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鉄は不条理に融ける  作者: てらてら
敗走の泥濘
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第2話

「総員、武器を構えろ……! 敵だ!」


ガロアの低い怒号が、冷たい暗闇を鋭く切り裂いた。

その声は、疲れ果てて地面にへたり込んでいた兵士たちの鼓膜を強烈に叩いた。凍え、震えていた彼らの身体が、反射的に跳ね起きる。


長年の訓練によって骨の髄まで染み込んだ動き。しかし、その手元はひどくおぼつかない。

手探りで地面を這い、自らの鋼鉄の剣の柄を掴み取る。鞘から引き抜かれる金属の擦れ合う音が、湿った大気にじっとりと吸い込まれていった。


誰もが息を止め、切っ先を闇の向こうへと向ける。

だが、一寸先も見えない、完全な闇の世界だ。いかに強固な鉄を握っていようとも、それは己の腕を突き出した不確かな金属の棒に過ぎず、暗闇をただ頼りなく泳ぐだけだった。


不吉な音は、確実に近づいていた。


チリ、チリ……。チリチリ……。


濡れた木々が擦れ合う音ではない。何かが、ごく僅かな熱を持って爆ぜるような音。

それが今や、包囲網を縮めるようにして、あらゆる方向から響いてくる。


ガロアの背筋に、あの昼間の平原で味わった、肌を刺すような嫌な痛みが再び冷たく走った。

暗闇の向こう、鬱蒼と生い茂る木々の隙間に、人間の血のように鮮やかな光が灯った。


小さな真紅の光。それは一つではなかった。二つ、三つ、そして十。

それらは風に煽られて揺らめく松明の炎とは、明らかに性質が異なっていた。


薪が燃えるときの爆ぜる火花もなく、油が滴る煙もない。

まるで暗闇の中に浮かび上がった肉食獣の眼球のように、妖しく、一定の強さで光りながら、空中を滑るように進んでくる。


光がすぐ近くまで迫ったとき、行く手を阻むようにそびえ立つ針葉樹の不気味な幹が、ぬらぬらと赤く照らされて闇の中に浮かび上がった。


光そのものが、明確な意志を持ってこちらへと歩いてきているのだ。


ガロアの知る世界の理において、火という現象は、木や油といった「燃料」を貪り食うことで辛うじて形を保つものだ。そして、風が吹けば形を崩し、上空へとのぼる熱気と共に、いずれはすすとなって消え去る。それが当然の物理だった。


しかし、目の前を浮かんでくる焔の球体は、天蓋の葉を突き抜けて落ちてくる大粒の雨に打たれながらも、何もない空間に丸い形のまま静かに留まっている。じりじりと周囲の水分を蒸発させ、逃げ場のない熱を放ち続けていた。


「これが……あの化け物の仲間か」


若い兵士の1人が、カチカチと歯の根を鳴らしながら、押し殺した絶望を吐き出した。


鍛え上げられたアウストラ王国の兵士たちが、目に見えない巨大な恐怖に押しつぶされそうになっていた。彼らが信じてきた「重い鉄と頑丈な盾」という盾突くことのできない絶対のルールが、根底からひっくり返されようとしている。


浮かび上がる真紅の球体が、一瞬、その輝きを増した。次の瞬間、一斉にアウストラ兵たちのど真ん中を目がけて加速した。


それは弓兵が放つ鉄の矢ほどの速さではなかった。だが、重力に逆らうようにして、光が描く軌道は不自然なほど滑らかだ。木々の間を縫うようにして、死角から回り込んでくる。暗闇の中でその動きを完全に捉え、回避することは、人間の動体視力の限界を超えていた。


「散れ!!」


ガロアが声を限りに叫ぶのと同時に、数発の焔が湿った地面に突き刺さった。

平原で見舞われたような、地形そのものを消し飛ばす圧倒的な大爆発ではない。


だが、その威力は、個人の肉体を確実に破壊するには十分すぎるものだった。

地面に突き刺さった瞬間、焔はまるで生き物のように、粘り気のある油となって兵士の胸当てにまとわりついた。


そして、鉄板の隙間から覗く麻の衣服へと一瞬で燃え移ったのだ。


「熱い! 熱い、熱い! 助けてくれ、誰か!!」


激しい熱が、冷たい鎧の内側へと容赦なく侵入する。人間の皮膚と脂肪をジクジクと焼き、密林の奥底におぞましい悲鳴が木霊した。


男はたまらず地面を転げ回り、湿った冷たい落ち葉や、水分を含んだ土の塊に身体を擦りつけた。しかし、その赤黒い火は消えるどころか、むしろ酸素を吸い込むようにして、さらに肉の奥へと深く食い込んでいく。


近くにいた仲間が手を伸ばそうとしたが、そのあまりの熱量に阻まれ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

ガロアの視界にも、一発の火の球が正面から真っ直ぐに迫っていた。


避ける隙はない。身体をひねってかわそうとすれば、足元の滑りやすい腐植土に足を取られ、無様に転倒するだけだ。


ガロアは本能的に、左腕にしっかりと固定していた樫の丸盾を前方へと突き出した。

王国の職人が、乾燥させた頑丈な樫の木を組み合わせ、その表面に何枚もの鉄板を鋲で打ち付けた、信頼性の高い防具だ。


ジュウッ!!


耳を突き刺すような、激しい沸騰音が至近距離で鳴り響いた。

盾の表面を補強していた鉄板が、信じられない速さで熱を帯びていく。その熱は瞬時に裏側の木へと伝わり、掴んでいるガロアの拳の皮が焼ける、嫌な臭いが鼻を突いた。


内側の木座がまたたく間に真っ黒な炭になり、ボロボロと音を立てて崩れ落ちる。

強烈な熱線がガロアの腕そのものを焼きにかかった。皮膚が焼き切れる痛みが走ったが、彼は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、燃え盛る盾を前方へと力任せに投げ捨てた。


(物理的な質量による衝撃波はない。吹き飛ばされるような風も吹かない。だが、熱そのものが、こちらに狙いを定めて真っ直ぐに飛んでくる……!)


ガロアの脳は、この見たこともない不気味な現象に激しく揺さぶられながらも、冷徹にその『法則』を計算しようとしていた。


彼にとって、戦争とは算術だ。どれほど不可解な現象であっても、そこには必ず因果関係があり、攻略するためのルールが存在するはずだった。


(燃料がないのに燃え続け、この激しい雨でも消えない。しかし、飛んでくる速度には限界がある。現に、木や鉄の盾を盾にすれば、その軌道を逸らすことはできた。そして何より――)


ガロアは、叫び声を上げながらのたうち回る兵士たちの姿を視野の端に捉えた。パニックは瞬く間に伝染し、部隊としての統制が完全に崩壊しかけている。今、指揮官である自分が揺らげば、この24人はここで全滅する。


「恐れるな! これはただの『飛ばしてくる火』だ!」


ガロアは喉を潰さんばかりに吠え、兵士たちの恐怖を強引に押さえつけた。


「盾の残っている者は、火の球を叩き落とせ! 防げない攻撃ではない! 剣を持つ者は、光の『発生源』を探すんだ! これほど精密にこちらの位置を狙い定めているんだ、この深い闇の中で、我々の姿をハッキリと見ている人間が、近くに必ずいる!」


その確信に満ちた叫びが、暗闇の中で散り散りになりかけていた隊の戦意を、辛うじてつなぎ止めた。

衣服に火がついた仲間を、別の兵が必死に引きずって影へと退避させる。残った数人の兵が、表面の鉄を赤く染めながらも盾を構え、一歩前へと踏み出した。


ガロアは、真紅の光が放たれる向きをじっと見据えていた。

飛び交う全ての火球が描く線を、頭の中で逆算していく。それらはランダムに放たれているのではない。ある一定の範囲から、扇状に広がって飛んできている。


その線のすべてが交わる中心点。そこに、この理不尽な現象を動かしている、敵の心臓があるはずだ。


「俺に続け……!」


ガロアは自らの呼吸を殺した。大きな針葉樹の太い幹の影に身を隠し、火球の死角を突きながら、斜面を滑るようにして一気に距離を詰めていく。


足元の濡れた土が容赦なく滑るが、膝を深く曲げて重心を低く保ち、鋼鉄の剣の重みで強引にバランスを取りながら、闇の中を疾駆した。


頭上を掠めていく真紅の光が、彼の横顔を赤々と照らし出す。その熱だけで、顔の皮膚が引きつるのが分かった。だが、ガロアの視線は、一点だけを捉えて離さなかった。


立ち上る火球の淡い照り返しの中に、衣服を纏った細い人影が、木々の間に静かに佇んでいるのが見えた。

昼間の平原にいた、あの絶望的な力を振るった少年ではない。だが、明らかにその同類――ゼノア帝国の魔導師と呼ばれる男の姿だった。


男は両手を前方に突き出し、呪わしい言葉を呟きながら、指先から新たな真紅の球体を生み出すことに全神経を集中させていた。こちらの接近には、まだ気づいていない。


その防御は、あまりにもお粗末だった。

戦場に立つ者でありながら、身を守るための鉄の鎧も着けていない。こちらの突撃を阻むための強固な盾も持たず、ただの薄い布切れを身に纏っているだけだった。


鉄の重みを知らず、世界の物理的な法則を忘れ、不思議な力に溺れた、あまりにも傲慢で脆弱な肉体が、そこに晒されていた。


「死ねッ!!」


ガロアは木々の影から、地を這うような爆発的な踏み込みを見せた。男との距離は一瞬でゼロになる。

手元にある重い鋼鉄の剣を両手で握り締め、男の首筋目がけて、渾身の力で斜めに振り下ろした。


刃が薄い布を容易く裂き、柔らかな肉を断ち、強固な骨を叩き割る。

冷徹で、そしてあまりにも確かな物理的な衝撃が、柄を通じてガロアの両手へとダイレクトに伝わってきた。


男は悲鳴を上げる暇すら与えられず、首から胸元にかけてを深く切り裂かれ、前方へと倒れ込んだ。湿った土の上に、物言わぬ肉塊となって崩れ落ちていく。


男の心臓が停止した、まさにその瞬間だった。


兵士たちの周囲を浮遊し、彼らを焼き殺そうと追い詰めていた無数の真紅の光が、まるで生命線を絶たれたかのように、一瞬にしてその輝きを失った。そして、ただの黒い煤へと姿を変え、降り注ぐ雨の中に静かに消えていった。


周囲の木々を赤く染めていた光が消え、再び、圧倒的な静寂と完全な暗闇が森を支配した。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


生き残った兵士たちの、荒い呼吸の音だけが暗闇に響き渡る。

ガロアは血で濡れた剣を強く握り締めながら、激しく上下する胸を抑えた。手のひらには、先ほど盾を伝って伝わってきた熱による火傷の水ぶくれができており、ズキズキと激しく痛んだ。


勝った。いや、辛うじて生き延びたに過ぎない。

人間が一人死ねば、その術も消える。


いかに世界の常識を覆す理不尽な魔法であろうとも、それを操るのが「人間」である以上、肉体という物理的な弱点からは、決して逃れられないのだ。


首を落とされれば死に、心臓を突かれれば血を流して倒れる。その絶対的なルールは、魔法使いであっても同じだった。


ガロアは暗闇の中で、静かに、しかし確信を込めて自らの剣を見つめた。

鉄の時代は、確かに揺らいでいるかもしれない。


だが、人間が血を流し、息の根を止めれば死ぬという、この世界の根本的な法則は、まだ何一つ壊れてはいない。それがある限り、叩き上げの兵士たちにも、まだ戦う手段は残されている。


「負傷者を抱えろ……。夜が明ける前に、この場所を抜けるぞ」


ガロアは再び、濡れた大地を踏みしめた。

足元の冷たい感触が、生き残った実感を彼に与えてくれる。

不条理な世界への、鉄の復讐をその胸に誓いながら、ガロアは暗闇の先へと歩き出した。

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