第4話
太陽が西の山並みに没しようとする頃、王都オーガストの北方は、夜の闇ではなく、血のようにどす黒い真紅の陽炎によって完全に支配されていた。
ゴオオオオオ、という、大気が不自然に急膨張を繰り返す不気味な鳴動が、地平線の彼方から絶え間なく押し寄せてくる。
王都の北門を守る石造りの堅牢な城壁。数百年の間、いかなる軍勢の猛攻をも撥ね退けてきたその強固な岩盤が、今、何の前触れもなく変色を始めていた。
数千度の放射熱を正面から浴び続けた花崗岩は、内部の水分が一瞬で沸騰して弾け、バリバリと激しい音を立てて表面から粉々に爆ぜ散っていく。
やがて、耐えきれなくなった石の基礎がドロドロとガラス状に融解し、まるで蜂蜜のように粘り気を持った液体の滝となって、内側へと崩れ落ちた。
崩壊した城壁の隙間、白煙が立ち上るその中心から、ゆっくりと歩みを進めてくる影があった。
薄汚れた夜着を風に揺らし、退屈そうに首を傾げる少年、エリアス。
その周囲数十メートルにおよぶ空間は、近づくだけで生物の網膜を焼き焦がすほどの、圧倒的な熱量のドームと化していた。
少年が石畳に小さな足を踏み入れるたびに、地面の石は一瞬で真っ赤に焼け、彼の足跡の形に深く陥没していく。
路地の両側に並ぶ木造の商店や、平民たちの家屋は、エリアスがその横を通り過ぎるだけで、火が燃え移るまでもなく、衣服や柱の繊維が自ずから黒煙を上げ、次の瞬間には爆発的に炎上していった。
少年が歩く。それだけで、数百年の歴史を持つ美しい下層の街並みが、ただの燃えさかる灰の通り道へと変えられていく。
「なにい、これ。誰もいないじゃない」
エリアスは、炎に包まれる家々を見向きもせず、誰もいない路地の奥を見つめて呟いた。
その黄金色の瞳には、人間の軍隊に対する恐怖など、やはり爪の先ほども存在しなかった。
彼にとってこの戦争は、おもちゃの箱をひっくり返し、燃えやすい紙細工に火をつけて遊ぶ、退屈な暇潰しに過ぎないのだ。
不気味なほどに静まり返った下層街を、炎を引き連れて進むエリアス。
やがて、彼の視界が開けた。
そこは、下層区画の最も標高の低い場所に位置する、直径百メートルほどの大広場だった。普段なら数千人の平民が行き交い、市場の喧騒で満ちているはずのその石畳の中央に、一人の男が立ち尽くしていた。
黒く焼け焦げ、表面が気泡を立てて変形した甲冑を纏った男、ガロア。
彼の右手には、すでに刃のあちこちが熱で歪み、鈍い光を放つ長剣が握られていた。
周囲の建物から噴き出す炎の照り返しを受け、ガロアの黄金色の瞳だけが、暗闇の中で獣のように鋭く光っている。
「あれ、おじさん、まだ生きてたんだ」
エリアスは足を止め、広場の入り口で、心底不思議そうに笑った。
「あの硬くて冷たい鉄の下に埋めてあげたのに、よく出てこられたね。でも、無駄だよ。おじさんたちが何をやっても、僕の熱の前には全部融けちゃうんだから」
エリアスの言葉が広場に響く。
ガロアは応えなかった。彼の脳内では、エリアスが広場に侵入した瞬間から、寸分の狂いもない「秒単位の算術」が開始されていた。
(敵の周囲の推定温度、摂氏二千二百度。輻射熱による私の装甲の限界限界到達まで、あと百二十秒。……少年の歩幅、一歩につきおよそ六十センチメートル。広場の中央、流速の臨界座標まで、あと八歩)
ガロアは懐にあるルカの羊皮紙を、甲冑越しに左手で強く押し当てた。
死の淵で副官が導き出した、水と熱の絶対的な反比例の数式。それが、今のガロアにとっての唯一の戦術原典だった。
「おじさん、黙ってるとつまんないよ。今度はその服ごと、消えちゃいなよ」
エリアスが退屈そうに、右の掌をガロアに向けて掲げた。
その指先が、目も眩むような純白の光を放ち始める。
大気がジ、ジ、とガラスがきしむような音を立てて歪み、空間そのものが少年の意思に従って熱量を凝縮させていく。
(あと、三秒)
ガロアは、手にした長剣を天へと真っ直ぐに突き上げた。それが、王都の命運を分ける、非情なる合図だった。
「今だ。引けッ!!」
ガロアの裂けんばかりの咆哮が、炎の爆音を突き破って響き渡った。
その瞬間、王都の北方にそびえ立つ三つの巨大な水門の真下、暗渠の奥深くで、職人頭バザンが松明を導火線へと叩きつけた。
何十樽もの黒火薬が一斉に炸裂し、凄まじい重低音とともに、数百年の歴史を持つ青銅の水門とそれを支える石造りの要石が、文字通り粉々に爆砕された。
ドガアアアアアアアアンッ!!!
固定を失った北方の大河の奔流が、一気の濁流となって解き放たれた。
それは、もはや「水」という生易しい質量ではなかった。幅十メートル、高さ数メートルに達する、圧倒的な漆黒の水の壁だ。
傾斜のついた王都の水路網を、数百万トンの水が、重力による加速度を伴って猛烈な速度で流れ落ちていく。
水路の石壁をガリガリと削り取り、行き場を失った濁流は、ガロアの計算通り、最も標高の低い下層の中央広場へと向かって、四方八方の暗渠から一斉に噴き出した。
「え……?」
エリアスが、その異様な音に気づいて顔を巡らせた。
広場を取り囲む無数の給水路の口から、ゴウウウウウッ、という、大地を揺らすような地鳴りとともに、冷たい水の波頭が溢れ出してきたのだ。
水は、エリアスが焼き尽くしてきた周囲の炎を一瞬で飲み込み、猛烈な勢いで広場の水位を上昇させていく。
「水……? そんなの、僕の熱で一瞬で――
」
エリアスが両手を広げ、さらに出力を高めようとした、その瞬間だった。
時速数十キロメートルで四方から押し寄せた数百万トンの冷水が、エリアスの展開する摂氏二千度以上の熱量のドームへと、完全に正面から激突した。
――世界が、一瞬で「臨界」を迎えた。
熱い鉄に一滴の水を落とせば、水は一瞬で気化する。
ならば、数千度の絶対的な不条理の熱源に、数百万トンの冷水が超高圧でぶち当たればどうなるか。
水分子は液体の形を維持できず、一瞬にして千七百倍の体積を持つ「過熱水蒸気」へと爆発的に膨張した。
ドグォォォォォォォォンッ!!!!
それは、いかなる魔法をも凌駕する、人間の知恵が引き起こした「超巨大水蒸気爆発」だった。
衝撃波が、広場を囲んでいた石造りの商店や家屋を、内側から爆破するように粉々に吹き飛ばした。
大気が限界まで圧縮され、すさまじい風圧がガロアの重い甲冑をも数メートル後方へと吹き飛ばす。
広場は一瞬にして、視界が完全にゼロになるほどの、猛烈な白い水蒸気の地獄へと変貌した。
「あ、あ、があああああああっっ!!!???」
白い闇の奥から、これまでに一度も聞いたことのない、エリアスの引き裂かれるような悲鳴が響き渡った。
いかに数千度の熱線を放つ魔導師であろうとも、周囲の空気がすべて数百度の沸騰した蒸気へと置換され、酸素を完全に奪われれば、肉体としての限界を迎える。
さらに、四方から絶え間なく押し寄せる数百万トンの水の質量は、エリアスがどれだけ熱を放とうとも、その気化熱によって少年の体温を、魔力を、容赦なく根こそぎ奪い去っていった。
熱を放てば放つほど、周囲の水がさらに爆発して少年自身を打ちのめす。
人間の用意した「自然の質量」という名の絶対的な牢獄が、不条理の神を完全に窒息させつつあった。
ガロアは、激しい衝撃で大理石の床に叩きつけられながらも、泥水の中から這い上がった。
鎧の隙間から入り込んだ蒸気によって、全身の皮膚が赤黒く焼けただれ、呼吸をするたびに肺が灼熱の痛みを訴える。
しかし、彼の黄金色の瞳は、白い霧の奥で確実に「衰退」していく、あの真紅の光を見逃さなかった。
ガロアは、引きちぎれかけた足の筋肉に力を込め、真っ白な蒸気の海の中へと、一歩ずつ、しかし確実に足を踏み出した。
不条理が融ける音が、激しい霧の向こうから聞こえていた。
人間の執念と質量の算術が、今、神の領域の喉元へと、その冷たい鉄の刃を突き立てようとしていた。




