第4話
地下通路は、地上の喧騒が嘘のように冷たく、しかし不気味な地鳴りによって常に振動していた。
頭上の岩盤が、エリアスの魔法の熱を吸って、みし、みし、と不吉な音を立てて軋んでいる。
階段を駆け下りてくる兵士たちの数は、城壁にいた五百人のうち、辛うじて三分の一に満たない。
誰もが甲冑を焼き焦がし、弓を放り出し、ただ迫り来る死の恐怖から逃れるためだけに、ガロアの背中を追って地下の深淵へと進んでいた。
「ガロア! 門が破られたというのは本当か!」
最下層の兵器廠へ辿り着いたガロアを、バザン将軍が出迎えた。
老将の顔は、地下の熱気とは異なる、冷たい絶望の汗で濡れていた。
その背後では、三百人の鍛冶職人たちが、限界まで炭を熾した溶鉱炉の前で、手斧や鉄梃を握りしめたまま硬直している。
「正面門は完全に消失しました。ですが、これで奴らは『一本のルート』を進むしかなくなりました」
ガロアは息を荒らげながら、床の岩盤に深く刻まれた排水路の溝へと歩み寄った。
溶鉱炉の底から溢れ出んばかりに溜まった、目も眩むような純白の鉄液。
その総量はおよそ四十トン。職人たちが王国のすべての炭を注ぎ込み、一昼夜かけて限界まで熱量を高めた、人間の技術が作り出し得る「最大の物理的熱量」だった。
その圧倒的な質量が、正面門からこの地下へと直通する、幅わずか3メートルの傾斜通路の真上に、薄い鉄板一枚を隔てて蓄えられている。
「奴らは我々を掃討するため、必ずこの地下通路へ踏み込んできます。周囲の壁は硬い岩盤だ。あの少年の魔法がどれほど理不尽だろうと、頭上から一斉に流れ落ちてくる四十トンの沸騰した金属を、横に避けるスペースはありません。正面から受け止めるしかない」
ガロアの目は、狂気に満ちていながらも、その視線はどこまでも細部を計測していた。
「問題は、流し込むタイミングです。早すぎれば通路の手前で防がれ、遅すぎれば我々が焼き殺される。……職人頭、鉄板を叩き切る準備を」
「いつでもいける、百人隊長」
老職人は、重さ5キログラムの巨大な大槌を肩に担ぎ、溶鉱炉の排出口を塞ぐ楔の前で不敵に笑った。
その手の震えは、恐怖ではなく、これから歴史に類を見ない「算術の罠」を引くという、職人としての異常な高揚によるものだった。
その時、地下通路の奥から、カツン、カツン、という、場違いなほど軽やかな足音が響いてきた。
通路を満たしていた白煙が、その影が近づくにつれて、一瞬で蒸発して消えていく。
現れたのは、あの薄い夜着を纏った少年、エリアスだった。
彼の身体には、五百人の弓兵が放った矢の傷どころか、泥の一粒すらついていない。
ただ、その黄金色の瞳だけが、暗闇の中でらんらんと発光し、不気味な光を放っていた。
「なんだ、こんな狭くて暗いところに集まって。……みんなで一緒に焼き殺してほしいの?」
エリアスは退屈そうに首を傾げると、右の掌をゆっくりとガロアたちに向けて掲げた。
その指先から放たれる熱量が、地下の空気を一瞬で200度、300度へと押し上げる。
近くにいた兵士の衣服が、火もつかないまま自然発火し、悲鳴が上がる。
ガロアは動かなかった。彼の脳内は、エリアスの歩幅、通路の傾斜角度、そして重力による液体の流動速度の計算だけで完全に占められていた。
少年が、一歩、踏み出す。
通路の中央、ガロアが床に刻んだ「一本の線」を、少年の足が越えた。
「今だッ!! 落とせーーーッ!!」
ガロアの割れんばかりの咆哮が、地下の空間を震わせた。
ドォンッ!!
職人頭の大槌が、完璧なタイミングで排出口の楔を打ち砕いた。
固定を失った鉄板が跳ね上がり、溶鉱炉の底で今か今かと解放を待っていた四十トンの、1500度に達する純白の鉄液が、一気の濁流となって解き放たれた。
ごうううううううううっ!!!
それは、滝だった。
地獄の底から湧き出たような、目も開けられないほどの光を放つ金属の波が、傾斜通路の幅いっぱいに広がりながら、エリアスの頭上へと猛烈な速度で流れ落ちていく。
「え……?」
エリアスの瞳に、初めて、明確な「恐怖」の色が走った。
いかに数千度の熱線を放つ魔導師であろうとも、上空から時速数十キロメートルで迫り来る、四十万キログラムに及ぶ「圧倒的な金属の質量」を、一瞬で無に帰すことはできない。
エリアスは本能的に両手を頭上へと突き出し、これまでのどれよりも巨大な、真紅の熱の盾を展開した。
衝突の瞬間、地下が完全に盲目となるほどの光に包まれた。
エリアスの放つ超高温の魔力と、人間が作り出した鉄の質量が、正面から激突したのだ。
流れてくる鉄液は、少年の魔法の盾に触れた瞬間からさらに沸騰し、周囲の岩壁を融かしながら四方へと爆散していく。
だが、鉄は水ではない。融けてなお、それは圧倒的な「重さ」を持つ金属だ。
どれだけ熱を加えようとも、その質量が消えてなくなるわけではない。
「あ……、あ、あああ……っ!」
エリアスの細い腕が、上空から圧し掛かる何十トンという鉄の重みに耐えかねて、みし、みし、と不気味な音を立ててたわみ始めた。
彼の足元の岩盤が、その凄まじい荷重によって限界を迎え、バリバリと蜘蛛の巣状にひび割れていく。
魔法という不条理の盾が、人間の用意した「純然たる物理の重量」によって、じわじわと、しかし確実に押し潰されていく。
「押し切れッ!! そのまま奴を圧殺しろ!!」
ガロアは熱風に顔を焼かれながらも、剣を突き出し、さらに叫んだ。
職人たちが次々と予備のレバーを引き、溶鉱炉の残りの鉄液が、第二波、第三波となって通路へと追加されていく。
逃げ場のない一本道で、少年の絶対的な火力は、自らが融かした鉄の海とその重量の中に、じわじわと埋もれていった。
赤い光が、四十トンの金属の底へと、窒息するように遮られていく。
ついに、少年の悲鳴さえも、鉄が流れる轟音の中に完全に掻き消された。
通路全体が、冷え固まり始めた黒黒とした鉄の塊によって完全に埋め尽くされ、動きを止めた。
そこには、かつて世界を恐怖に陥れた魔法使いの少年の姿は、どこにも残っていなかった。
ただ、冷えかけた鉄の表面が、時折、鈍い赤色を放ちながらパチパチと音を立てているだけだった。
「……やったのか?」
バザン将軍が、呆然と、その鉄の墓標を見つめながら呟いた。
ガロアは剣を鞘に収めると、冷え固まった鉄の塊へと歩み寄り、その表面にそっと触れた。
まだ火傷を負うほどの熱を持っていたが、そこに生命の鼓動はない。
「いえ、仕留めきれてはいないでしょう」
ガロアの声には、勝利の歓喜など微塵もなかった。
「あの化け物なら、この鉄の塊の内部から、自らの熱で再び空洞を穿ち、数時間後には這い出てくるはずです。……ですが、我々の『算術』は、奴から丸一日の時間を奪い取ることに成功しました」
ガロアは振り返り、生き残った兵士たち、そして職人たちを見据えた。
「第六鉄塞はこれより放棄する。奴がこの鉄の中から這い出てくる前に、全員で王都へと後退する。……この砦の全インフラを賭した戦いは、我々の『時間的勝利』だ」
魔法という不条理に対して、人間は知恵と質量で時間を稼ぐことができる。
その確固たる事実こそが、これからの長い戦争における、人類の唯一の反撃の足がかりとなる。
ガロアは、まだ熱を帯びた地下通路を背に、王国の心臓部へと続く撤退の道を一歩ずつ歩み始めた。
不条理な夜を打ち破るための、鉄と人間の本物の算術は、ここからさらに深化していく。




