第1話
黒鉄の森を抜けてから、正確に15キロメートル。
遮るもののない、乾燥した灰色の荒野の果てに、その巨大な質量がそびえ立っていた。
アウストラ王国国境線、第六鉄塞。
高さ12メートル、厚さ4メートルに及ぶ強固な城壁は、単に土や石を積んだだけのものではない。王国の誇る職人たちが何世代にもわたり、近隣の鉱山から掘り出した鉄鉱石を精錬し、何万枚もの分厚い硬鉄の板として表面を隙間なく覆いつくした、文字通りの「鉄の牙城」であった。
物理の法則が支配するこの世界において、これだけの質量と硬度を持つ金属の壁を突破できる兵器は存在しない。
3トンの破城槌を何十回叩きつけようとも、表面の鉄板に僅かな凹みを刻むことすら不可能なのだ。
だが、かつてはアウストラ王国の絶対的な安心感の象徴であったその黒い城壁が、今のガロアの目には、いつ融け落ちるとも知れない不確かな氷の塊のように危うく映っていた。
「百人隊長ガロア、ただいま帰還した。……生き残りは、私を含めて24名だ」
砦の重厚な鉄門を潜り抜けた瞬間、ガロアは出迎えた衛兵たちに、感情の削ぎ落とされた低い声で告げた。
砦の内部は、異様な活気と、それ以上に深い混沌に包まれていた。
平原での大敗の報はすでに届いているらしく、前線から命からがら逃げ延びてきた傷病兵や、車輪の壊れた輜重車の残骸が、数少ない物資を求めて狭い広場に溢れかえっている。
ガロアは兵たちに、高熱にうなされるルカたちの担架を至急救護所へと運ぶよう命じると、自らは一刻の猶予もない足取りで、砦の最高指揮官が待つ中央管制塔へと向かった。
「よく生きて戻ったな、ガロア。だが、三個大隊が完全に壊滅したというのは本当か。……敵の『新兵器』によって」
管制塔の最上階。4メートル四方の大きな戦術地図の前に立っていたのは、第六鉄塞の守備隊長である老将、バザン将軍であった。
彼の周囲には、事態の深刻さに顔を青ざめさせた十数人の幕僚たちが、重苦しい沈滅を保ったまま控えている。
「兵器、という言葉では生ぬるいです、将軍」
ガロアは、きつく巻き直したばかりの左手の布をじっと見つめながら、声を一段と冷たくした。
「それは『魔法』と呼ばれていました。ゼノア帝国の前衛にいた一人の少年が、指先から数千度の熱線を放ち、我々の鉄の盾、衣服、そして肉体を一瞬でドロドロの液体に変えたのです。物理的な質量による突撃も、陣形による防御も、あの不条理の前には何一つの意味も成しませんでした」
「馬鹿な! 鉄が融けるだと!? 職人が1200度の炉で半日かけてようやく融かす硬鉄を、一瞬でだと!? そんなものが人間に扱えるはずがない!」
幕僚の1人が、頑丈な樫の木の机を激しく叩きながら、怒鳴り声を上げた。
彼らの常識において、火力とは炭の量とふいごによる風の計算によってのみ制御されるものであり、何もない空間から発生するなど、天変地異でも起きない限り有り得ないことだったからだ。
「有り得ないことが、あの平原では現実に起きたのです」
ガロアは怯むことなく、その幕僚の目を冷徹に見据え返した。
「私はこの目で、我が百人隊の鉄盾が一瞬で沸騰し、金滓となって地面に滴り落ちるのを見ました。さらに、黒鉄の森では別の魔導師の夜襲を受けました。彼らの放つ真紅の火球は、燃料もないのに空中を滑るように飛行し、大粒の雨に打たれながらも、その丸い形を維持し続けていた。……これは、我々が知る物理のルールを根本から破壊する異物です」
「狂言だ! 敗戦の言い訳に、ありもしない怪力乱神を持ち出すとは、百人隊長ともあろう者が無様極まる!」
別の若い幕僚がガロアを指差して罵ったが、中央に座るバザン将軍だけは、深く刻まれた眉間の皺をさらに深くし、黙ってガロアの言葉を待っていた。
将軍は、ガロアという男が、決して無意味な嘘や感情論で戦況を汚す人間ではないことを知っていたからだ。
「ガロア、お前のことだ。ただ怯えて帰ってきたわけではあるまい。その『魔法』とやらに、何か法則性は見出せなかったのか」
バザン将軍の低い問いかけに、ガロアは待っていましたとばかりに一歩前へ出た。
「あります。いかに超常の力であろうとも、それを操るのが人間である以上、そこには必ず物理的な制約と『隙』が存在します。私が戦場で計測した数値は、以下の通りです」
ガロアは戦術地図の上に、自身の煤けた短剣を突き立てた。
「第一に、魔法の発動には必ず『時間』がかかります。昨夜交戦した魔導師の行動を逆算するに、彼らが指先に光を灯し、火球を放つまでには、正確に『1秒』の詠唱、あるいは精神の集中が必要となります。つまり、その1秒の隙を突いて矢を放つか、あるいは間合いを詰めれば、ただの生身の人間として殺すことが可能です。現に、私は森の中で敵の魔導師2人の首を、鉄の刃で刎ねて仕留めました」
ガロアの具体的な数字を交えた報告に、先ほどまで騒いでいた幕僚たちが、一瞬だけ言葉を失った。
「第二に、彼らは一様に『防御が極めてお粗末』です。魔法の威力に溺れているせいか、あるいは重い金属が魔法の伝達を阻害するのかは不明ですが、奴らは一切の鎧を着けず、盾も持っていません。ただの布切れを纏っているだけです。これはつまり、射程40メートル以上の長弓による一斉射撃を行えば、確実に致命傷を与えられるという数値的証明になります」
「……なるほど。一秒の隙、そして無防備な肉体か。それならば、我が砦の五百人の弓兵による時間差の連続射撃で、接近される前に制圧できるな」
バザン将軍が顎をさすりながら、小さく頷いた。
しかし、ガロアの表情は、少しも明るくはならなかった。むしろ、その瞳の奥には、さらに深い底なしの懸念が宿っていた。
「問題は、その先です、将軍。もし、敵の本隊とともに、あの三個大隊を消滅させた『エリアス』という少年が現れた場合……この第六鉄塞の防御計算は、完全に破綻します」
ガロアは管制塔の窓の向こう、夕闇に染まりつつある巨大な城壁を指差した。
「この砦の最大の強みは、厚さ4メートルの硬鉄の壁による、絶対的な物理的遮断です。しかし、あの少年の放つ熱量が、もし鉄の融点である1200度を遥かに超え、数千度に達しているとすればどうなりますか? 奴が正面門の前に立ち、僅か5秒間、その熱線を放射し続けただけで、この頑強な鉄塞はドロドロの液体となって自重で崩壊します。我々が信じてきた、壁に籠って敵を射下ろすという『籠城の算術』そのものが、敵の火力によって無効化されるのです」
管制塔の中に、今度こそ、氷を突きつけられたような凄惨な静寂が広がった。
厚さ4メートルの鉄が、融けて崩れる。
それは、この砦にいるすべての軍人にとって、自らの足元の地面が突然消滅すると言われるに等しい、恐るべき宣告だった。
「では、どうしろと言うのだ、ガロア。世界最強の鉄塞が役に立たないというなら、俺たちはこのままゼノアの化け物に、ただ焼き殺されるのを待てと言うのか!」
幕僚の1人が、震える声を絞り出した。
ガロアはゆっくりと首を横に振り、その黄金色に燃える戦術地図を、冷徹な目で見つめた。
「いいえ。敵が物理のルールを歪めて鉄を融かすというのなら、我々はそれをさらに上回る『人間のインフラ』で、その熱量を迎え撃つまでです」
ガロアの言葉には、狂気と、それを支える圧倒的な理性が同居していた。
「将軍、この砦の最下層には、武具を補修するための、王国最大級の溶鉱炉と、300人を超える鍛冶職人たちが眠っていますね。……彼らの火を、今すぐ最大出力で熾してください。敵に融かされる前に、こちらが鉄を融かすのです」
バザン将軍は、ガロアのそのあまりにも奇想天外な、しかし恐ろしく筋の通った眼光をじっと見つめ返し、やがて、深く、重い覚悟を込めて微笑んだ。
「面白い。百人隊長ガロア、これよりこの第六鉄塞のすべての防衛指揮権を、お前に委任する。……鉄の時代の意地を、その算術で見せてみろ」
「御意」
ガロアは深く一礼し、管制塔を後にした。
足元から伝わってくる砦の冷たい鉄の感触を確かめながら、百人隊長は、次なる戦いの計算を始めるために、暗い階段を駆け下りていった。




