第2話
前方1,000メートル。
立ち上る細い土煙の向こうに、ゼノア帝国軍の黒い影がゆっくりと浮かび上がった。
敵陣からも、こちらの接近を警戒する鉄製の角笛の音が、低く重く響いてくる。
アウストラ王国軍の展開した陣形は、美しく、そして完璧だった。
ガロアの率いる百人隊を中心に、計5つの百人隊が横に寸分の隙もなく連なり、総勢500人の「鉄の壁」を形成している。
前列の兵士たちが一斉に号令とともに膝をつき、鉄補強の丸盾を泥の中に深く突き立てた。
盾の縁に刻まれた凹凸が完璧に噛み合い、正面からの攻撃を一切通さない、漆黒の鉄の障壁が出来上がる。
そのわずかな隙間から、3メートルの長槍が、まるで鋭利な針の山のように無数に突き出された。
それは、これまでの人類が到達した、最も完成された戦術的防御形態、通称『鉄塊陣形』であった。
この陣形を正面から破るには、それ以上の質量か、あるいは側面からの騎兵突撃しかない。
しかし、現在の戦場の地形は、両翼を深い森林とぬかるんだ川に挟まれており、横幅はわずか400メートルほどしかない。
敵の800という軍勢も、この狭い空間では数の優位を活かせず、正面からアウストラ軍の鉄の壁を叩くしかないのだ。
すべてはガロアの計算通りだった。地形の選択、部隊の配置、防衛の角度、そのどれをとっても破綻の兆候はなかった。
「敵歩兵、前進してきます! 距離400メートル!」
前線に配置された見張りの兵が、鋭く叫ぶ。
ガロアは愛馬の馬首を返し、自らも馬から降りて、泥の上に両足で立った。
手綱を後方の馬卒に預け、自身の重量8キログラムの鉄盾と、1.2キログラムの鋼鉄剣を正しく構える。
前列の兵士たちのすぐ背後へと陣取る。
地面を通じて、数百人の足音が地鳴りのような細かな振動となって伝わってくる。
敵の重装歩兵たちもまた、重い足取りで泥を踏みしめ、金属音を鳴らしながら確実に近づいていた。
敵の先頭集団が放つ殺気が、冷たい空気を通じて皮膚にピリピリと伝わってくる。
彼らゼノア帝国の歩兵もまた、頑丈な鉄の兜と胸当てを身に纏っている。
その足取りは時速3キロメートルほど。
アウストラ軍と同じく、無駄な体力を消費しないための冷徹な歩調だった。
ガロアは心の中で秒数を数え始める。
敵がこのままの速度で進めば、あと120秒で接敵する。
その瞬間に、前列の槍が一斉に敵の喉元を貫く物理的な光景を、彼は完全に予見していた。
「弓兵、放て!」
後方から、大隊指揮官の鋭い号令が下った。
直後、バキバキと耳障りな音を立てて、牛の腱で補強された強弓が一斉に引き絞られ、空に向けて解き放たれる。
先端に鋭利な鉄の矢尻を嵌め込んだ、約600本の矢が、綺麗な放物線を描いて灰色の空へと吸い込まれていった。
矢は最高高度約40メートルにまで達したのち、重力に従って加速度を増しながら、ゼノア軍の頭上へと降り注ぐ。
それはアウストラ王国軍が誇る精密な遠距離制圧戦術だった。
矢の重量は約40グラム。
45度の角度で放たれた矢は、最高点から自由落下を始める際、空気抵抗を差し引いても秒速およそ35メートルの速度に達する。
その運動エネルギーは、鎧を着ていない人間の頭蓋骨や胸骨を容易に粉砕するに十分なものだ。
ガロアは鉄盾の小さな覗き窓から、その完璧な弾道を見つめていた。
敵の中央、防具を一切着けていない不審な一団に矢の雨が突き刺さり、一瞬で肉飛沫が舞う――誰もがその光景を確信していた。
だが、信じがたい光景が目の前で起きた。




