第3話
王宮の重い扉が閉まった瞬間から、王都オーガストの運命を刻む秒針は、ガロアの脳内で凄まじい速度で回転を始めていた。
手に入れたのは、全軍の指揮権を示す黄金の割符と、王都の命脈たる三つの巨大水門の開閉権限。
しかし、それを手に入れた代償として、ガロアの肩には「二十六時間」という、砂時計の最後の数粒のようなあまりにも短い猶予だけが残されていた。
王宮から下層区画へと続く大階段を駆け下りながら、ガロアは周囲の景色を、もはや美しい都市としては見ていなかった。
大気中の湿度、傾斜の角度、建物の密集度――すべてが、エリアスを殺すための「戦術的要素」へと脳内で置換されていく。
「全軍に告ぐ。これより下層区画の『全住民』に対し、即時の避難勧告を発令する」
ガロアは合流した伝令兵たちに、冷徹な命令を下した。
「避難先は上層の貴族街、および東方の山林。手荷物は一切認めない。衣服と最低限の水だけを持たせ、走れる者者は走らせろ。……ただし、避難の完了を待つために作戦を遅らせることは万に一つもない。時間が来れば、誰が残っていようと水門は爆破する」
「た、隊長……! 下層には十万人以上の人間がいます! たった一日の猶予で、彼らを狭い上層街へ避難させるなど、物理的に不可能です! 必ずパニックが起きます!」
伝令の若い兵士が、顔を青ざめさせて叫んだ。
「分かっている」
ガロアは足を止めず、前だけを見据えて言い放った。
「十万人のうち、上層への狭い階段を登りきれるのは、計算上多くて四割。残りの六割は、下層に留まるか、あるいは避難の混乱の中で滞留することになる。……だが、その六割の命を惜しんで作戦を躊躇えば、明日の今頃には二十万人全員が消滅する。四割を生かすために、六割を切り捨てる。これが今、この瞬間にこの国が選択できる最も効率的な生存の算術だ」
兵士はそれ以上、言葉を返すことができなかった。
ガロアの言葉には、平民への憎しみも、貴族への阿ねりもない。ただ、全滅を避けるための「最善の引き算」だけが、冷酷なまでの純度で存在していたからだ。
数時間もしないうちに、王都の下層区画は地獄のような喧騒に包まれた。
銅鑼の音がけたたましく鳴り響き、兵士たちが家々の扉を叩き割って住民を外へと追い出していく。
何が起きているのかも知らされない平民たちは、子供を抱え、わずかな財産を掴み、狭い石畳の路地へと溢れ出した。
悲鳴、怒号、赤子の泣き声。
平和に眠っていた都市の機能は、ガロアという一個の歯車によって、一瞬にして粉砕された。
その混乱の真下、王都の地下を走る巨大な給水路の暗渠の中を、三百人の鍛冶職人たちが這うようにして進んでいた。
彼らの先頭に立つ職人頭のバザンは、煤で汚れた手で、王都の北方にそびえ立つ「第一水門」の根元に、黒い火薬の樽を慎重に設置していた。
水門は、厚さ数メートルの頑強な青銅の板と、それを支える巨大な石造りの迫持で構成されている。
普通に爆薬を仕掛けただけでは、水の莫大な水圧に抗う石造りの構造体を破壊することはできない。
「おい、そこじゃねえ! その石の継ぎ目だ! 応力が最も集中する要石の真下に火薬を埋め込め!」
職人頭の怒声が、湿った地下通路に響く。
「俺たちは鉄の専門家だ。どこを叩けば、どんなに頑丈な構造物が自重で崩壊するか、その計算だけは宮廷の設計士どもより熟知している。ガロアの坊主が言った通りの流速を作るには、この水門が一瞬で、完全に『消失』しなきゃならねえ。寸分の狂いも許さねえぞ!」
職人たちの手の震えは、冷たい地下水によるものだけではなかった。
自分たちが今仕掛けている火薬が、数時間後には自分たちの家族が住む下層の街を、文字通り水の底へと沈めることになる。その事実が、彼らの胸を締め付けていた。
だが、彼らは第六鉄塞で、あのエリアスという理不尽が鉄を融かす光景を特等席で見ていた。
あれを止めなければ、世界に逃げ場などどこにも残らない。その絶対的な恐怖だけが、彼らの職人としての腕を正確に動かしていた。
同じ頃、王都市街の最も高い場所に位置する「中央救護院」の最上層では、ガロアが副官のルカのベッドの傍らに立っていた。
部屋の窓からは、眼下に広がる下層区画の、まるで蟻の巣をかき回したような混乱が一望できた。
室内に漂うのは、濃厚な消毒用の薬草の匂いと、ルカの体内から揮発し続ける、あのゼノアの魔力毒の不気味な甘い臭いだ。
「……たい、ちょう……」
ルカは、骨と皮ばかりに痩せ細った腕を震わせながら、ベッドの脇に置かれた机の上を指差した。
そこには、彼が意識を失う寸前まで、震える手で書き殴ったと思われる、数十枚におよぶ羊皮紙の束があった。
「王都の、すべての……水路の、合流地点と……発生する、気化熱の……予測値、です……。俺の、脳が動くうちに……計算、しておきました……」
ルカの呼吸は浅く、その視線はすでに死の淵を覗き込んでいるかのように混濁していた。
しかし、その羊皮紙に書かれた文字と数式だけは、恐ろしいほどの正確さで整然と並んでいた。
ガロアが教え込んだ「算術」の技術が、ルカという人間の執念によって、死の間際にあっても完全に機能していた。
ガロアは羊皮紙を手に取り、その数値を一瞥すると、それを丁寧に懐へと収めた。
「完璧な計算だ、ルカ。お前の導き出した『合流地点の飽和水蒸気量』の数値により、作戦の成功確率はさらに一割向上した」
ガロアの声は相変わらず冷たかったが、その手はルカの細くなった肩を、一度だけ強く掴んだ。
「お前の戦術眼は、確かに王国の資産だ。ここで死なせるには惜しい。……職人たちに、鋳造所のすべての余剰金属をこの救護院の周囲に配置させた。地下からの魔力毒の揮発を、金属の質量で遮断する。生き残れ、ルカ。戦後は、この水浸しになった都市を再建するための算術が必要になる」
ルカは、血の混じった息を吐きながら、微かに笑った。
「……御意に……、百人隊長……」
ルカが再び深い昏睡へと落ちていくのを見届け、ガロアが救護院を後にした時、王都の北方の地平線から、一人の偵察兵が、泡を吹いて倒れかける軍馬と共に城門へと滑り込んできた。
兵士は落馬しながらも、ガロアの甲冑にしがみつき、血を吐きながら叫んだ。
「報告……ッ! 第六鉄塞の跡地……、冷え固まっていた、四十トンの鉄の山が……内側から、真っ赤に沸騰し……爆発しました!」
その言葉に、周囲の兵士たちの動きが完全に凍りついた。
「化け物が……、あのエリアスが、鉄の墓標を完全に融かし尽くして、中から這い出てきました! 護衛のゼノア兵を数千引き連れ、すでにこちらへ向かって……進軍を始めています! 奴の周囲の大気は、近づくだけで馬が焼き殺されるほどの熱量です!」
残り時間は、計算よりも早い。
奴の熱量の回復速度が、ガロアの予測の最小値を下回っていたのだ。
窓の外を見ると、まだ昼過ぎであるにもかかわらず、北方の地平線が、不気味な、血のような薄赤色の陽炎によってぐにゃりと歪み始めていた。
太陽の光さえも歪める、圧倒的な不条理の接近。
王都の市民たちがその異変に気づき、下層のパニックは、もはや制御不能な暴動へと発展しつつあった。
作戦決行まで、あと数時間。
ガロアは、住民の消えた下層の中央広場、その石畳の真ん中に一人、静かに佇んでいた。
彼の耳に届くのは、周囲の無数の暗渠から響いてくる、ゴオオ、という、大河から引き込まれた無尽蔵の水音だけだった。
数百万トンの水。それが、まもなくこの広場で、数千度の熱の神と衝突する。
(水分子の急速な気化による体積膨張率は、およそ千七百倍。この狭い下層区画の石壁で囲まれた空間なら、その圧力は臨界を超える。……化け物め、人間の知恵が作った『水の牢獄』で、今度こそその不条理を窒息させてやる)
ガロアは、懐のルカの数式をもう一度指先で確かめると、腰の剣を静かに引き抜いた。
その黄金色の瞳は、迫り来る世界の終わりを前にして、不気味なほど冷たく、そして冴え渡っていた。




