[SIX PATHS 006] 同じ空を見る二人
# Eyes on the Same Sky:
俺は、二十階層の洞窟めいた広い空間を、魔物と距離を保ちながら駆ける。
壁際に佇むリリスの姿が、俺の視界に映った。
眠そうな目元でこちらを見守る彼女の、碧い瞳が灯りを返して輝いていた。
狼の頭部を持つ二足歩行の獣が、魔物らしい赤黒い瞳で、俺を追っていた。
階層主であるウェアウルフだ。
全身を覆う青みを帯びた灰色の毛皮は、俺の斬撃を幾度も受け、鮮血に染まっている。
円を描くように走っていた俺は、ウェアウルフの視線を切るように加速する。
こちらに顔を向けようとする魔物の重心が、わずかに崩れた。
それを感じ取った瞬間、右足で強く地を蹴り、中空へ跳ぶ。
その衝撃が固い迷宮の地面に、ばきっと罅を奔らせた。
刀を上段に構えようとする俺に、ウェアウルフの視線が追いついた。
なんとか、こちらへ身体を向け直した魔物が、丸太のような右腕を振り上げた。
腕の先に伸びる四本の鋭い爪が、跳び上がっている俺に迫り来る。
だが、無理な体勢から振り下ろされた魔物の腕は、軌道が丸わかりだ。
何もない中空で、俺は身を捻って、その腕を避けた。
魔物の攻撃を完全に回避した俺は、肩越しに刀を振り翳し、真っ直ぐに振り抜いた。
斜めに奔る鈍色の剣閃が、ウェアウルフの右腕を斬り飛ばした。
右腕を失った魔物が、絶叫を上げた。
「ガアアア!!」
血の赤い軌跡を描きながら、くるくると獣の腕が宙を舞う。
俺は、右手で握る刀を左へ引き寄せながら素早く着地した。
ウェアウルフが、痛みに姿勢を下げ、腕を押さえていた。
俺は怯んだ魔物を真っ直ぐに見据え、左足で地を蹴って跳ぶ。
魔物の懐に入り込み、強く両足で大地を踏みしめ、両手で柄を握る。
左に引き絞っていた刀を、全力で右へ薙ぎ払った。
光を返してぎらりと輝くチタン合金製の刃が、狼男を胴から両断した。
ずずんと上体が地へ落ち、鮮血を吹き上げる下半身が、糸が切れたようにその場に倒れた。
血の噴水を避けるように、俺は後ろへ跳び下がり、刀を腰の鞘に仕舞った。
肩で息をしながら、自慢げな笑みをリリスに向けた。
「はぁ……、はぁ……。やった、やったぞ! リリス!」
「ん。言い付けどおり、重力剣なしでよく決めた。少しは身体に慣れたようだな」
「ああ、なんとかな。最初は、とんでもない距離を跳ぶから焦ったよ」
最後のほうは、ぎりぎりで制御できていたが、初めのうちは急激に伸びた身体能力に感覚が追いつかなかった。
慣れるまでの間に抉られた、腕や脇腹の傷口へ、周囲に飛び散った血がずるずると這い戻ってきていた。
こちらへ歩み寄ってきたリリスが、鞄をごそごそと漁り、塗り薬を取り出した。
彼女の細い指が傷口に薬を塗る、その感触に、上気しそうになるのを俺は堪えた。
長いまつ毛に半ば隠れたリリスの碧い瞳を見て、綺麗だなと思っていると、彼女が口を開いた。
「通常ではありえない、急激なレベル上昇だ。仕方あるまい。ふむ……丁度いい。一度、私自ら組手をしてやろう」
「杖で魔法を斬り裂くお前と打ち稽古とか、すげえ嫌なんだけど。お前の剣術ってレベル2じゃないか」
「心配するな。右手だけで相手してやる」
こちらを見上げたリリスの金糸の髪が、後ろへ流れ光を零した。
じとっとした目元からは優しさを感じるが、訓練でこいつが容赦するとは思えない。
右手だけでぼこぼこにされる未来を想像して、俺は小さく息を吐いた。
リリスが最後に包帯を巻いて、離れた。
彼女の身体から香る甘い匂いが少し遠ざかる。
俺は顔を上げ、ウェアウルフの死骸から流れてくる経験値の赤い光を眺めた。
腕輪が鳴らす電子音を聞いて、自然と笑みが浮かんだ。
(……これで結衣は手術を受けられる。やるべきことを、ひとつやり遂げられた)
リリスが杖を右手に持ったまま、こちらへ視線を向けた。
「この階層主の討伐で妹のための金が稼げたのか? お前たちの社会形態はよく分からんな。なぜ、迷宮の魔物討伐で金が入るのだ」
「俺もよく知らないんだよな。なんか、国家事業なんだよ。ちょっと待ってくれ。念のため、確認しておく。――ナビゲート起動、今回の迷宮攻略の報酬額を提示」
鈍い銀色の光沢を放つ、メタリックグラス製の腕輪から美しい女性の声が響く。
「渋谷宗介様。横浜迷宮セッションID260204DA01の獲得報酬は、現在、五万四千ドルになります」
「ありがとう。ナビゲート終了。……ばっちりだ、リリス。ふふふ、焼肉も食えるぞ!」
リリスが胸元で腕を組み、うっすらと笑みを浮かべた。
黒い法衣に包まれた大きな胸が、ふにゅりと形を歪めて持ち上がっていた。
相変わらず口元以外は仏頂面のままだが、不思議と慈愛を感じる笑顔だ。
「そうか。では戻るぞ。お前も手術とやらが落ち着くまで迷宮に行きたくないだろう。その間、外でみっちり訓練をつけてやる。今後の話も必要だ。潜る迷宮を変えなければならんからな」
「ああ。……本当にありがとう、リリス」
「ふん。礼は妹が元気になったあとでよい。それに、お前自身が頑張った結果だ。よくやった」
リリスに不意打ちのように褒められて、俺は完全に上気してしまった。
赤くなった頬を見られないように、彼女から視線を外した。
階層主が死んだことにより、深淵を湛えた闇の窓がふたつ浮かんでいた。
部屋の奥にあるのは二十一階層へ繋がる窓、眼前にある中央の窓は帰還用の窓だ。
俺とリリスは、荷物をまとめ、帰還用の窓をくぐった。
迷宮から出た俺は、外の陽光の眩しさに目を細めた。
俺は晴れやかな気持ちで、リリスと会話しながら木々の生い茂る保護区を歩いた。
潮風が樹木を揺らし、ざざあっという音を立てている。木々の隙間からは、祝福のように木漏れ日が差していた。
金を手に入れた俺の行動は早かった。
まずその日のうちに、同じ品川にある、人間が医療を行う国営病院へ結衣を転院させた。
時の魔法で進行は遅らせているが、結衣の病は本来、予断を許さない状況だったのだ。だから、手術はすぐに行われた。
手術が終わったあと、医師から成功を伝えられたときは、現実感を抱くことができず、俺は生返事しかできなかった。
目を覚ました結衣がこちらへ顔を向け、優しく微笑みながら俺のことをお兄ちゃんと呼んだ。
その声を聞いて、俺は結衣を蝕んでいた運命がひとまず遠ざかったことを悟り、ようやく全身から力が抜けた。
――それから、数週間後。
俺は、ここのところ毎日見上げていた、真っ白な病院の建物を眺めていた。
前にいた医療センターの古びた窓とは違う、磨き上げられた硝子窓が、まるで鏡のように光を返している。
黒いジャケットを羽織る俺の腕を、温かな細腕が絡め取った。
俺の腕にぶら下がるように抱きつく結衣の元気な声が、耳に届いた。
「お兄ちゃん、何見てるの? 早く帰ろうよ」
「ん? ああ、わるいわるい」
感傷にふけっていた俺は、腕に絡みつく結衣へ顔を向けた。
すっかり顔色のよくなった結衣が、にこやかな笑みを浮かべて俺を見上げている。
白いパーカーに赤いハーフパンツを合わせた結衣は、病み上がりでまだ身体の線は細いものの、昔のように元気いっぱいだ。
やばい、また涙ぐみそう。
眩い陽光に照らされた、小生意気そうな笑顔の彼女は、六界で最も可愛い少女である。
だが、俺の腕に押し付けられている結衣の胸には、何の感慨も湧かない。不思議だ。
リリスの胸は見ているだけでどきどきするというのに。
結衣の手術が成功し、予後観察のための入院期間に入ると、過酷な鍛錬を課された俺は毎晩のようにリリスにぼこぼこにされた。
俺の腕とか脚は、何度も宙を舞った。
リリスの柔らかく弾む胸がなければ、精神が持たなかっただろう。
後ろに立つリリスへ、俺は振り返った。
「そろそろ行こうか、リリス」
「ん。ソースケ。どうでもいいが、お前たち本当に兄妹か? 仲がいいにしても限度が……まあ、よいか」
結衣が退院したので、しばらくの間は三人で住むことになる。俺は、北千住の駅近くに新居を借りていた。
こてんと小首を傾げた結衣が、リリスと俺を交互に見た。
「ねえねえ、お兄ちゃん。リリスさんが退院祝いに来てくれたのは嬉しいんだけど、このまま新しい家に遊びに来るの? そういえば、毎日のお見舞いもほとんど二人一緒だったね」
「む? 娘、そこまで礼を言わんでもいいぞ」
お互いに言葉の通じない彼女たちは、まったく会話が噛み合っていない。
だというのに、なぜリリスはいつも自信満々なのだろう。
結衣の言葉を受けた俺は、答えに詰まった。
「……うっ。その……ええとだな。……彼女も、一緒に住むんだ」
俺は、新しく借りた家にリリスも住むことを結衣に言っていなかった。
説明が難しかったことに加え、毎日半殺しにされるせいで伝え方を考える余裕がなかったのだ。すべてを結衣に伝える勇気も、俺にはなかった。
(……結衣も年頃の女の子だ。同性とはいえ、嫌がられたらどうしよう)
おそるおそる薄目で結衣を見ると、彼女は目をまんまるにして驚いていた。
「え! ええええ!? お、お兄ちゃん、手が早いね……。そっかあ。わたしは歓迎だけど、リリスさん、わたしがいたら嫌じゃない? いちゃいちゃしにくいだろうし、お邪魔なんじゃ……」
「ん。なぜ、そんなに上目遣いで見るのだ。私は童女には優しいぞ。心配するな」
眉を上げたリリスに、俺は視線を向けて口を開いた。
「なんだかお前ら、微妙に会話が噛み合ってるな。リリス、結衣は自分がいたら邪魔じゃないか、ってさ。俺とお前があれだ、あれだからあれだ」
「どうした、ソースケ。何を言っているのかまったく分からんぞ。ふむ。娘よ、お前の兄は私の下僕だが、お前は違う。普段通りでよい。私は寛大ゆえ、それほど気を遣う必要はない」
俺は少し思案し、結衣に訳して伝えた。
「結衣、リリスは気にするなってさ。仲良くやってこうと言っている」
「ほんと!? えへへ……リリスさん優しいから嬉しいな。お義姉ちゃんっていうのはまだ早いかな?」
俺の腕から離れた結衣が、リリスのそばへ走り寄り、彼女に右手を伸ばした。
リリスは仏頂面のまま、うすく笑みを浮かべてその手を取った。
俺は、仲良く握手する二人に声をかけた。
「よし、じゃあ帰ろうか。新居を見たらびっくりするぞ、結衣。前のぼろ小屋とは違うからな。兄は奮発したのだ」
「楽しみだね! でも、前のお家も好きだったよ。冬はちょっと寒かったけど」
幅の広い国道の脇を伸びる、白と茶のタイル状に舗装された歩道を歩く。
ちらりと後ろを振り返ると、言葉が通じないことなど気にせず、結衣が楽しそうにリリスに話しかけていた。
心なしか、結衣の勢いに、リリスが少し押されているような気がした。
(……本当によかった。リリスのお陰だ。これを一年で終わらせないぞ。俺はもっと強くなるんだ)
俺は刀の柄に左手をかけながら、春めいた澄み渡る青空を見上げた。
遮るもののない大空に目を馳せながら、ふと思った。
他の世界の空は、何色なんだろうか。
結衣のこととは関係なく、興味を覚えた。
俺は、少しだけ冒険心が湧き上がってくるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
宗介が、自分の歩きたい道に気づき始めていた頃。
太平洋のはるか上空、雲海の上を、真っ白に塗り上げられたプライベートジェットが飛行していた。
流線型の機体に大きく描かれているのは、天馬をモチーフとして三角形にデザインされたシルエット。
国際企業アルカディアグループ。その中で迷宮探索事業を担う、アルカディア・セトラーズ株式会社のロゴマークだ。
CEO専用機の広い椅子に、美しい銀色の髪をなでつけた男性が腰を下ろしていた。
年の頃は二十代後半に見える彼は、手元のタブレットで報告書に目を通していた。
整った相貌に、神経質そうな鋭い目元をした彼が、眉を上げた。
彼は、社の内外を問わず、国内の有望な探索者はすべて記憶している。だが、そんな彼に見覚えのない探索者の名前が記載されていた。
左腕に巻かれた銀色の光沢を放つ腕輪に、彼は命令した。
「――ナビゲート起動。このエレメントレベル管理報告書の更新はいつだ。それと、こいつだ。この"Sousuke Shibuya"のエリア詳細、及び所属も提示しろ」
「ディエス・アルバート様。ご案内いたします。最終更新日時は三日前、四月二十二日午後一時です。対象者、"Labyrinth Settler: Sousuke Shibuya" の主要活動エリアは東京近郊。所属はありません」
ディエスは目元を細め、顎を指先で撫でた。
(レベル24の探索者が、一週間も経たずにレベル56だと? その手前の二年間の経歴はいかにも平凡だ。天才ではない。人間は突然、物語のように才能を開花させたりはしない。何かあるな。……無所属の個人探索者か)
彼は天井へ視線を投げ、しばらく思案した。
数十秒ほど、飲み物の置かれたテーブルを指で叩いたあと、彼は口を開いた。
「極東支社に伝達。私がそちらに到着するまでに、この小僧の身辺調査を行っておけ」
「ディエス・アルバート様。当機はあと7時間ほどで、東京空港へ到着いたします。到着までに、という指定でよろしいでしょうか?」
すでに、次の資料について思考を巡らせ始めていたディエスは、苛立ちを含んだ声で答えた。
「私の指示を聞き返すな」
「承知いたしました。――伝達を完了いたしました」
再び、機内は静まり返り、ときおりディエスが指先でテーブルを叩く、とんとんという音だけが響いていた。
しばらくして、ふと予感を覚えた彼は窓の外へ視線を向けた。
雲の上を、変わり映えのしない青い空がどこまでも広がっていた。
そのつまらない景色を眺める自分が、薄い笑みを浮かべていることに、ディエスはしばらくしてから気がついた。
◇ ◇ ◇
東京、北千住の雑居ビルに暖簾を掲げる焼肉店。
俺は初めて訪れた高級な焼肉店で、特上カルビを乗せた白米をかきこんでいた。
「うめえ! なんだこれ!」
「いつもありがとう、お兄ちゃん。わたしが、いっぱい焼いてあげるね!」
結衣が笑みを浮かべながら、小さな手で、追加の肉を網の上に並べていた。
彼女の幸せそうな笑顔を見て、俺の心がじんわり温かくなるのを感じた。
リリスと結衣は、俺の向かいの席に隣り合って腰を下ろしていた。
俺は、肉とご飯をもきゅもきゅと頬張ったまま、リリスに視線を向けた。
いつも通り仏頂面のリリスが、フォークで持ち上げた牛タンを眺めながら、眉根を寄せていた。
彼女は美しい金糸の髪に油が飛ばないように、珍しく後ろで髪を束ねていた。
ときおり、うなじが見えて俺はどきどきしていた。
「なんだこれは。舌ではないか。こんなものを食べるのか? 下品だ」
「あ、リリスさん。もしかして、牛タンを初めて食べるのかな? これをつけて食べると美味しいよ!」
紙エプロンをした結衣が、刻み葱の混ざった付けだれをリリスに差し出した。
リリスがテーブルに置かれた茶色い液体と結衣を交互に見た。
「ううむ。まあ、ユイが言うのであれば食してみるか」
リリスが、牛タンを付けだれに浸してから、左手を下に添え上品に小さな口へ運んだ。
ほんのり目を見開いたリリスが、うすく笑みを浮かべた。
「ほう。なかなか美味い。褒めてやる、ユイ」
「でしょう! あ、お野菜も焼けたよ!」
仲よさげに食事をするリリスと結衣を眺めていた俺は、口の中の油を麦酒で流しながら、思った。
こいつら、言葉が通じていないなんて嘘なんじゃないだろうか。
# SIX PATHS 006 END
第一章完となります。
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