[SIX PATHS 011] 雷鳴轟く紫電の稲妻
# The Violet Lightning That Roars with Thunder:
無数の星が瞬く夜空の下、川辺の流木に腰を下ろした愛莉さんの横で、俺は腰をかがめた。
愛莉さんが自分で手当てしたと思しき、乱雑に巻かれた右腕の包帯を取る。
傷口から赤い血が再び流れ出し、白く細い腕のなめらかな線を伝っていく。
俺は、鞄の中に残っていた包帯を、愛莉さんの右腕に巻き直し始めた。
応急キットのうち、薬と消毒液は水に浸かって使い物にならなくなっていたが、新品の包帯だけは、密封されていて無事だったのだ。
彼女の傷口を止血しながら、この細い腕から、どうすればあんな筋力が発揮されるのだろうと考えていると、愛莉さんが口を開いた。
「かなりの距離を流されました。おそらく今いる階層は、三十後半といったところでしょう」
「なるほど……。それにしてもあの濁流の中で、よく俺の腕を拾えましたね」
迷宮は十階層を区切りに空間が断絶している。
だから、彼女の言う通り、ここが三十九階層までのどこかなのは間違いないだろう。
周囲を見渡しながら思案していると、愛莉さんがこちらに視線を向けていることに気がついた。
微笑を浮かべた彼女が、ぼそりと呟いた。
「ばらしますよ?」
「……よく、拾えたな」
「名前も呼んでください。もちろん、呼び捨てです」
「は、はい……。あ、ありがとう、……あ、愛莉」
にこりと微笑んだ愛莉さんは、右腕の動きを確かめ始めた。
「うふふ。これは、なかなか楽しいですね。……ええと、腕は川の中で拾ったのではありませんよ。なんとか、ここで川の流れから脱したのですが、息をしていない貴方を前に狼狽えていると、川辺から赤い血とともに貴方の腕が、ずるずるとですね」
「……俺の腕が驚かせて、すいません」
「いえいえ。驚くどころか、独りでに這い寄る腕を見た私は一縷の希望を抱きましたよ。拾い上げた腕を、貴方の身体に添えてみたら、断面の肉がうぞうぞ蠢いてくっつき始めたときなんて、安堵に息を吐いたくらいです」
彼女の美しい声音で語られる内容は、誰が聞いても立派な恐怖体験である。
大変申し訳なく思い、俺は縮こまって答えた。
「……俺の身体が不気味で、すいません」
彼女はきょとんとした表情を浮かべて、こちらへ顔を向けた。
目をぱちぱちと瞬かせたあと、苦笑を浮かべて言った。
「もう、宗介君。不気味だとかそういう気持ちを、その程度で私が抱くわけがないでしょう? 私は深窓のお嬢様じゃありませんよ。どれだけ魔物の肉を斬り裂いてきたと思っているのですか」
俺は、首を傾げた。
それとこれとは別問題ではないだろうか。
不思議そうにする俺を見た愛莉さんは、小さく息を吐いた。
「……あのですね。貴方は窮地の私の前に立って刀を振るい、こちらを全滅させかねない魔物を、たった一人で打ち倒したのですよ? それも、左腕を失いながら」
「はあ……。まあ、俺は腕が千切れてもくっつくから。あの……もしかして、気がついてないとかかな? 俺、アンデッドですよ?」
「敬語に戻ってます。気をつけてくださいね。……いえ、きちんと分かってますよ。繰り返しになりますが、貴方は命がけで私を助けたのです。そんな細かいこと、気にするわけないでしょう」
愛莉さんは、この話は終わりだとばかりに立ち上がり、腰の鞄から予備の黒いリボンを取り出した。
透き通るような美しさの赤い髪を掻き上げ、頭の高い位置で結い始めた。
彼女の白いうなじが露わになるのを見て、少し照れくさくなった俺は、視線を外しながら答えた。
「いやまあ、俺はもともと死んでるからさ。命は賭けてないよ」
「……その冗談は面白くありませんよ。兄さんも言ってましたが、宗介君は冗談が下手なのでやめたほうがいいですね」
「そ、そんなことねえし。妹はいつも笑ってくれるし」
ポニーテールに結い直した赤い髪を、首を振って後ろに流した愛莉さんは、右手を剣の柄にかけた。
少しだけ眉根を寄せ、手を離すと手のひらを握っては開いた。その様子を見る限り、やはり剣を握るのは厳しそうだ。
「そうですか。それはそれは。気遣いのできる、いい妹さんですね。……さて、装備は大丈夫ですか?」
俺は口を尖らせて聞いていたが、進行の話になったので表情を正した。
左腕の動きを確かめ、鞘に収めた刀に目をやる。俺は最後まで刀を握り続けていたらしい。戦士の誇りか、もしくは死後硬直だ。まあ、常に死んでいるのだが。
「はい。大丈夫です……大丈夫だ。腕輪はなくなっちゃったけど……まあ、あの濁流じゃ仕方ないか。……はぁ。……腕輪の再発行って、千ドルはかかるよなあ」
「管理腕輪ですか? そういえば腕にくっついてませんでしたね。心配いりません。貴方を戦わせたのは試験官である私たちの過失ですから、労災になりますよ。必ずそうなるよう、口添えしますので安心してください」
胸をなでおろした俺は、満面の笑顔を愛莉さんに向けた。
「ほ、本当か!? よかった」
「ふふ。それにお金くらい、私がいくらでも貸してあげます。命の恩人ですからね。……では、行きましょうか。頼りにしていますよ。宗介君」
愛莉さんと話し合った結果、俺たちは階層を降りていくことに決めていた。
四十階層への窓を目指す。
緊急事態の取り決めからすると、純也さんたちは四十階層へ向かうはずだからだ。
ステータスウィンドウで、愛莉さんの無事は向こうに伝わっている。
彼女が言うには、スターウェイの皆も大丈夫そうだとのことだった。
つまり、俺が内心で恐れていた、リリスによる彼らへの粛清も起こっていない。
探索者の強靭な肉体のおかげもあり、愛莉さんの血は止まり始めているが、筋を負傷している彼女はまともに剣を振るえる状態ではない。ヒーラーであるリゼさんと合流するまで、戦うことはできないだろう。
つまり、ここがどこかも分からない状態から、三十九階層の最奥まで、俺が魔物を倒していかなければならない。
だが、俺はやれると確信していた。
――水竜を斬り裂いた俺のレベルは、70を超えていたのだ。
◇ ◇ ◇
愛莉さんのマッピングスキルを頼りに見つけた獣道は、川辺から森林の中へ伸びていた。
俺たちを運んだ大河の濁流が立てる音が響く。
あの夜空は偽りで、どれだけ待とうと朝が訪れることはない。
永遠の闇夜を、俺の腰に吊るしたランタンのLEDの灯りが切り裂いていた。
俺が駆け抜けた場所に、人の頭ほどもありそうな石が、どかどかと降り注いだ。
走り続けながら、鬱蒼と生い茂る樹木の上方に視線を向けた。
大樹の枝に、赤い瞳をした大猿が一体ぶら下がっていた。
さらに、その下には地を踏む二体の魔物。大きな青い獅子たちが、唸り声を上げてこちらを睨みつけている。
青い火炎を帯びた獅子たちの尻尾が、薄暗い森に浮かび上がっていた。
赤い瞳に憎悪を宿す二体の青獅子が、鋭い牙の覗くあぎとを開いた。
魔物の口腔に収束した魔力が輝きを増し、青白い粒子を漂わせる。
青獅子が起こした青白い炎の息吹が、こちらへ迫り来る。
俺は、脚にぐっと力を込め、大地を蹴った。
とんでもない速度で視界が切り替わり、予定よりはるかに高く跳び上がった俺は姿勢を崩した。
道化師戦の直後もそうだったが、急激なレベルアップは意識が追いつかない。
「うおあ!? またやっちまった!」
「宗介君、落ち着いてください! レベルが10近く上がっているのです! 丁寧に動くことを心がけてください!」
「は、はい!」
俺の眼前に、巨大な樹木が迫る。
中空で姿勢を変えた俺は、樹に脚を向け、鞘に刀を仕舞いながら魔力を解放した。
(この樹は、俺の大地だ! 地面だ!)
リリスの指南を受けて気がついたのだが、俺の魔力が大地や空気を消滅させたのは、暴走したときだけだ。それは、"Lv.3"のころから変わらない。彼女の話では、魔法や魔力は術者の知覚と認識の影響を強く受けるらしい。
どっしりと根を張った大樹は、まさに不動の大地で、俺の魔力は樹を消滅させなかった。
真っ黒な魔力を揺蕩わせた俺は、樹を蹴って獅子に迫りながら、歌を紡いだ。
「――闇の大蛇よ。我が刀剣に宿りて、すべてを斬り裂く漆黒の刃と化せ」
左手で握った黒塗りの鞘を捻り、横薙ぎの位置に整え、右手を柄に添えた。
青獅子の眼前、中空で柄を握りしめ、闇の刃を引き抜いた。
漆黒の居合が奔り、上下に両断された青獅子から赤い鮮血が迸る。
身体を捻って着地した俺は、地を蹴って跳び込み、もう一体の青獅子へ水平に刃を奔らせた。
顔面を斬りつけられた獅子が血飛沫を撒き散らし、絶叫を上げた。
返す刀を下段へ構え、振り上げる。ずばあっと斬撃音が響き、獅子の首が宙を舞った。
降り注ぐ血を避けるように下がりながら、石を投げつけてきていた大猿へ視線を向けた。
大猿の後ろに、跳び上がった愛莉さんが見えた。
彼女が、黒いミニスカートからすらりと伸びた脚で、大猿を蹴り抜いた。
蹴りを放った愛莉さんが、中空でうすく笑みを浮かべて言った。
「どうにも見てるだけは暇ですね。あとはお願いします、宗介君」
「お、大人しくしててくださいよ! ……してろよ!」
レベル90超えの戦士の蹴りをまともに受けた大猿が、血反吐を吐き、こちらへ錐揉みしながら飛んできた。
俺は、両手で握った刀を大猿に向けて振り下ろし、両断した。
宙でくるりと回転して降り立った愛莉さんの胸元の膨らみが、ふるんっと弾む。
水竜との戦いで、胸回りの破れた黒いシャツから覗く、谷間の影が柔らかく沈み込んだ。
俺は、血糊を払いながら口を開いた。
「あの……恥ずかしいんですけど。せめて名前はさん付けでは……」
「却下です。本当は、はいって返事も駄目なんですからね。……というか、リゼさんにはあんなに親しげだったじゃないですか。私は同じ年なんですよ? なぜ、そんなに畏まるのですか」
「いや、初めはリゼさんにも緊張してたんだけど、あの人、あまりにも下世話すぎて気にならなくなったと言うか……」
愛莉さんが乱れた服を整えながら、こちらに視線だけを向けた。
眉を上げた彼女は、小さく息を吐いた。
「はぁ……。彼女は貴方を気に入っているから、わざとああいう態度を取っているんですよ。つまり、宗介君のその反応はリゼさんの思惑通りに、絡め取られてますからね」
俺は納刀しながら、首を傾げた。
「へ? どういうこと?」
「……本気で言ってますか?」
こちらに歩み寄った愛莉さんが、俺を見上げて言った。
彼女の汗の甘い匂いがほんのり届く。
俺は腕を組んで思案したが、愛莉さんの言葉の意味が全然分からなかった。
愛莉さんが、胡乱げな表情を浮かべた。
「宗介君は、あれですね。兄さんと全然違う経路を辿りつつも、最終的には似たような結果に行き着くタイプですね」
「ええ! あれと一緒にしないでくれよ。……あ、ごめん」
「いいですね。その調子で話してください。気にしないでいいですよ。兄さんの女癖は妹の私から見ても、最悪ですからね」
彼女はにこりと笑みを浮かべると、背で両手を組み、道を進みだした。
それから、階層を繋ぐ通路を二度通り抜けた。
変わり映えしない森と河の景色が続く。
徐々にレベル70の身体に慣れてきた俺は、道中で出くわした魔物を、危なげなく退け続けた。
そして、ようやく変化の予兆が現れた。
目の前には、真っ青な岩石でできた地下洞窟への入口が見えている。
鍾乳洞のような内部に人工的な階段が伸びるちぐはぐな様子は、間違いなく階層を跨ぐ階段だ。
ここまでの壁面を穿っていた通路とは違い、階段を下っていくようだ。
そろそろ、この満天の星空とはお別れなのだろうか。
青い階段を降りていく。
洞窟を抜けた先は小高い丘になっていて、眼下には大きな森林と、それを分断する大渓谷が広がっていた。
俺は頭上を見上げた。
地下洞窟へ降りてきたはずが、なぜか天井はなく、これまでと同じ夜空が広がっていた。
ただ、これまですぐそばを流れていた大河は、眼下に見える大渓谷の底を流れていた。とんでもない高さの断崖だ。
隣に立つ愛莉さんが、風になびく赤い髪を押さえ、笑みを浮かべた。
身体の線が浮かぶ黒い衣服に包まれた彼女の肢体を、星明かりが照らしていた。
「これはまた……。素晴らしい景色ですね。あの空は、一体どうなっているのでしょうか」
「ううむ。天井はどこにいっちゃったんだろうか」
「迷宮は不思議ですよね。この景色も、数日で変わってしまいますし」
しばらくして、俺たちは断崖の横を通る道を進み始めた。
やがて、断崖のこちらと向こうとを繋ぐ、長大な吊り橋が見えてきた。
木製の板を組み合わせた橋はいかにも頼りなく、吹き抜ける風で揺れるたび、ぎいぎいと音を立てている。
迷宮の構造物だから材質に意味はないが、それでもかなり渡るのを躊躇する橋だ。
俺が吊り橋の手前まで行き、縄の状態を確認し始めると、愛莉さんが言った。
「そういえば、宗介君がアンデッドになったのは最近なのですよね? 生者とほぼ変わらない肉体だなんて、魔法を使ったのは相当な術者ですね。ああ、話に聞いた彼女さんがそうなのでしょうか」
「ええと、その辺は少し込み入った話で……あと彼女ではないというか」
「そうですか。おっと、これでは詮索しているのと変わりませんね。すいません。……彼女はいないということですか」
あたりに魔物の気配がないことを確認し、俺と愛莉さんは頼りなく揺れる吊り橋を渡り始めた。
「ああ、そうそう。忘れるところでした。アンデッドの件は、リゼさんにだけは伝えておいたほうがいいですよ」
俺は振り向いて、彼女に答えた。
「え? なんで?」
「宗介君、あのときリゼさんのことも咄嗟に助けてましたよね。あれ、結構彼女の心に響いたと思います。再会した瞬間に抱きつかれて、勢いのまま回復魔法をかけられかねませんよ」
「そ、それはやばい。あの人に本気でヒールされたら半身が吹き飛んじゃう」
ぎいぎいと揺れる吊り橋を、軽やかに歩む愛莉さんの、赤いポニーテールが風になびく。
綺麗な茶褐色の瞳をこちらに向けた彼女が、思案しながら言った。
「……それほど特効なのですか。では、リゼさんには私から上手く話しておきます。海斗さんは単純な人なのでどちらでもいいですが、兄さんには絶対にばれないようにしてくださいね。あれで、結構現場主義ですから会社に教えることはないでしょうが、兄さんは基本的にあくどいですからね」
……ぼろくそに言われてるな、純也さん。俺は結構、お兄ちゃんみたいで好きなんだけど。
彼を庇おうと思って、俺が振り向くと、眉根を寄せた愛莉さんが谷底を見ていた。
「……どうした?」
「……っ!? まさか!? 宗介君、走って! バックアタックです!」
緑色の突風が吹き上がり、俺の黒い髪と、愛莉さんの赤いポニーテールをひるがえした。
愛莉さんの索敵をくぐり抜けた魔物が、谷底から現れ、上空に飛び上がった。
白い翼を広げ飛翔するグリフォンが、雄叫びを上げた。
俺は愛莉さんを後ろに押しのけ、刀を抜き放った。
鈎爪を突き立てようと、こちらへ突進してくるグリフォンへ向け、刀を薙ぎ払う。
鈍色の剣閃と鈎爪がぶつかりあい、衝撃波が巻き起こる。
執拗に振るわれ続ける鈎爪を凌ぎながら、声を上げた。
「俺が止める! 愛莉、走り抜けろ!」
「そ、宗介君!?」
俺たちが立っているのは、目がくらむような高さにかけられた吊り橋だ。
この頼りない橋を落とされたら、俺はともかく愛莉が死んでしまう。
俺は、焦って叫んだ。
「早く行け! 俺はどうなっても平気だ!」
「い、いやです! 平気じゃないことなんて分かってます!」
(……くそっ、まずい。俺は、この頼りない橋を地面だと思うことができない)
魔力を解放することはできないし、背を向けるわけにもいかない。
やつが、風魔法で橋を落としたら終わりなのだ。
(……いや、待てよ。魔物も経験値を狙っているんじゃないか? なら、橋を落とすことはないかもしれない)
数瞬だけ逡巡した俺は、その思いつきに賭けることにした。
全力で刀を薙ぎ払い、踵を返して愛莉を抱き上げた。
「全力でしがみつけ! 本気で走るぞ!」
「わ、わかりました!」
ぐらぐらと揺れ続ける吊り橋の上を、全力で走る。
しがみつく愛莉の、密着した胸が逃げ場をなくしてぐにゅりと歪み、身体から漂う少女の匂いが俺の鼻腔を掠める。濃い色香が、俺の全身に力を与えた。
だが、どれだけ俺が加速しようと、グリフォンは飛翔しているのだ。
風を感じた俺は、駆けながら後ろを振り向いた。
俺たちを射程に捉えたグリフォンが、その鋭い鈎爪を突き立てようと、大きく翼を広げて迫り来ていた。
――その瞬間、俺の全身に甘い予感が奔った。
紫電を迸らせる稲妻が、一瞬夜空を染め上げる。
遅れて、雷鳴が轟く。
雷撃に穿たれ半身を失った魔物に向かって、もう一度稲妻が奔り、グリフォンだった黒い塊が落下していく。
ほっとして弛緩しそうになる身体に鞭打ち、なんとか吊り橋を渡りきった。
大地を踏みしめた俺は、振り向いた。
タイトな黒い法衣を纏った、長い金糸の髪の少女が、吊り橋の上をゆっくりと歩いて来ていた。
こちらを見つめる碧い瞳は、眠そうなまぶたに半分隠れている。
長いまつげが彩る目元が、すっと細まった。
リリスが、潤いのある小さな唇を開いた。
「おい、ソースケ。心配して、急いで追いかけてきてやったというのに、他の女を抱いているとは何事だ。それでも私の下僕か」
「リリス。助かった……ありがとう」
胸元で腕を組んだリリスの大きな胸が、むにゅりと持ち上がる。
じとっとした目つきで、彼女が言った。
「ふん。あとで折檻だ。まあ、今はよい。さっさと女を離してこちらへ来い、ソースケ。他の者はいざ知らず、そいつにはばれたのだろう。……すぐに殺してやる」
「うえ!? いや、待ってくれ。リリス。愛莉は大丈夫だ!」
「アイリ? この愚か者が……。私に花束を送ると言っておいて、親しげに他の女の名を呼ぶなど……。いいから、さっさとこちらに来い。そいつは殺す。今すぐ殺す」
いつも通り、表情の分かりにくい眠そうな仏頂面だが、俺には分かる。
リリスはめちゃくちゃ不機嫌だ。
俺にだけ聞こえる程度の小声で、愛莉が呟いた。
「……なるほど。彼女が貴方の術者というわけですね」
そっと俺から離れた愛莉が、リリスに向かって歩み寄った。
冷たい視線を投げかけるリリスの前で、愛莉は躊躇なく跪き、凛とした声音で言った。
「異界の姫君。貴女の騎士に気安く触れたこと、お詫びします。お怒りになるのも無理はありません。ですが、彼に命を救われたこの身、もしお許しをいただけるのであれば、この命は彼のために使いたいと願っています」
愛莉の勢いに少し押されたリリスが姿勢を正すと、鼻を鳴らして口を開いた。
「ひ、姫君? ふ、ふん。口だけならなんとでも言える。いいだろう。では、ソースケの命令には絶対に逆らえなくなる呪いでもかけてやろうか?」
「望むところです」
「いや、望むなよ!?」
眉根を寄せたリリスが、組んでいた腕を下げ、俺と愛莉を交互に見た。
こちらにてこてこと歩み寄ったリリスが右腕を伸ばし、俺の頬を摘んで引っ張りながら、愛莉に視線を向けた。
「こ、こいつに絶対服従だぞ? 言っておくが、ソースケは万年発情期だ」
「姫君は知らぬことでしょうが、そもそも私たちの世界の男性はすべて年中発情しています。他の者ならばいざしらず、彼の望みとあらば、問題ありません」
「ほんなほふはい! やめろ、リリス。痛いよ」
手を離したリリスは、杖の先で俺の額をぐりぐり押しながら、口を開いた。
「おい、ソースケ。お前この女に何をしたのだ。この不埒者が。浮気者の軽薄男めが。この件は、しっかりとユイに伝えるからな。……ああ、もういい、女。人の精神を縛る魔法などあるわけがないだろう。馬鹿が」
「姫君の慈悲に、感謝いたします」
「その演技はやめろ、女。不快だ。生かしておいてやるから、今後はソースケのためだけに働け。だが、色目を使ったら即座に殺す。こいつは私の下僕だ。覚えておけ」
どうやら愛莉の命が助かったことを悟った俺は、大きく息を吐いた。
リリスが俺のことを心配してくれているだけなのは分かっているが、少し焦った。
彼女に笑顔を向けて、俺は言った。
「心配かけたな、リリス。ありがとう。あ、そうだ! 水竜を斬ったときは格好良かったろ? あれは二十万回分くらいあったんじゃないか?」
「馬鹿者。あのとき、お前はひとりで逃げ出すべきだった。お前の戦いは、ユイを救うためにあるのだろう」
少し不貞腐れた俺は、口を尖らせて答えた。
「ちぇ、よく言うよ。仲間を捨てて逃げ出すような男、お前が認めるわけがない。俺はお前に格好をつけるために戦ったんだ」
「むっ。口説いているつもりか。千年早いわ、愚か者が。だがまあ、気分がいいのでその件は許してやる。……しかし、他の女と乳繰り合っていたことは非常に不愉快だった。よって百万回へ戻す」
「ええ……。頑張ったのに……」
リリスは、しょんぼりする俺の頭を軽く銀の杖でこずき、森林の入口を示した。
そこには楕円形の闇が浮かんでいる。
「うるさい。その後ろの窓は四十階層への入り口だ。ソースケ、試験とやらは終わったのだろう。さっさと階層主を倒して帰るぞ。アイリとか言ったな。お前はついてくるな」
「はい、姫君。分かりました」
「な、なあ、リリス。ここに彼女を、一人置いていくのは危なくないかなあ……なんて」
眉根を寄せたリリスは小さく息を吐くと、愛莉へ視線を向けた。
「ソースケに感謝しろ、女。ついてくることを許す。だが、決して戦いには加わるな。余計なことをしたら殺す。ほれ行け、ソースケ。……私は手を出さん。階層主は、お前がひとりで倒せ」
「え!? 俺、二十階層の主としか戦ったことないんだぞ!? 無茶言うなよ!」
「……なぜ、お前は安心すると甘えだすのだ。最後まで格好をつけんか。では、ひとりで倒せたら回数を元に戻してやる。何回かなど、もう覚えていないが」
俺は四十階層の階層主を倒し、ついでに回数も誤魔化すことを決意した。
# SIX PATHS 011 END




