第5話
「ひ、ひいいいっ!! 腕が、俺の腕が融けてるッ!!」
生き残った左翼の兵士が、自身の鉄盾を放り出して狂ったように悲鳴を上げた。
彼の前腕には、熱風でドロドロに溶けた鉄盾の破片がこびりつき、肉を焼き焦がす不快な臭いを立てていた。
衣服の繊維が焼けた皮膚と融着し、剥がすことすらできない。
兵士たちは自らの防具であるはずの鉄が、自分たちを焼き殺す「凶器」へと変わったことに絶望していた。
「化け物だ! 神の, 神の怒りだぁっ! こんなの勝てるわけがない!」
アウストラ軍が誇る厳格な規律は、この一瞬にして完全に崩壊した。
未知なる恐怖が伝染病のように一瞬で広がり、精鋭たちが、我先にと後方へ向かって狂ったように走り始める。
泥に足を取られて転んだ者を、かつての仲間たちが容赦なく踏みつけにし、ただ己の命だけを救うために逃げていく。
時速3.5キロメートルで整然と進んでいた軍勢は、今や時速15キロメートル以上の無秩序な逃走の群れへと成り下がっていた。
「待て! 戻れ! まだ敵の本隊は来ていない! 陣形を立て直せ!」
ガロアは声を張り上げ、逃げ惑う兵の肩を掴もうとしたが、その声は誰の耳にも届かった。
軍人としての本能が「撤退」を叫んでいる。
だが、彼の冷徹な理性は、目の前の圧倒的な現実を未だに拒絶し、計算しようともがいていた。
あり得ない。
30キログラムの鉄を身につけた兵士を殺すには、同じように研ぎ澄まされた鉄の刃を、正確に隙間に突き立てる必要がある。
あるいは、数十キログラムの石を物理的にぶつけるかだ。
そこには必ず、質量と運動エネルギー、そして準備に要した時間が対価として存在する。
だが、あの少年がやったことは何だ。
防具一枚纏っていない子供が、ただ右手を振っただけで、1,500度を超える鉄の軍勢を融かし、一瞬で消し去った。
これでは、これまでの人類が積み上げてきた戦術も、訓練も、兵站の苦労も、すべてがただの喜劇ではないか。
これが、これからの戦争なのか?
ガロアは震える手で、愛剣の柄を強く握り直した。
1.2キログラムの、手のひらに伝わる確かな鉄の重量。
だが今、その頑強なはずの鋼鉄が、あまりにも儚く、無力な子供の玩具のように感じられてならなかった。
遠く、沸き立つ煙の向こうで、ゼノア帝国の少年がふらりと膝をつき、周囲の軽装兵に慌てて支えられるのが見えた。
少年の顔は紙のように白く、鼻と目からは一筋の黒い血が流れている。
(……やはり彼も人間だ。神ではない。あの理不尽な力には、肉体に強烈な過負荷をかける、何らかの代償か限界があるはずだ)
ガロアの冷徹な観察眼だけが、本能的な恐怖の隙間から、その重要な事実を確実にとらえていた。
あの「理不尽」を発動するには、おそらく数分から数時間の冷却時間が必要だ。
そうでなければ、彼は今すぐ第二撃を放ち、アウストラ軍を全滅させているはずだからだ。
しかし、戦況の完全な崩壊は、もはや個人の意志や発見で止められるレベルを超えていた。
「隊長! ガロア隊長! 早く引いてください、もう誰も指示を聞きません! 軍の体をなしていない!」
泥まみれになったルカが、ガロアの鎧の肩を掴んで必死に叫んだ。
ルカの左腕は、爆風の強烈な熱を直接浴びたのか、鉄の鎖帷子が皮膚の肉にドロドロに焼き付き、赤黒い肉肉しい火傷を負って激しく震えている。
鉄の環が皮膚の奥深くまで陥没し、血と脂が混ざり合った液体が滴り落ちていた。
その苦痛に満ちた部下の表情を見て、ガロアはついに我に返った。
ここで全滅することは、何の合理性もない。
ガロアは遠い地平線を見た。
ゼノア帝国の重装歩兵たちが、勝ったと確信し、勝ち鬨を上げながら、崩壊して逃げ惑うアウストラ軍を各個撃破するために前進を開始している。
「……退くぞ、ルカ。生き残った者を可能な限り拾え。総員、後方の森林地帯へ撤退だ。これ以上の戦闘は、ただの屠殺にしかならん」
ガロアは、粉々に破壊されてしまった鉄の戦場に、ついに背を向けた。
世界が変わった。
鉄の重さも、数の優位も、兵站の計算も、すべてを過去の遺物に変えてしまう「理不尽」が、今このアウストラ平原で産声を上げたのだ。
泥水をすするような、屈辱に満ちた敗走の始まりを予感しながら、ガロアはただ、己の胸の中に宿った、冷たい怒りと恐怖の塊を強く噛み締めていた。




