表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄は不条理に融ける  作者: てらてら
王都の天秤
18/19

第4話

太陽が西の山並みに没しようとする頃、王都オーガストの北方は、夜の闇ではなく、血のようにどす黒い真紅の陽炎によって完全に支配されていた。


ゴオオオオオ、という、大気が不自然に急膨張を繰り返す不気味な鳴動が、地平線の彼方から絶え間なく押し寄せてくる。


王都の北門を守る石造りの堅牢な城壁。数百年の間、いかなる軍勢の猛攻をも撥ね退けてきたその強固な岩盤が、今、何の前触れもなく変色を始めていた。


数千度の放射熱を正面から浴び続けた花崗岩は、内部の水分が一瞬で沸騰して弾け、バリバリと激しい音を立てて表面から粉々に爆ぜ散っていく。


やがて、耐えきれなくなった石の基礎がドロドロとガラス状に融解し、まるで蜂蜜のように粘り気を持った液体の滝となって、内側へと崩れ落ちた。


崩壊した城壁の隙間、白煙が立ち上るその中心から、ゆっくりと歩みを進めてくる影があった。

薄汚れた夜着を風に揺らし、退屈そうに首を傾げる少年、エリアス。


その周囲数十メートルにおよぶ空間は、近づくだけで生物の網膜を焼き焦がすほどの、圧倒的な熱量のドームと化していた。


少年が石畳に小さな足を踏み入れるたびに、地面の石は一瞬で真っ赤に焼け、彼の足跡の形に深く陥没していく。

路地の両側に並ぶ木造の商店や、平民たちの家屋は、エリアスがその横を通り過ぎるだけで、火が燃え移るまでもなく、衣服や柱の繊維が自ずから黒煙を上げ、次の瞬間には爆発的に炎上していった。


少年が歩く。それだけで、数百年の歴史を持つ美しい下層の街並みが、ただの燃えさかる灰の通り道へと変えられていく。


「なにい、これ。誰もいないじゃない」


エリアスは、炎に包まれる家々を見向きもせず、誰もいない路地の奥を見つめて呟いた。

その黄金色の瞳には、人間の軍隊に対する恐怖など、やはり爪の先ほども存在しなかった。


彼にとってこの戦争は、おもちゃの箱をひっくり返し、燃えやすい紙細工に火をつけて遊ぶ、退屈な暇潰しに過ぎないのだ。


不気味なほどに静まり返った下層街を、炎を引き連れて進むエリアス。

やがて、彼の視界が開けた。


そこは、下層区画の最も標高の低い場所に位置する、直径百メートルほどの大広場だった。普段なら数千人の平民が行き交い、市場の喧騒で満ちているはずのその石畳の中央に、一人の男が立ち尽くしていた。


黒く焼け焦げ、表面が気泡を立てて変形した甲冑を纏った男、ガロア。

彼の右手には、すでに刃のあちこちが熱で歪み、鈍い光を放つ長剣が握られていた。


周囲の建物から噴き出す炎の照り返しを受け、ガロアの黄金色の瞳だけが、暗闇の中で獣のように鋭く光っている。


「あれ、おじさん、まだ生きてたんだ」


エリアスは足を止め、広場の入り口で、心底不思議そうに笑った。


「あの硬くて冷たい鉄の下に埋めてあげたのに、よく出てこられたね。でも、無駄だよ。おじさんたちが何をやっても、僕の熱の前には全部融けちゃうんだから」


エリアスの言葉が広場に響く。

ガロアは応えなかった。彼の脳内では、エリアスが広場に侵入した瞬間から、寸分の狂いもない「秒単位の算術」が開始されていた。


(敵の周囲の推定温度、摂氏二千二百度。輻射熱による私の装甲の限界限界到達まで、あと百二十秒。……少年の歩幅、一歩につきおよそ六十センチメートル。広場の中央、流速の臨界座標まで、あと八歩)


ガロアは懐にあるルカの羊皮紙を、甲冑越しに左手で強く押し当てた。

死の淵で副官が導き出した、水と熱の絶対的な反比例の数式。それが、今のガロアにとっての唯一の戦術原典だった。


「おじさん、黙ってるとつまんないよ。今度はその服ごと、消えちゃいなよ」


エリアスが退屈そうに、右の掌をガロアに向けて掲げた。

その指先が、目も眩むような純白の光を放ち始める。


大気がジ、ジ、とガラスがきしむような音を立てて歪み、空間そのものが少年の意思に従って熱量を凝縮させていく。


(あと、三秒)


ガロアは、手にした長剣を天へと真っ直ぐに突き上げた。それが、王都の命運を分ける、非情なる合図だった。


「今だ。引けッ!!」


ガロアの裂けんばかりの咆哮が、炎の爆音を突き破って響き渡った。

その瞬間、王都の北方にそびえ立つ三つの巨大な水門の真下、暗渠の奥深くで、職人頭バザンが松明を導火線へと叩きつけた。


何十樽もの黒火薬が一斉に炸裂し、凄まじい重低音とともに、数百年の歴史を持つ青銅の水門とそれを支える石造りの要石が、文字通り粉々に爆砕された。


ドガアアアアアアアアンッ!!!


固定を失った北方の大河の奔流が、一気の濁流となって解き放たれた。

それは、もはや「水」という生易しい質量ではなかった。幅十メートル、高さ数メートルに達する、圧倒的な漆黒の水の壁だ。


傾斜のついた王都の水路網を、数百万トンの水が、重力による加速度を伴って猛烈な速度で流れ落ちていく。

水路の石壁をガリガリと削り取り、行き場を失った濁流は、ガロアの計算通り、最も標高の低い下層の中央広場へと向かって、四方八方の暗渠から一斉に噴き出した。


「え……?」


エリアスが、その異様な音に気づいて顔を巡らせた。


広場を取り囲む無数の給水路の口から、ゴウウウウウッ、という、大地を揺らすような地鳴りとともに、冷たい水の波頭が溢れ出してきたのだ。


水は、エリアスが焼き尽くしてきた周囲の炎を一瞬で飲み込み、猛烈な勢いで広場の水位を上昇させていく。


「水……? そんなの、僕の熱で一瞬で――

エリアスが両手を広げ、さらに出力を高めようとした、その瞬間だった。


時速数十キロメートルで四方から押し寄せた数百万トンの冷水が、エリアスの展開する摂氏二千度以上の熱量のドームへと、完全に正面から激突した。


――世界が、一瞬で「臨界」を迎えた。

熱い鉄に一滴の水を落とせば、水は一瞬で気化する。


ならば、数千度の絶対的な不条理の熱源に、数百万トンの冷水が超高圧でぶち当たればどうなるか。

水分子は液体の形を維持できず、一瞬にして千七百倍の体積を持つ「過熱水蒸気」へと爆発的に膨張した。


ドグォォォォォォォォンッ!!!!


それは、いかなる魔法をも凌駕する、人間の知恵が引き起こした「超巨大水蒸気爆発」だった。

衝撃波が、広場を囲んでいた石造りの商店や家屋を、内側から爆破するように粉々に吹き飛ばした。


大気が限界まで圧縮され、すさまじい風圧がガロアの重い甲冑をも数メートル後方へと吹き飛ばす。

広場は一瞬にして、視界が完全にゼロになるほどの、猛烈な白い水蒸気の地獄へと変貌した。


「あ、あ、があああああああっっ!!!???」


白い闇の奥から、これまでに一度も聞いたことのない、エリアスの引き裂かれるような悲鳴が響き渡った。

いかに数千度の熱線を放つ魔導師であろうとも、周囲の空気がすべて数百度の沸騰した蒸気へと置換され、酸素を完全に奪われれば、肉体としての限界を迎える。


さらに、四方から絶え間なく押し寄せる数百万トンの水の質量は、エリアスがどれだけ熱を放とうとも、その気化熱によって少年の体温を、魔力を、容赦なく根こそぎ奪い去っていった。


熱を放てば放つほど、周囲の水がさらに爆発して少年自身を打ちのめす。

人間の用意した「自然の質量」という名の絶対的な牢獄が、不条理の神を完全に窒息させつつあった。


ガロアは、激しい衝撃で大理石の床に叩きつけられながらも、泥水の中から這い上がった。

鎧の隙間から入り込んだ蒸気によって、全身の皮膚が赤黒く焼けただれ、呼吸をするたびに肺が灼熱の痛みを訴える。


しかし、彼の黄金色の瞳は、白い霧の奥で確実に「衰退」していく、あの真紅の光を見逃さなかった。


ガロアは、引きちぎれかけた足の筋肉に力を込め、真っ白な蒸気の海の中へと、一歩ずつ、しかし確実に足を踏み出した。


不条理が融ける音が、激しい霧の向こうから聞こえていた。

人間の執念と質量の算術が、今、神の領域の喉元へと、その冷たい鉄の刃を突き立てようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ