
「は、ははは。で、では、今日はよろしくお願いします、愛莉さん」
「ぷぷぷ。宗介君、舞い上がってるね。恥ずかしいってなによ。可愛いねえ」
「おい。俺もいるのだが。小僧、俺には挨拶はなしか」
ふちのない眼鏡をかけた痩身の男性が、眉を上げ、腰掛けたまま言った。
女性の髪のように細くさらさらとした、少し長めの薄紫の髪が、差し込む陽光を返して輝いていた。
俺はその男性に向き直り、ぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「渋谷宗介です。いつも……ええと、よろしくお願いします。海斗さん」
「なんだ、その雑な挨拶は。まあ、いいだろう。高天原海斗だ。よろしく頼む、宗介」
純也さんが苦笑を浮かべて言った。
「本当に君は、男の情報を見ていないんだな」
「そ、そんなことないですよ。海斗さんといえば、スターウェイの大魔道士ですよね」
「それしか知らないんだろう。まあいい。愛莉、俺とリゼにアイスコーヒーを頼む。宗介君もそれでいいか?」
俺が純也さんに頷くと、愛莉さんが飲み物を手早く注文した。
全員の前にグラスが行き渡ったあと、純也さんはサングラスを外し、表情を正すと口を開いた。
「では、ブリーフィングに入る」
樹の枝にぶら下がっている蝙蝠が、窓の外に見えた。
こちらをじっと見ている蝙蝠に、違うんだ、と俺は心のなかで言い訳をしていた。
# SIX PATHS 008 END




