第2話
王宮「白鷺城」の最奥に位置する軍事最高評議会の間は、外の荒野に広がる地獄がまるで別の世界の出来事であるかのように、どこまでも清浄で、息を呑むほどに静謐な空間だった。
床には、遥か南方の属領から切り出されたという、塵一つない純白の大理石が隙間なく敷き詰められ、鏡のように磨き上げられている。
その表面には、天井に吊るされた数十個のクリスタルガラスのシャンデリアが放つ、贅沢な蝋燭の光が乱反射していた。
部屋を支える巨大な円柱には、王国の三百年におよぶ繁栄と勝利の歴史を讃える黄金のレリーフが、職人の手によって緻密に彫り込まれている。
この部屋を満たしているのは、荒野の泥の匂いでも、兵士たちの流す生々しい血の臭いでも、ましてや鉄がドロドロに融けた際の硝煙の臭いでもない。
高価な白檀の香炉から立ち上る、甘く、そしてどこか脳を麻痺させるような重い香の煙だった。
円卓を囲む十二人の参議たち――高位貴族や、中央軍の将軍、国政を司る大臣たちは、皆一様に、糊のきっちりと効いた最高級の絹の法衣や、実戦で一度も傷ついたことのない、美しく銀色に磨き上げられた儀礼用の甲冑に身を包んでいた。
彼らの皮膚は白く、手は柔らかく、戦場の過酷な陽光に焼かれた形跡など微塵もない。
その美しく、完成された「安全な幻想」の空間の中央に、黒く焼け焦げ、乾いた泥とドス黒い血に塗れたガロアが、両脇を近衛兵に固められて直立していた。
ガロアが足を動かすたびに、大理石の床に泥と、彼の甲冑の隙間から剥がれ落ちた黒い煤が汚らしく擦りつけられ、不快な音を立てる。
そして、彼の身体から放たれる、肉の腐りかけたような臭いと、焦げた衣服の強烈な死臭が、優雅な白檀の香を瞬く間に押し除け、議場全体へと悍ましく充満していった。
円卓に座る何人かの貴族が、あからさまに嫌悪の表情を浮かべ、刺繍の施された絹のハンカチで鼻と口を覆った。彼らにとって、ガロアは戦果を持ち帰った英雄などではなく、自分たちの清浄な世界を汚しにやってきた、前線の不浄な敗残兵に過ぎなかった。
「……第六鉄塞、守備隊百人隊長ガロア。此度の貴様の専行、到底看過できるものではない」
円卓の最も奥、一段高い上座にふんぞり返る白髭の軍務卿が、重々しく、しかし怒りを孕んだ声で口火を切った。
その声には、五日間の不眠不休の強行軍を戦い抜き、王都へ警報を届けた者への労いなど、一滴も含まれていなかった。あるのはただ、自らの管轄する防衛線が崩壊したことへの焦りと、それを一介の百人隊長になすりつけようという、政治的な計算だけだった。
「我が王国が三百年の歳月と、国家予算の三割を毎年投じて築き上げてきた、絶対防衛線たる第六鉄塞。北方の蛮族すら一度として通さなかったあの堅牢なる要塞を、貴様はたった数千のゼノア軍を前にして、無断で放棄した。あろうことか、私兵同然の部下を引き連れて王都へ逃げ帰ってくるとは……。王国軍人としての誇りを、貴様はどこへ捨ててきたのだ!」
軍務卿の怒声が天井に響き渡ると、それを合図にしたかのように、円卓の貴族たちが次々と机を叩き、ガロアを糾弾する言葉を浴びせ始めた。
「そうだ! 大蔵卿としても言わせてもらうが、あの要塞の維持にどれだけの金がかかっていると思っている! 厚さ四メートルの鋼鉄の正面門が、そう簡単に破られるはずがない!」
「前線の兵士たちの『精神のたるみ』が、ありもしない化け物の幻影を生み出し、恐怖に駆られて敵に城を明け渡したのだろう! これは明確な敵前逃亡であり、軍規に照らせば万死に値する罪だ!」
「直ちにこの場で武装を解除し、地下の雑居房へ連行すべきだ!」
飛び交う罵声、空虚な精神論、そして自らの利害関係だけを守ろうとする醜悪な言葉の数々。
ガロアは、自らの両腕を背後から押さえつけていた近衛兵の手を、大した力を込める風でもなく、しかし圧倒的な肉体の質量をもって無造作に振り払った。
ガシャリ、と不気味な金属音が議場に響く。
ガロアは静かに顔を上げ、円卓の貴族たちを、その黄金色の冷たい瞳で一人一人、順番に見据えていった。
その瞳には、怒りも、悔しさも、弁明の意志すらも存在しなかった。ただ、壊れた機械の部品を点検するかのような、徹底的に冷徹な「観察」の光だけがあった。
そのあまりにも凪いだ、人間味を欠いた視線に、騒ぎ立てていた貴族たちの声が、冷水を浴びせられたかのように徐々に静まっていく。
議場を支配したのは、ガロアの甲冑から滴る、乾きかけた血の擦れる音だけだった。
「……幻影、ですか」
ガロアの枯れ果てた声が、大理石の壁に反響し、不気味に響き渡った。
彼は腰の傷んだ剣帯から、泥と煤で汚れた平織りのボロ布に包まれた、ひどく重い「何か」を取り出した。
そして、それを腕の力だけで、円卓の中央、軍務卿の目の前へと無造作に放り投げた。
ドガァンッ!!
激しい衝撃音とともに、磨き上げられた最高級のマホガニーの机に、深い亀裂と凹みが刻まれる。貴族たちが驚きのあまり、椅子を引いて身をのけ反らせた。
「な、なんだこれは……ッ! 無礼千万な! 議場を何だと思っている!」
軍務卿がハンカチを握りしめた手を震わせながら、机の上の物体を凝視する。
転がっていたのは、人間の頭ほどの大きさがある、歪にひしゃげ、ドロドロに融けて固まった金属の塊だった。その表面は鉄本来の鈍い銀色を失い、不気味などす黒い紫色に変色し、ところどころが超高温によってガラス状に結晶化してテカテカと光を放っていた。
「それは、第六鉄塞の『厚さ四メートルの鋼鉄の正面門』の、最上部の一部です」
ガロアは、熱波で焼け焦げて皮膚が剥がれた、痛々しい唇の端を微かに歪めた。
「敵の軍勢に随伴していた、エリアスという名の、たった一人の少年。あいつが右の掌をこちらへ向けた瞬間、王国の誇る四メートルの硬鉄は、秒間およそ五十センチメートルという異常な速度で融解し、ただの赤い液体となって崩れ落ちました。……皆様は、魔法というものを、未だに従来の火薬を用いた大砲や、巨石を飛ばす投石機の延長線上でしか捉えておられない。だからこそ、そのような呑気な精神論が口から出る」
ガロアは一歩、円卓へと近づいた。近衛兵たちが本能的な恐怖から槍を構えるが、ガロアの全身から立ち上る、戦場の死線そのもののような覇気に圧倒され、それ以上足を踏み出すことができない。
「奴がもたらすのは、戦術的な破壊などという生易しいものではない。絶対的な『物理的熱量』による、世界の理の書き換えです。誇りや精神力、あるいは王国の栄光とやらで、数千度の熱線を防げるというのなら、今すぐ皆様に最前線に立っていただき、その身で証明していただきたい。だが、結果は計算するまでもない。衣服は一瞬で揮発し、肉体は炭化し、骨は爆ぜ、一秒後にはただの灰となって虚空に消えるだけだ。私は、そのような無意味な精神論のために、回収不能な戦力をすり減らすことを『最大の投資対効果の喪失』と判断しました。要塞の放棄は、生存確率を最大化するための当然の算術です」
「貴様……ッ! 口を慎め! 自分が正しかったとでも言うつもりか! 要塞を明け渡した結果、この王都へ続く北方の防衛線は完全に消失したのだぞ! この街が襲われたらどうする!」
大蔵卿が、脂汗の浮かんだ顔を真っ赤に染めて怒鳴り散らした。
「私は、要塞をただ明け渡したわけではない」
ガロアの声は、どこまでも平坦で、冷酷だった。
「奴らの進軍ルートを地下の狭い通路へと限定させ、その頭上から、三百人の職人が一昼夜かけて融かした、およそ四十トンの沸騰した鉄液を浴びせかけてきました。あの少年を、地下通路の底で、流し込んだ鉄もろとも『生きたまま鋳造』して拘束してきたのです」
その言葉が議場に落とされた瞬間、十二人の参議たちの空気が、完全に凍りついた。
四十トンの鉄の雨。人間が作り出し得る最大の熱量と質量をもって、異能の化け物を物理的に圧殺し、封じ込める。そのあまりにも泥臭く、しかし徹底的に合理的な罠の全貌に、貴族たちは言葉を失い、ただ互いに顔を見合わせることしかできなかった。
「……しかし、あの化け物はあれでも死んではいないでしょう」
ガロアは、驚愕に目を見張る貴族たちを見据えたまま、淡々と事実を積み重ねていく。
「冷え固まった四十トンの鉄の塊など、あの少年にとっては、少し手狭な棺桶に過ぎない。自らの内側から放つ熱量によって、鉄を再び融解させ、空洞を穿ち、いずれ必ず泥の中から這い出てくる。……私が第六鉄塞のすべての構造物と、すべての炭を使い果たして手に入れたのは、敵の足止めという『三十時間の猶予』のみです」
ガロアは振り返り、議場の壁に掛けられた巨大なアウストラ王国の全図へと歩み寄った。
そして、その中央に位置する王都オーガストの紋章を、鉄の手袋の指先で強く叩いた。
「我が軍の強行軍による経過時間、および奴の鉄からの脱出速度を逆算すると、残された時間はあと二十六時間。それが、あの少年がこの王都の門を叩くまでの猶予です。……軍務卿殿。この王都を囲む石造りの三重の城壁は、第六鉄塞の鋼鉄よりも遥かに熱伝導率が低く、かつ融点も低い。奴が手を振れば、十分と持たずに壁はガラス化して崩落し、街は一瞬で火の海と化すでしょう」
「な、ならば、どうしろと言うのだ! ゼノアに降伏しろとでも言うのか! この国を明け渡せと!」
内務卿の老侯爵が、金切り声を上げて椅子から立ち上がった。その老いた身体は、死の恐怖によって小刻みに震えていた。
「魔法の熱量を相殺できるのは、同等の物理的な『冷却』のみ」
ガロアはゆっくりと円卓へと向き直り、その黄金色の瞳に、狂気と計算が完全に融合した、恐るべき光を宿らせた。
「幸いなことに、この王都オーガストには、数百年にわたって整備されてきた、北方の大河から引き込まれた無尽蔵の『水路網』がある。この水を、兵器として利用します」
ガロアは地図の王都の周辺、細かく張り巡らされた水路の線を指でなぞった。
「あの少年を、王都の『下層区画』へと意図的に誘い込みます。奴が下層の入り口、最も標高の低い中央広場に足を向けた瞬間に、上流にある三つの巨大な水門をすべて同時に爆破する。王都を巡る数百万トンの全水量を、傾斜を利用して一気に下層区画へと雪剥げ込ませるのです」
「……っ!?」
議場にいた全員が、その作戦の持つ「意味」に気づき、肺の空気をすべて吐き出すように絶句した。
「奴の放つ数千度の熱線と、数百万トンの冷水が狭い区画内で激突すれば、何が起こるか。……大気中の水分が爆発的に膨張し、超巨大な『水蒸気爆発』が発生する。その凄まじい圧力の衝撃波と、直後に押し寄せる圧倒的な質量の冷却によって、奴の体温を奪い、呼吸を奪い、その異能の魔力を完全に枯渇させる。これが、私が導き出した唯一の『勝率のある算術』です」
「狂っている……! 貴様、正気か!?」
軍務卿が、机を両手で激しく叩きつけ、身を乗り出して叫んだ。その顔は怒りと、それ以上の恐怖で土気色に変色している。
「王都の下層区画には、十万人以上の平民が暮らしているのだぞ! その大半が、家財道具を積んで逃げる暇もなく、濁流に呑まれるか、あるいは沸騰した水蒸気によって生きたまま肉を茹で上がらせて死ぬことになる! さらに、水門を完全に破壊すれば、我が国の経済の要である流通水路は完全に死滅し、戦後、王国は機能不全に陥る! 自らの手で、この歴史ある美しい王都の半分を地獄に変えるというのか!」
「市民の命と財産、経済の損失。あるいは、王国の完全な滅亡。……天秤にかけるまでもありません」
ガロアの冷酷な宣告が、広い議場に、凍りついた鉄の楔のように重く落ちた。
「あの少年をここで殺さなければ、明日には下層の十万人どころか、この部屋にいる皆様、そして上層の貴族街を含めた二十万人の市民全員が、骨も残らず焼き尽くされて灰になる。美しい街並みも、豊かな経済も、生存という土台が失われれば、ただの無価値な数字に過ぎない。……私の計算に、感情や倫理が介入する余地は一平方ミリメートルも存在しないのです」
ガロアは一歩も引かず、顔を引きつらせ、呼吸を乱す国家の最高権力者たちを、まるで盤上に並んだ、使い捨てるべき駒を見るかのような目で見下ろした。
「二十六時間後。王都を巨大な『不条理殺しの罠』に変えるための、すべての軍権と、水門統括の権限を私にいただきたい。拒絶されるのであれば、私は今すぐ残存兵を引き連れてこの街を出ます。皆様は、その誇り高き精神力とやらで、数千度の熱線を受け止めるといい」
倫理も、誇りも、美しさも、すべてを「人類の生存」というただ一つの目的のために冷徹に切り捨てる。
その究極の、泥臭い決断の重さが、王都の天秤を今、決定的に傾けようとしていた。
貴族たちは、誰も声を上げることができなかった。ガロアの提示した数字と、目の前で怪しく光る融けた鉄の塊が、彼らの安全な未来を完全に粉砕していたからだ。




