第3話
降り注いだはずの鉄の矢が、敵の中央に到達する直前、まるで空間そのものに張られた目に見えない強固な壁に弾かれたかのように、不自然な軌道を描いて地面に落ちたのだ。
1本や2本の間違いではない。
その区画へと正確に落ちたはずの数200本以上の矢が、すべてパチパチと乾いた音を立てて方向を変え、泥の中に深く突き刺さっていた。
「……風か? いや、そんな馬鹿なことがあってたまるか」
ガロアは太い眉を不快そうにひそめた。
風は現在、アウストラ軍から敵に向かって秒速3メートルほどの緩やかな追い風だ。
重量のある鉄の矢尻をつけた矢が、逆風もないのに押し戻されるなど、物理的に絶対にあり得ない。
矢が落ちた位置の周囲の泥を凝視すると、そこには火花が散ったような跡すらなく、ただ物理的な運動エネルギーが完全に無効化されたかのように、垂直に自由落下していた。
「距離200メートル! 敵、中央の歩兵が速度を上げます!」
ルカの声に、明確な焦りが混じり始める。
敵の重装歩兵たちが、鉄盾を掲げて突撃の構えをとった。
だが、やはり何かが決定的におかしかった。
敵の中央から、陽炎のような異様な「空間の歪み」が、周囲一帯へと広がっているのが肉眼でも確認できたからだ。
そこにいたのは、1人の少年だった。
年齢は10代後半。
すり切れた灰色の布を纏っているだけで、鉄の兜も、身を守る胸当てすらも一切身につけていない。
その細い腕は、10度を下回る寒さの中で青白く震えているようにも見えた。
しかし、その少年が両手を天に向かって静かに掲げた瞬間、戦場全体の空気が、物理的な法則を無視して一変した。
ジリ、と皮膚が焦げるような鋭い痛みがガロアの顔を襲った。
凍えるような平原であるはずなのに、突如として、巨大な鋳造炉の前に立たされたかのような激しい熱風が、正面からなぞったのだ。
息を吸い込むと、肺の奥がチリチリと焼けるように熱い。
周囲の冷たい泥水から、不自然なほど濃い白い湯気が、一斉に立ち上り始めていた。
泥水がまたたく間に沸騰し、摂氏100度に達して泡を吹いている。
その熱は、兵士たちの鍛鉄製の胸当てへと容赦なく伝導していった。
「なんだ……この暑さは……? 鎧が、熱を帯びてきているぞ!」
前列で盾を構えていたベテランの兵士が、困惑と恐怖の入り混じった声で呟いた。
「慌てるな! ただの威嚇だ! 敵のハッタリに惑わされるな!」
ガロアは叫んだが、自らの手甲を握る皮膚もまた、急激な温度上昇を感知していた。
わずか数秒のうちに、戦場の気温は摂氏10度から、一気に50度を超える熱帯さながらの環境へと変貌していた。
空気の分子が異常な速度で振動しているかのように、視界全体が小刻みに揺れ、敵の陣形がグニャグニャと歪んで見える。
少年の瞳が、人間のそれとは思えないほど鮮やかな、血のような「真紅」に染まっていた。
彼は呪文を詠唱するでもなく、複雑な儀式を行うでもなく、ただ、ガロアたちの陣地に向けて、突き出した右手を静かに振り下ろした。
言葉にできる前触れは、本当に、何もなかった。




