第1話
荒野を覆う夜霧は、血と硝煙の臭いを孕んでどこまでも重く立ち込めていた。
アウストラ王国の北東部、かつて「不落」と謳われた第六鉄塞が地平線の彼方に没してから、すでに四徹が経過している。
ガロアが率いる残存兵、そして要塞から連れ出した三百人の鍛冶職人たちで構成された撤退列は、生きながら皮膚を焼かれたような凄惨な行軍を続けていた。
「歩け。足を止めるな。立ち止まれば、その瞬間に体内の熱が逃げて二度と動けなくなるぞ」
ガロアの声は、すでに幾度も大気を震わせたせいで、割れたガラスを擦り合わせるように枯れ果てていた。
彼の鎧の表面は、エリアスの放った純白の熱線による放射熱で、黒く不気味な気泡を立てて変形している。
右肩の当革は熱で肉に張り付き、一歩歩くたびに、乾きかけた傷口が引き裂かれるような激痛が走った。
だが、ガロアはその痛みを、ただの「肉体が発する物理的な電気信号」として脳の隅へと押しやり、一歩一歩、泥濘に足を踏み入れ続けた。
背後に続く兵たちの有様は、軍隊と呼ぶにはあまりにも無残だった。
弓兵たちの多くは、弦を引き絞り続けた指の皮が完全に剥がれ、化膿した手をボロ切れで包んでいる。
重装歩兵たちは、自らの命を守るはずだった自慢の鉄盾を、あの「鉄が融ける光景」を見た恐怖から、まるで呪いでもかけられたかのように道中へ放り出してしまっていた。
人間が何百年もかけて積み上げてきた「鉄への信頼」が、僅か一人の少年によって根底から覆されたのだ。
彼らの心を支配しているのは、肉体的な疲労ではない。
どれだけ強固な壁を作ろうとも、一瞬でそれを液体に変えてしまう「超常の力」に対する、根源的な無力感だった。
「隊長……、ルカの容体が、また悪化しています」
息を切らせて駆け寄ってきた伝令の兵が、怯えを含んだ声で告げた。
列の中ほど、二頭の痩せ細った軍馬が引く荷馬車の上に、副官のルカは横たわっていた。
ガロアが歩みを緩め、馬車の荷台を覗き込むと、ルカの顔は再びあの異常な赤紫色の熱に支配され、激しく身震いを繰り返していた。
第六鉄塞の地下で、人間の「生の粘り強さ」によって辛うじて抑え込まれていたゼノアの魔力毒が、不眠不休の強行軍による免疫の低下に乗じて、再び彼の肉体を内側から蝕み始めているのだ。
ルカの包帯で巻かれた左腕からは、腐った果実と鉄錆が混ざり合ったような、鼻を突く悪臭が漂っていた。
「……たい、ちょう……」
ルカの焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨い、やがてガロアの黒く焦げた胸当てに固定された。
「俺は、ここまで、ですか……。足手まといを、切り捨てる……それが、隊長の……『算術』、でしょう……」
ルカの唇から漏れる言葉は、自嘲と、そして一抹の覚悟に満ちていた。
軍人として、前線で動けなくなった者がどのような扱いを受けるか、彼は誰よりも理解している。特に、効率と数値を至上とするガロアの元であれば、自分はすでに「回収不能な損失」として荒野に置き去りにされるべき存在だ。
ガロアは歩みを止めず、馬車の木枠に手をかけたまま、ルカの乾いた額に触れた。
指先から伝わってくるのは、人間の平熱を遥かに逸脱した、沸騰寸前の熱さだ。
「ルカ。お前の肉体は回復が難しいほど衰弱している」
ガロアの声には、感傷の破片もなかった。
「だが、お前がこれまでに蓄積した『ゼノア軍の戦術データ』、そして弓兵五百人を動かした『指揮の経験値』は、王都にいる無能な将軍千人分よりも価値がある。ここでお前を死なせることは、王国にとって最大の投資対効果の喪失だ。……死にたければ、お前の脳内にあるすべての戦術を紙に書き出してからにしろ。それまでは、一秒でも長く心臓を動かせ」
ルカは、驚いたように微かに目を見張り、それから、痛みに耐えるように歪んだ笑みを浮かべた。
「……相変わらず、ひどい……物言いだ……」
「褒め言葉として受け取っておく。寝ていろ」
ガロアは手を離し、再び列の先頭へと歩を進めた。
冷酷な計算。しかし、その徹底した合理性だけが、この絶望的な敗残兵たちの群れに「自分たちはまだ価値があるから生かされている」という、奇妙な生きる拠り所を与えていた。
行軍が五日目の朝を迎えた頃、霧の向こうから、ついにその巨大な輪郭が姿を現した。
アウストラ王国の首都「オーガスト」。
それは、数百年の歴史を持つ石造りの三重の城壁に囲まれた、人口二十万を抱える巨大な大都市だった。
中央にそびえ立つ白亜の王宮「白鷺城」の尖塔が、朝陽を浴びて金色に輝いている。
城壁の周囲には広大な水路が巡らされ、豊かに流れる大河の恩恵を受けたその都市は、まるで地上の楽園のように美しく、そして、あまりにも「脆そう」に見えた。
「おい……見ろよ、王都だ……」
「助かった……俺たちは、生きて帰れたんだ……」
兵士たちの間から、嗚咽の混ざり合った安堵の声が漏れる。
しかし、ガロアの目には、その美しい王都の姿が、エリアスという怪物の前に晒された「巨大な薪」にしか見えなかった。
石造りの壁。それは確かに、従来の物理的な大砲や騎兵の突撃に対しては無類の堅牢さを誇るだろう。
だが、あの少年が指先をひと振りすれば、石は高熱でガラス状にガラス化し、自重で崩落する。
周囲を巡る豊かな水路は、一瞬で沸騰する熱湯の罠へと変わり、中にいる市民を閉じ込める障壁へと変わるだろう。
王都は、魔法という新しい不条理に対して、完全に無防備のまま「過去の栄光」の中に眠っていた。
要塞の放棄という「重罪」を犯した敗残兵たちを迎えたのは、歓声ではなく、冷徹なまでの軍事警察の視線だった。
王都の重厚な北門をくぐった瞬間、ガロアたちは、きらびやかな銀色の全身鎧に身を包んだ、中央軍の「近衛騎士団」によって包囲された。
前線の泥と血にまみれたガロアたちと、一度も実戦で汚れたことのない近衛兵たちの、鏡のように磨かれた甲冑。その対比は、この国の歪みをそのまま表しているようだった。
「第六鉄塞百人隊長、ガロア。およびバザン将軍」
近衛兵たちの間から、豪奢な毛皮の外套を羽織った若き騎士が進み出た。
彼の顔には、前線から逃げ延びてきた不浄の者たちに対する、隠しきれない不快感が刻まれていた。
「王命である。要塞を敵に明け渡し、無断で撤退を試みた罪、および軍規違反の疑いにより、これより両名を王宮の軍事最高評議会へと連行する。反論は許されん」
周囲の兵士たちが、一斉にざわめき立ち、腰の折れた剣に手をかけようとした。
自分たちの命を救ってくれた長官が、目の前で罪人として扱われることへの、当然の怒りだった。
だが、ガロアは静かに左手を上げて彼らを制した。
「構わない。元より、こちらから出向く手間が省けたというものだ」
ガロアは近衛騎士の顔をじっと見つめ、その瞳の奥にある「前線の現実を知らない傲慢さ」を正確に値踏みした。
「バザン将軍。ルカと職人たちを、すぐに中央救護院の最高層へ。あそこなら、地下からの湿気が少なく、魔力毒の揮発速度が抑えられる。職人たちには、王都のすべての鋳造所の『炉の配置図』を集めさせてください」
「わ、分かった……。ガロア、無理はするなよ。評議会の連中は、前線の現実を何も分かっていない」
バザン将軍が苦渋に満ちた表情で頷く。
ガロアは焦げた甲冑を響かせながら、近衛兵たちの誘導に従って、白亜の王宮へと続く長い石畳の階段を登り始めた。
背後を振り返ると、王都の市場では、何も知らない市民たちが、今日もいつも通りの平和な取引を行っているのが見えた。パンの焼ける匂い、子供たちの笑い声、家畜の鳴き声。
そのすべてが、あと数日のうちに、あの少年の「気まぐれな熱量」によって消し飛ばされるかもしれないという現実に、誰も気づいていない。
(四十トンの鉄で稼いだ時間は、残りおよそ三十時間。奴が鉄の墓標を融かし尽くし、ここまで進軍してくるまでの猶予だ)
ガロアは脳内の時計の針を、再び正確に進め始めた。
王宮の冷たい廊下を進む彼の足音は、まるで死神が刻む秒針のように、どこまでも冷酷に響いていた。




