第1話
平原の背後に広がる「黒鉄の森」へと逃げ込んだとき、ガロアの百人隊でまともに動ける者は、わずか24人にまで減っていた。
森の入り口は、逃げ惑う敗残兵たちが投げ捨てた武具で溢れかえっていた。
泥にまみれた鍛鉄の胸当て、へし折れたトネリコ材の長槍、表面の鉄板が剥がれかけた樫の丸盾。
つい数時間前まで、それらは兵士たちの命を守る最たる壁であり、国家の富そのものだった。
鉄鉱石を山から切り出し、炭を焼き、ふいごで何昼夜も風を送り込んで不純物を叩き出した鉄。
それが今や、ただの重苦しい足枷として、冷たい泥の中に打ち捨てられている。
「槍を捨てろ!」
ガロアは森の結界をくぐると同時に、生き残った兵たちに鋭く命じた。
「3メートルの長槍など、この密林では前を向くことすらできん。枝に引っかかれば、背後から追ってくるゼノアの軽装兵に首を差し出すようなものだ。全員、腰の鋼鉄剣か、薪割りの手斧に武器を切り替えろ」
兵士たちはこれまでの訓練を否定されるような拒絶感を覚えながらも、這うような動作で、長年己の半身であった長槍を泥に落とした。
トネリコの木が地面にぶつかる鈍い音が、森の湿った空気に吸い込まれていく。
ガロア自身の愛馬も、先ほどの爆風による動揺と泥の深さに耐えかね、森の手前で前脚の骨を折って倒れた。
自らの手で愛馬の喉元に鋼鉄剣を突き立て、苦痛を終わらせてから、その場を離脱せざるを得なかった。
最も優秀な高速移動手段を失ったことは、今後の撤退戦において決定的な痛手だった。
森の内部は、平原以上の地獄だった。
頭上を覆う巨大な針葉樹の葉が雨水を遮るかと思いきや、集まった大粒の水滴が、不定期に激しい塊となって兵士たちの頭上へと落ちてくる。
地面は数百年分の腐葉土が積もっており、雨水を吸って底なしの沼のようになっていた。
石や砂利で舗装された基礎道路など、この国境地帯の森には存在しない。
人間が歩くことで辛うじて作られた「獣道」が唯一の足場だったが、それも数百人の足で踏み荒らされ、今やただの茶色い溝と化していた。
ガロアは自らの胸当ての締め紐を少しだけ緩めた。
重さ15キログラムの鉄製鎖帷子が、濡れた麻の肌着を巻き込んで肩の肉を容赦なく削り取っている。
鎖の環の一つ一つが、歩くたびに皮膚を細かく噛み、そこから溢れた血が、雨水と混ざり合って太ももを伝い落ちていた。
だが、胸当てを完全に脱ぎ捨てる勇気は、ガロアにはなかった。
たとえあの「不条理な焔」に対して無力だとしても、背後から迫る敵の放つ、鉄の矢尻をつけた矢や、投げ槍の物理的な威力からは、この鉄だけが唯一の防御壁だからだ。
森の奥から、王国軍の物資を積んだ大型の輜重車が完全に埋まっているのが見えた。
乾燥穀物を満載した木製の荷台は重い。
その巨体を支えるのは、樫の木を削り出し、周囲に補強用の鉄の帯を赤めて焼き嵌めた強固な車輪だ。
この車輪こそが、王国の広大なインフラを支える技術の結晶だったが、底なしの泥濘の前には無力だった。
車輪は自重によって半分以上が泥に没し、どれだけ馬が鞭打たれても、空回りして泥を跳ね上げるだけだった。
「梃子を使え! 太い丸太を車軸の下に差し込め!」
輜重兵の指揮官が狂ったように叫んでいる。
長い棒を支点に噛ませれば、人間の数倍の力を生み出せるという、確固たる物理の経験則。
兵士たちが4人がかりで泥まみれの丸太を車輪の下にねじ込み、全体重をかけて押し下げた。
バキィッ、と湿った不吉な破壊音が響いた。
泥の吸着力は、人間の生み出す梃子の力を遥かに凌駕していた。
車輪ではなく、支点となった丸太の木繊維が圧力に耐えかねて真っ二つにへし折れたのだ。
同時に、過度な負荷がかかった馬の腱が断裂し、哀れな荷馬が泥の中に崩れ落ちた。
食料という物資が、前線の兵士に届く前に、自然の拒絶によって完全に遮断された瞬間だった。
「見捨てろ」
ガロアは冷徹に言い放った。
「あの荷車を引き出すには、大人の男が30人と、丸1時間の作業が必要だ。我々にはそのどちらもない。ゼノアの追撃兵は、我々より遥かに軽い装備で森を駆けてきている。食料に群がるネズミのように、あの荷車に敵が集まっている間に、我々は少しでも奥へ進む」
ルカの肩を支え直しながら、ガロアは歩みを再開した。
背後からは、見捨てられた輜重兵たちの絶望的な悲鳴と、それを追い詰める敵の足音が響いてきたが、ガロアは一度も振り返らなかった。
彼が冷酷になれるのは、それが戦場における唯一の「正しい計算」だからだ。
荷車1台を救うために30人の兵を失えば、部隊の戦力は完全に消滅する。
それよりも、物資をすべて敵への「撒き餌」として機能させ、その隙に数キロメートルでも距離を稼グ方が、生き残る確率は僅かに高まる。
職人が鉄の不純物を叩き出すように、無駄な感情を削ぎ落とさなければ、この泥濘からは誰も生きて出られない。
森の奥へ進み、追撃を撒いたと思われる大樹の根元で、ガロアは部隊を一時停止させた。
兵士たちは泥の中に倒れ込み、激しい呼吸の音だけが湿った空間を満たしていく。
月の光さえ届かない針葉樹の天蓋の下は、完全なる漆黒、全盲の世界だった。
自分の差し出した手のひらさえ見えない。
兵士たちは脂の染み込んだ松の枝を削り、火打ち石を何度も叩きつけて、ようやく数本の松明に火を灯した。
揺らめく橙色の炎が、濡れた木々に反射し、兵士たちの青白い顔を不気味に照らし出す。
「ルカの鎧を外す。手を貸せ」
ガロアは短剣を抜き、副官の身体を引き寄せた。
ルカの容態は最悪だった。
先ほどの戦場で、あの少年の放った熱波を至近距離で浴びた彼の左腕は、もはや人間の腕の形を留めていなかった。
鉄の融点は非常に高く、通常の鍛冶場でも炭を限界まで熾さなければ融けることはない。
それほどの超高熱がほんの一瞬だけルカの身体をなぞった結果、彼が身につけていた鉄製の鎖帷子は、衣服の麻布を焼き切り、彼の皮膚の肉組織と「一体化」するように融着していた。
「ぎ、あ、あああああッ!!」
ガロアが鎖帷子の端を掴み、慎重に引っ張った瞬間、ルカの口から引き裂かれたような悲鳴が上がった。
融けた鉄の環が、冷える過程でルカの筋肉や血管を巻き込みながら固まってしまっている。
これを無理に剥がそうとすれば、肉が削げ落ち、太い動脈が破裂して失血死するのは明白だった。
このような重度の火傷に対する特効薬など存在しない。
戦場における治療とは、傷口の腐敗を防ぐための極めて原始的で、それ自体が拷問に近い処置しかなかった。
「包丁を火で灼け」
ガロアは近くの兵に命じた。
「このままでは数日で傷口から毒が回り、身体が腐って死ぬ。融着した鉄ごと、腐り始めた肉を削ぎ落とすしかない。ルカ、声を殺せ。敵に位置を知られるな」
ガロアはルカの口に、太い木の枝を無理やりねじ込んだ。
ルカは恐怖に目を血走らせ、首を激しく横に振ったが、ガロアは容赦なく彼の身体を地面に押さえつけた。
松明の炎で赤く灼かれた鉄の刃が、ルカの左腕の肉に当てられる。
ジウ、という肉が焼ける嫌な音と、鼻を突く白煙が立ち上った。
ルカの身体が限界まで硬直する。
木の枝を噛み締める彼の歯から血が滲み、やがて彼は痛みのあまり白目を剥いて失神した。
ガロアは表情を変えず、ただ冷徹に、酢で湿らせた麻布をその傷口に強く巻き付けた。
傷を清めるための酢の酸味が、気絶したルカの身体を再び小さく痙攣させた。
これが、この世界の「理」だった。
人間を傷つけるのも鉄であり、その人間を治療するのもまた、火で灼いた鉄しかなかった。
すべては因果の内にあり、目に見える物理的な現象として完結している。
それなのに、あの戦場で起きたことは何だったのか。
ガロアは自らの血と脂で汚れた手を眺めながら、激しい動揺の泥濘に再び沈み込んでいた。
夜が更けるにつれ、貴重な松明の脂が尽きかけていた。
パチパチと音を立てていた最後の灯りが、雨の雫によってジッと音を立てて消えた。
その瞬間、再び視覚が没収された。
一歩でも足を動かせば、見えない木の枝が目を突き刺し、牙のような大樹の根が足を引っ掛け、兵士を泥の中へと転がす。
「動くな。全員、その場に座り込め」
ガロアは暗闇に向かって、声を低く抑えて命じた。
「下手に動けば斜面を転がり落ちて骨を折るだけだ。互いの身体を寄せ合い、体温を分け合え。夜が明けるまで、一歩も動いてはならん」
暗闇の中で、兵士たちが互いの鉄の鎧をぶつけ合わせながら、身を寄せ合う気配が伝わってきた。
冷たい鉄と鉄が触れ合う音が、やけに寂しく響く。
ガロアもまた、失神したままのルカの身体を抱き寄せ、冷え切った自らの胸当てを押し当てた。
静寂が森を支配する。
雨の音、風が葉を揺らす音、兵士たちの震える息。
その中に、ガロアは奇妙な「音」が混じっているのを、鋭敏な耳で捉えた。
チリ、チリ……。
それは、濡れた木々が擦れ合う音ではなかった。
何かが、ごく僅かな熱を持って「爆ぜる」ような、不吉な音だった。
ガロアの背筋に、戦場で味わったあの「肌を刺す痛み」が、再び冷たく走った。
暗闇の向こう、木々の隙間に、人間の血のように鮮やかな、小さな「真紅の光」がぽつりと灯るのを、ガロアは確かに見た。




