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鉄は不条理に融ける  作者: てらてら
敗走の泥濘
9/19

第4話

静寂の中に、ただ粘りつく土を踏みしめる音が重く響いていた。

霧雨が完全に上がり、針葉樹の隙間から差し込む光の線が、濡れた地面を白く照らし出している。


しかし、歩を進めるガロアたちの足元は、依然として最悪の状況だった。

幾重にも重なった濡れた落ち葉が、大人の男の体重を支えきれずに沈み込み、歩くたびにべっとりとした不快な重みとなって脚の筋力を奪っていく。


部隊の進軍速度は、ガロアの計算を大幅に下回っていた。

原因は、後方に下がる3台の即席の担架だった。


若木の枝を組み、余った麻布で括り付けただけの粗末な構造は、運ぶ者と運ばれる者の双方に、物理的な限界を強いていた。


「……待て。一度、足を止める」


ガロアは右手を挙げ、低く抑えた声で告げた。

先頭を行く彼自身も、限界に近かった。


右肩にかかる15キログラムの鉄製鎖帷子が、歩く振動のたびに皮膚を削り、昨夜の火傷を負った左手は、きつく縛った布の上からでも激しい脈動を伴って痛んでいた。


だが、彼以上に限界を迎えていたのは、担架を担ぐ兵士たちだった。

2人がかりで大人の男1人を持ち上げ、足元の滑る斜面を歩き続けるという作業は、人間の肉体から驚くべき速度で水分と体力を削り取っていく。


兵士たちの息は完全に上がり、衣服からは湯気のような汗が立ち上っていた。

ガロアは列の後方へと歩き、3番目の担架の横に膝をついた。


そこに横たわっているのは、彼の片腕として数々の戦場を潜り抜けてきた副官、ルカだった。

ルカの容態は、夜明け前よりも確実に悪化していた。


ガロアが火で灼いた刃を使い、融着した鉄ごと肉を削ぎ落とした左腕は、酢を浸した布できつく巻かれている。

だが、その白い布はすでに黄色い膿と黒ずんだ血液で完全に変色し、周囲には鼻を突くような、肉が腐り始めた独特の酸っぱい臭いが漂い始めていた。


「ルカ。意識はあるか」


ガロアが声をかけると、ルカの瞼が痙攣するように小さく動いた。

ゆっくりと開かれた彼の瞳は、ひどく濁っており、焦点が合っていない。


その頬は異様なほど赤く、触れるまでもなく、彼の肉体が激しい高熱に侵されているのが分かった。

人間の持つ免疫という、目に見えない不確かな力が、体内の毒を打ち破るのを祈るしかなかった。


「たい……ちょう……」


ルカのひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。


「すま、ない……。俺が、足を、引っ張って……」


「喋るな。息が乱れれば、それだけ体力が失われる」


ガロアは冷淡に遮ったが、その目はルカの全身を冷徹に観察していた。

呼吸数は通常の2倍近く早い。浅く、苦しげな呼吸。


担架の木枠を握るルカの右手は、小刻みに震え続けている。

この熱量と体力の消耗度合いから逆算すれば、彼が自力で意識を保っていられる時間は、持ってあと数時間だった。


まともに動ける兵が15名しかいない中で、3名の負傷者を運ぶために6名が拘束されている。

その結果、現在の進軍速度は時速1キロメートル以下にまで落ち込んでいた。


それはすなわち、ゼノア帝国の本隊が森の周囲に展開する前に、この結界を抜け出すという「生存の計算」が成り立たなくなることを意味していた。


「隊長、少しよろしいでしょうか」


担架を担いでいた最古参の兵士の1人が、ガロアを少し離れた大木の影へと促した。

その兵士の目には、明らかな困惑と、あるいは冷酷な軍人としての諦念が浮かんでいた。


「ルカ副官の熱は、もう下がりません。傷口の臭いを見れば分かります。あれは、手遅れの時の臭いだ。……このまま奴を連れて行けば、俺たち全員が追いつかれます」


兵士の言葉は、正論だった。

ガロアがいつも兵たちに叩き込んできた、「算術による生存」の考え方そのものだった。


「ルカだけじゃない。あとの2人の負傷者も同じだ。彼らを運ぶために、動ける兵が割かれすぎている。残りの者も、荷物と負傷者の重みで足が死にかけている。……隊長、あなたの計算なら、もう答えは出ているはずだ」


兵士はそれ以上言わなかったが、その手は腰の剣の柄に置かれていた。

戦場で動けなくなった重傷者を処理し、部隊の機動力を確保する。


それはアウストラ王国軍の長い歴史の中で、敗走時に何度も繰り返されてきた、非情だが正しい手続きだった。

ガロアは沈黙した。


彼の脳内にある天秤が、激しく揺れ動いていた。

片方の皿には、ルカという優秀な人間の命、あるいはこれまでの戦友としての情。


もう片方の皿には、生き残った兵士たちの命、そして国境の砦まで情報を持ち帰るという絶対的な任務。

数字の上では、前者を切り捨てるのが唯一の「正解」だった。


1人を救うために多くの人間を危険に晒すなど、ガロアの最も嫌う「不条理な計算」そのものだからだ。

ガロアはゆっくりとルカの担架へと戻り、再びその前に立った。


ルカは、濁った目を限界まで見開き、ガロアを見つめていた。

彼は、先ほど古参の兵がガロアと何を話していたのかを、完全に理解していた。


長年、ガロアの副官を務めてきた男だ。ガロアがどのような基準で物事を判断し、どのような時に兵を切り捨ててきたか、誰よりも知っている。


「隊長……」


ルカは、木の枝を噛み締めすぎて血の滲んだ歯を剥き出しにしながら、微かに笑った。


「置いて、いってくれ。あなたの、計算を……俺のせいで、狂わせないで、ほしい」


ルカの手が、震えながら自らの腰へと伸びた。

そこには、王国軍の支給品である、重さ1.2キログラムの鋼鉄製の短剣が収まっている。


敵に捕まり、魔法の実験台にされるくらいなら、この確実な物理の刃で己の喉を掻き切る。それが、彼の最後の意思だった。


周囲の兵士たちが、静かに目を背けた。

森の中に、風が針葉樹の葉を揺らす、ざわざわという冷たい音だけが響く。


ガロアは一歩踏み出し、ルカの手から強引に短剣を奪い取った。


「勝手に計算を終わらせるな、ルカ」


ガロアの声は、氷のように冷たかった。


「俺の算術は、お前ごときが口を挟めるほど安っぽくはない」


ガロアは奪い取った短剣を自らの腰に差し込むと、周囲の兵士たちに向かって、鋭く向き直った。


「全員、よく聞け。ルカも含め、負傷者は一人も置いていかない。担架はそのまま運ぶ」


兵士たちの間に、動揺が広がった。

先ほどガロアに直訴した古参の兵が、信じられないというように一歩前へ出る。


「隊長! それはあなたの計算に反する! 全滅を避けるために無駄を削ぎ落とすのが、あなたのルールだったはずだ!」


「そうだ。そのルールは今も変わっていない」


ガロアは古参の兵の胸当てを、骨が鳴るほどの強さで指差した。


「お前たちの計算は浅い。ただの足し算と引き算だ。人間の肉体を、ただの鎧の重さと肉の塊としてしか数えていない。……ルカをここで殺せば、確かに俺たちの移動速度は時速3キロメートルまで戻るだろう。だが、その代償として、お前たちの戦意という数値がどれだけ激減するかを計算していない」


ガロアは周囲の兵士たちの顔を、一人一人見据えた。


「俺たちは今、これまでの世界の常識が通用しない、不条理な化け物と戦っている。誰もが、明日は我が身だと思っているはずだ。その状況で、長年命を懸けて戦ってきた副官を、足手まといだからという理由で切り捨ててみろ。お前たちは次に自分が怪我を負った時、確実に絶望し、生きるのを諦める。戦意の崩壊した部隊の生存率は、どれだけ足が速かろうがゼロだ」


ガロアの言葉には、叩き上げの指揮官としての、圧倒的な経験則が詰まっていた。

戦争は数字だが、その数字を動かすのは、感情を持った生身の人間だ。


冷酷なだけの計算は、時に人間の心を折り、結果として生存率を低下させる。

ルカを生かすことは、一見すると無駄なコストに見えるが、部隊の繋がりの強度を維持するためには、絶対に不可欠な投資なのだ。


「それに」


ガロアは、足元の湿った土の塊を強く踏みつけた。


「さっきから見ているが、この森の傾斜は間もなく終わりを迎える。あと500メートルも進めば、地面の水分は引き、硬い岩盤の地帯に出るはずだ。そうなれば、足元が滑ることもなくなり、担架の移動速度は倍になる。……俺の頭の中の天秤は、まだ全員で生還するという答えを指している」


ガロアの力強い宣言に、兵士たちの目に宿っていた暗い影が、一瞬で吹き飛んだ。

切り捨てられるかもしれないという恐怖が消え、彼らは「全員で生き残る」という一つの目的に向かって、再び強固に結びついたのだ。


「担架を交代しろ。動ける者が交代で担げ。遅れた分は、夜間の行軍で取り戻す。……行くぞ」


ガロアは再び先頭に立ち、濡れた大地を一歩ずつ踏みしめて歩き始めた。

彼の左手の火傷は相変わらず激しく痛んでいたが、その歩みに一切の迷いはなかった。


ルカは、奪われた自らの短剣の鞘を見つめながら、声を殺して涙を流していた。

その涙は、高熱のせいで、彼の頬を熱く、生々しく伝い落ちていった。

部隊は再び動き出した。


その進軍速度は確かに遅かったが、24人の歩幅は、先ほどよりも確実に力強く、揃っていた。

不条理な世界に対して、人間の意志という計算の入らない数値が、小さな、しかし確実な抵抗を始めていた。

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