第3話
真紅の光が消え去った密林に、ようやく白んだ光が差し込んできた。
夜通し降り続いていた激しい雨は、夜明けと共に細かい霧雨へと変わり、今ではすっかり止んでいる。しかし、天蓋を埋め尽くす分厚い雲のせいで、朝というにはあまりにも薄暗く、空気は肌を刺すように冷え切っていた。
ガロアは、太い幹の根元に腰掛け、自らの左手を見つめていた。
手のひらから手首にかけて、昨夜の熱線による火傷の大きな水ぶくれが、いくつも赤黒く腫れ上がっている。感覚は酷く鈍く、少し指を動かすだけで、皮膚が内側から突っ張るような鋭い痛みが走った。
彼は顔色一つ変えず、側に転がっていた乾いた布を口で咥えて引っ張り、負傷した左手にきつく巻き付けた。痛みを麻痺させるように、感覚がなくなるまで強く、強く締め上げる。
「隊長……。夜間の襲撃による損害の集計が出ました」
ぬかるんだ泥を踏みしめて、一人の兵士が近づいてきた。その顔は煤と泥で汚れ、目は寝不足と恐怖で血走っている。
「……言え」
「死者、四名。いずれも昨夜の火球をまともに浴びた者たちです。死体は……火が肉の奥まで達しており、鎧を外すこともできませんでした。それから、ルカ副官を含めて、動けないほどの重傷者が三名。軽傷は全員です。それと、防具ですが……まともに使える鉄の盾は、もう隊全体で五枚も残っていません。多くが昨夜の熱で歪むか、中の木が炭になって割れました」
報告を聞きながら、ガロアは頭の中で冷徹に数字を弾き出す。
生き残ったのは、自分を含めて二十名。そのうち戦力として数えられるのは、怪我の軽い十五名といったところか。
アウストラ王国軍の誇る百人隊が、今やたったの一握りの雑兵と同等の規模まで縮小してしまった。
「死者はその場に埋めろ。鎧や武器を剥ぎ取る時間はない。それから、ルカたちの担架を作れ。細い若木を切り、余った布で縛り付けるんだ。一刻も早くここを動くぞ」
「しかし隊長、兵たちの疲労は限界です。少しでも眠らせなければ、歩くことすら……」
「ここで足を止めれば、全員が等しく死体になる。それだけの違いだ」
ガロアは立ち上がり、血の気の引いた兵士の肩を強く叩いた。
「昨夜、俺たちは敵の魔法使いを一人殺した。それはつまり、敵の偵察部隊が『アウストラ兵の生き残りがこの森にいる』という事実を、本陣に持ち帰れなくなったということだ。だが、定時になっても戻らない部隊があれば、敵の指揮官は必ず異変に気づく。正午を過ぎる頃には、この森に本格的な掃討部隊が送り込まれると見ていい」
ガロアの目は、少しも諦めてはいなかった。むしろ、敵の行動を予測する算術の歯車が、激しく回転している。
「敵の掃討部隊の編成はどうなると思う?」
「それは……やはり、あの魔法を使う兵たちでしょうか」
兵士が怯えたように身を震わせる。ガロアは首を横に振った。
「いや、違う。魔法使いというのは、昨夜の男を見ても分かる通り、信じられないほど打たれ弱い。鎧も着けず、盾も持たない。そんな貴重で壊れやすい兵種を、視界の悪い密林の捜索に大量に投入するほど、ゼノアの指揮官は愚かではないはずだ。おそらく、前に出すのは足の速い『軽装の歩兵』。そして、その後ろから、護衛を連れた魔法使いが数人、ついてくる形になる」
ガロアは腰の剣を引き抜き、足元の泥に、即席の地図を描き始めた。
「軽装兵の強みは速度だ。だが、裏を返せば、奴らも重い鎧を着ていない。ならば、この森の地形そのものを『武器』にすれば、数と力の差はひっくり返せる」
ガロアの言葉に、周囲の兵士たちが静かに集まってきた。彼らの瞳に、ただ怯えるだけではない、軍人としての理性が僅かに戻り始める。
「これより、この森の各所に罠を仕掛ける。かつて、俺たちが平原で敵をハメ殺すために使った、泥臭い戦術をそのまま使うぞ」
ガロアが命じたのは、鉄の武器に頼らない、極めて原始的で、だからこそ確実な足止めの罠だった。
まず、底が深い沼地の周辺。一見するとただの落ち葉の絨毯に見えるが、一歩踏み込めば底なしの泥に足を取られる底なし沼。その周囲に、あえて不自然な「踏み跡」を作り、敵の軽装兵をそこへ誘導する動線を作った。
さらに、木々の隙間の狭い通路。
兵士たちは剣を使い、若木の枝を力任せにしならせて、太い蔓で固定した。その先端には、削って尖らせた硬い木の杭を何本も括り付ける。足元の細い蔓に引っかかれば、しなった木が一気に弾け、大人の胸の高さを鋭い木杭が薙ぎ払う「跳ね木罠」だ。
「鉄がないなら、木を使え。職人がいなくても、この森の重力と張力が俺たちの味方だ」
ガロア自身も、火傷の痛む左手をかばいながら、泥にまみれて杭を地面に打ち込んでいった。
敵の進軍速度、森の密度、そして人間が罠にかかって混乱する時間。すべての要素を秒単位で計算し、罠の配置を決めていく。
作業が始まってから数時間後。森の奥から、鳥が一斉に飛び立つ羽音が響いた。
「来たぞ」
ガロアは素早く剣を収め、身を潜めるよう手信号を送った。
兵士たちは息を殺し、生い茂るシダの葉の影や、苔むした大木の裏へと完全に気配を消した。
しばらくすると、ガロアの予想通り、ゼノア帝国の軽装兵たちが姿を現した。
革の胸当てに、短い片手剣を持った身軽な兵たちだ。彼らはアウストラ兵の足跡を追い、一列になって警戒しながら森を進んでくる。その遥か後方に、二人の男――長い外套を羽織った、例の魔導師が護衛の兵に守られながら歩いているのが見えた。
敵の先頭の兵が、ガロアたちの仕掛けた「狭い通路」へと足を踏み入れる。
その男の足首が、地面に張られた細い蔓に触れた。
ビシィッ!!
乾いた破裂音と共に、固定を解かれた若木が猛烈な勢いでしなった。先端に括り付けられた太い木杭が、横一線に敵の先頭集団を襲う。
「ぎゃあッ!?」
まともに胸を貫かれた兵士が、血を吐きながら吹き飛んだ。隣にいた兵も、顔面を木の枝で強打され、鼻の骨を砕かれて泥の上に転がる。
不意の急襲に、ゼノアの軽装兵たちの隊列が一瞬でパニックに陥った。
「敵襲だ! どこからだ!?」
「罠だ! 周囲を警戒しろ!」
混乱した彼らは、足元への注意を完全に失った。慌てて進路を変えようと、横の斜面へと足を踏み出す。そこは、ガロアがあらかじめ誘導するように仕向けた、底なしの沼地だった。
「うわっ!? しまっ――」
ズブズブと、泥が敵の足を膝まで飲み込んでいく。もがけばもがくほど、泥は底へ底へと肉体を引っ張り込んでいく。軽装とはいえ、武器や革鎧の重みがある。一度ハマれば、自力で抜け出すことは不可能だった。
「今だ! かかれ!!」
大木の影から、ガロアが弾かれたように飛び出した。
その背後から、息を潜めていたアウストラ兵たちが、獣のような咆哮を上げて突撃する。
彼らの狙いは、混乱する前衛の軽装兵ではない。その後ろで、何が起きたか分からずに立ち往生している、二人の魔法使いだった。
「な、なんだ!? 防戦を――」
魔法使いの一人が慌てて両手を突き出し、その指先に小さな真紅の光を灯そうとする。
だが、ガロアの計算は、その光が形を成すよりも遥かに早かった。
「落とせッ!!」
ガロアの合図と共に、二人のアウストラ兵が、頭上の太い枝に向かって剣を振り下ろした。そこには、あらかじめ蔓で吊るされていた、大人三人分ほどもある巨大な岩が仕掛けられていたのだ。
ヒュン、という短い風切り音の直後。
グシャリ。
嫌な破壊音が、森の空気に冷たく響いた。
落とされた巨岩は、魔法の光を作りかけていた男の頭上へと、文字通り「物理的な質量」の暴力となって降り注いだ。
男は魔法の盾を張る暇さえ与えられず、一瞬で岩の下敷きとなり、その肉体は泥水とともに押しつぶされた。指先に灯りかけていた小さな赤い光が、プツンと、煙のように消え去る。
「ひ、ひぃっ……!」
残されたもう一人の魔法使いが、腰を抜かして地面にへたり込んだ。自慢の超常の力も、発動する時間がなければ、ただの無力な人間の肉体に過ぎない。
ガロアは一歩一歩、泥を踏みしめながら、怯える男へと近づいていった。その手にある鋼鉄の剣の切っ先から、昨夜の敵の血が、雨の名残の雫とともに静かに滴り落ちている。
「お前たちの『魔法』には、詠唱と、光が形を成すまでの時間が必要だ」
ガロアは低く、冷徹な声で告げた。怯える男の目を見据えながら、剣をゆっくりと上段に構える。
「一秒だ。お前たちが奇跡を起こすには、あまりにも長すぎる隙だ。それだけあれば、鉄は人間の命を十分に刈り取れる」
「待て、頼む、助け――」
閃光。
ガロアが容赦なく振り下ろした鉄の刃が、二秒目の猶予を与えることなく、男の首を深く切り裂いた。
残されたゼノアの軽装兵たちは、後ろに控えていた魔法使いが二人とも一瞬で惨殺されたのを見て、完全に戦意を喪失した。泥まみれのまま、武器を投げ捨てて、来た道を一目散に逃げ出していく。
「追うな! 深追いはするな!」
ガロアは逃げる敵の背中を見送りながら、激しい呼吸を整えた。
返り血で汚れた顔を拭い、自らの左手の痛みを、もう一度きつく縛ることで押さえつける。
勝った。罠の計算通り、一人の犠牲も出すことなく、敵の掃討部隊を完全に撃退したのだ。
周囲の兵士たちが、信じられないものを見る目でガロアを見つめ、それから、泥にまみれた自らの手を握りしめた。
魔法は恐ろしい。だが、決して無敵ではない。
時間を奪い、物理のルールに従わせれば、自分たちの持っている鉄と、これまで培ってきた戦術で、十分に殺せる。その確信が、彼らの胸に強固な「芯」として宿り始めていた。
「ルカたちの担架を運べ。敵の敗残兵が戻れば、次は軍隊が押し寄せてくる。それまでに、この森の出口へ向かうぞ」
ガロアは先頭に立ち、再び歩き出した。
鬱蒼とした黒鉄の森の向こうに、微かではあるが、外の世界の光が見え始めていた。




