第5話
ガロアの計算通り、それから500メートルほど進んだところで、密林の相は劇的に変化した。
足首まで無様に飲み込んでいたべっとりとした腐葉土の層が急激に薄くなり、代わりに、地表にはゴツゴツとした灰色の硬い岩盤が姿を現し始めた。
地中深くへと伸びる木々の根が、まるで巨大な怪物の血管のように岩を締め上げている。
足元が水分を吸わなくなったことで、担架を運ぶ兵士たちの足取りは劇的に軽くなった。
滑る斜面に奪われていた無駄な体力の消耗が止まり、時速1キロメートル以下にまで落ち込んでいた部隊の進軍速度は、一気に時速3キロメートル近くまで跳ね上がった。
「見えた……! 森の出口だ!」
前方を偵察していた兵士が、弾んだ声を上げて戻ってきた。
その言葉に、疲れ果てていた二十四人の瞳が一斉に前方を向く。
鬱蒼と生い茂る針葉樹の包囲網が、その先で急激に途切れ、視界の奥に広大な空間が広がっているのが分かった。
あの忌まわしい平原から逃げ込み、漆黒の闇と不気味な火球の恐怖に脅かされ続けた「黒鉄の森」の終点。
この先をさらに15キロメートルほど進めば、王国の最前線である国境の砦へとたどり着ける。
誰もが、生き延びたという強烈な実感を抱き、乾いた唇から安堵の息を漏らした。
だが、ガロアだけは、剣の柄を握る右手の力を一切緩めていなかった。
頭上を見上げれば、天蓋の隙間から覗く空の境界が、不自然なほど歪んで陽炎のように揺らめいている。
雨は完全に上がっている。それなのに、森の出口から吹き込んでくる風は、冷たいどころか、肌をじりじりと炙るような、異様な乾燥を孕んだ熱気を帯びていた。
あの、すべてをドロドロに融かし尽くした戦場の記憶が、ガロアの脳裏に最悪の数値を弾き出させる。
「全員、止まれ。……そこに、何かがいる」
ガロアの低く、鋭い警告が響くのと同時だった。
森の出口を飾る、樹齢百年を優に超えるであろう二本の大樹。
その中央の空間が、突如として真紅の輝きによって埋め尽くされた。
松明の光ではない。昨夜の雑兵が放った、あの小さく頼りない火球の集まりでもない。
それは、まるで巨大な鉄の溶鉱炉の蓋を、無理やりこじ開けたかのような、圧倒的な光量だった。
強烈な熱線が直撃し、森の出口付近に生い茂っていた瑞々しいシダの葉が、瞬時に水分を失って茶色く縮み、火がつく間もなく一瞬で真っ黒な炭へと姿を変えた。
光の中心から、ゆっくりと、一人の影が歩み出てきた。
小柄な体躯。身を守るための強固な鎧も、武骨な鉄の剣も、何一つ持っていない。
ただ、夜風に揺れる薄い夜着のような衣服を纏い、退屈そうに首を傾げている。
その瞳は、人間のそれとは明らかに異なり、まるで液体状に融けた金滓のように、どろりとした黄金色に発光していた。
少年エリアス。
アウストラ王国軍の誇る三個大隊を、その一撃で灰に変えた、この世の理不尽の化け物だった。
「見つけた。……まだ、こんなにたくさん生きてたんだね」
エリアスは、まるで迷子になった羊の群れでも見つけたかのように、無邪気で、だからこそ底の知れない声を響かせた。
その瞬間、ガロアの背後にいた兵士たちの息が、完全に止まった。
恐怖という感情が、彼らの肉体の運動機能を完全に麻痺させていた。
昨夜の戦闘で「魔法使いもただの人間だ」という自信を植え付けたはずの兵士たちが、目の前の少年の圧倒的な質量を前にして、再びただの「屠殺を待つ家畜」へと引き戻されていく。
エリアスの周囲の空気が、彼の放つ熱量によって100度、200度と跳ね上がっていくのが、離れた距離からでも肌の痛みで理解できた。
「隊長……、だめだ……。奴だけは、人間の手で殺せる相手じゃない……!」
古参の兵の1人が、ガロアの背後でがたがたと膝を震わせ、地面に崩れ落ちた。
昨夜のように、1秒の隙を突いて巨岩を落とすような小細工が通用する相手ではないことは、その場にいる全員が本能で察していた。
少年が指先を小さく一振りするだけで、この場にいる二十四人の肉体は、鉄の防具ごと一瞬で沸騰し、消滅する。
エリアスが、ゆっくりと右手を前方へと突き出した。
その白く細い指先の前に、直径2メートルを超える、完璧な球体の「真紅の太陽」が出現する。
周囲の針葉樹の幹が、その熱に耐えかねて、次々と激しい音を立てて発火し始めた。
(計算しろ。死ぬまでに残された時間は、何秒だ)
ガロアは自らの脳を、狂気的なまでの速度で回転させた。
左手の火傷の激痛すら、思考の燃料に変えていく。
少年と自分たちの距離は、正確に45メートル。
人間の足で突撃すれば、どれだけ早くても4秒はかかる。だが、エリアスがその指先を突き出すのにかかる時間は、1秒にも満たない。
正面からの戦闘による生存率は、小数点以下。完全にゼロだ。
しかし、ガロアの目は、エリアスそのものではなく、その「頭上」を正確に計測していた。
ここまでの雨の総量。この岩盤地帯の傾斜。そして、彼らが罠を作るために切り倒した木々の残骸。
すべての要素が、ガロアの頭の中で一本の「線」として結ばれていく。
「ルカの担架を担げッ!! 全員、森の斜面へ飛び込め!!」
ガロアの怒号が、エリアスの放つ不気味な熱気を引き裂いた。
「な……」
兵士たちが惑うよりも早く、ガロアは近くにいた担架の片方を自らひったくり、ルカの身体ごと、岩盤の横にある深い泥の斜面へと文字通り転がり込んだ。
指揮官のその常軌を逸した行動に、生き残った兵士たちも本能的に従った。
残りの担架を抱え、全員が森の出口とは全く違う方向――岩盤の脇にある、まだ大量の水分を含んだ泥の斜面へと身を投げ出した。
次の瞬間、エリアスの指先から、真紅の太陽が解き放たれた。
音が消えた。
爆発の衝撃波ではない。あまりの超高温が、周囲の大気と水分を一瞬で爆ぜさせ、すべての音をかき消したのだ。
ガロアたちが先ほどまで立っていた灰色の岩盤は、少年の魔法が通り過ぎただけで、ドロドロとした赤いマグマのような液体へと変貌し、周囲の大木は根元から消滅して灰の煙へと変わった。
斜面に伏せていたガロアの背中を、凄まじい熱波が襲う。鉄の鎖帷子がまたたく間に熱を帯び、背中の皮膚がじりじりと焼ける激痛が走った。
だが、ガロアは泥の中に顔を埋めながら、不敵に笑っていた。
「……計算通りだ、化け物」
エリアスが放った、あまりにも圧倒的な熱量。
それは、ガロアたちが立っていた岩盤を融かしただけでは終わらなかった。
その熱は、岩盤を締め上げていた周囲の巨大な木々の根を、一瞬で焼き尽くしたのだ。
さらに、昨日から降り続いていた大量の雨水が、岩盤の下の土壌を極限まで緩め、飽和状態にさせていた。
根という「固定器具」を失い、さらに下層の土が大量の水でドロドロの液体と化していた斜面。
そこに、エリアスの魔法による強烈な熱の衝撃が加わった。
物理の法則が、その牙を剥く。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りのような重低音が、密林の奥底から響き渡った。
エリアスの足元にあった灰色の岩盤、そしてその上部に堆積していた何十トンもの土砂と、焼き切れた巨木の残骸が、重力に従って一気に崩落を始めたのだ。
大自然のインフラが崩壊したことによる、圧倒的な「土砂崩れ」だった。
「え……?」
エリアスの黄金の瞳に、初めて小さな動揺が走った。
いかに鉄を融かす絶対的な火力を誇ろうとも、上空の斜面から一斉に崩れ落ちてくる、何トンという土砂と巨木の「質量の暴力」を、一瞬で消し去ることはできない。
エリアスは慌てて頭上に向かって両手を突き出し、炎の壁を作ろうとした。
しかし、降り注ぐ土砂の量は、個人の生み出す魔法の範囲を遥かに凌駕していた。
ドガァァァンッ!!
激しい土煙と、木々がへし折れる絶望的な破壊音と共に、エリアスの小さな肉体は、大量の泥と巨木の残骸の中に、完全に飲み込まれていった。
彼が張ろうとした魔法の光は、何トンもの土砂の重みに押しつぶされ、一瞬で暗闇の底へと窒息するように消えた。
「今だ! 走れッ!!」
土砂が斜面を埋め尽くしていく中、ガロアは泥まみれになりながら立ち上がった。
背中の火傷と左手の痛みに顔を歪めながらも、ルカの担架を再び担ぎ上げる。
兵士たちも、泥の中から這い出し、必死の形相でガロアの後に続いた。
エリアスが死んだわけではないことは、ガロアも分かっていた。
あの化け物なら、どれだけ土砂に埋もれようとも、いずれその熱で泥を焼き固め、再び地上へと這い出てくるだろう。
だが、あの膨大な質量の下から抜け出すには、どれだけ効率よく魔法を使ったとしても、最低でも数十分の「時間」がかかるはずだ。
戦争における最大の資源は、時間だ。
ガロアは、エリアスの圧倒的な火力に対して、森の地形と重力という物理の計算を用いて、その貴重な時間を完全に奪い取ることに成功したのだ。
土砂崩れの現場を迂回し、二十四人の部隊は、ついに「黒鉄の森」の境界線を越えた。
目の前には、遮るもののない広大な荒野が広がっている。
その遥か先、地平線の向こうに、アウストラ王国の象徴である、黒い鉄で造られた国境砦のシルエットが、夕暮れの光の中に小さく、しかし確かに見え始めていた。
「生き……延びた……」
誰かが、涙を流しながら呟いた。
エリアスという理不尽な神の前に立たされながらも、彼らは一人も欠けることなく、人間の足でその結界を破ったのだ。
ガロアは、泥と血で汚れた自らの鋼鉄の剣を引き抜き、国境砦の方向へと掲げた。
その刃は、エリアスの熱波によって僅かに歪み、黒く煤けていたが、それでも折れることなく、冷たい物理の硬度を保ち続けていた。
「砦へ向かう。……俺たちの算術は、まだ終わっていない」
人間が血を流せば死ぬように、魔法使いも泥に埋もれれば足止めを食う。
世界の根本的なルールは、まだ何も変わっていない。
不条理な世界への、鉄と人間の復讐の火は、この荒野の先で、さらに激しく燃え上がろうとしていた。




