第3話
ごう、と。荒野の地平線を揺らす地鳴りのような足音が、第六鉄塞の重厚な鉄の城壁を微かに震わせた。
地平線から押し寄せるゼノア帝国の本隊、その数およそ五千。
対するアウストラ王国の守備隊は、森から逃げ延びたガロアの残存兵を含めても、戦闘可能な者は千に満たない。数的な劣勢は五倍。物理的な戦力差だけで言えば、この堅牢な要塞に籠ることで十分に相殺できる計算だった。
だが、城壁の上から戦況を見下ろすガロアの目を引いたのは、その圧倒的な兵の数の暴力ではなかった。
軍勢の先頭、金属製の重い大盾を構えた重装歩兵の波の間に、点在する十数人の奇妙な集団。
身を守るための鎧も着けず、武器すら持たず、ただ薄汚れた灰色の外套を纏った、あの「魔法使い」たちだ。
彼らの指先が、不自然に明滅し始めている。
空間の歪みが、まるで真夏の陽炎のように彼らの周囲の景色をぐにゃりと歪めていくのを、ガロアの網膜は正確に捉えていた。
荒野の乾燥した土埃の向こうで、その不気味な光の密度は、秒単位で増している。
「隊長、敵の先衛、間合いに入ります! いつでもいけます!」
物見の兵が、乾いた喉から絞り出すような声を上げた。
その横顔は恐怖で引きつり、握りしめた伝令用の旗が小刻みに震えている。
城壁の狭間には、五百人の弓兵が隙間なく並び、鋼鉄の矢尻を番えた長弓の弦を限界まで引き絞っていた。
きりきり、きりきり、と木と麻縄が限界まで軋む音が、張り詰めた空気の中に不気味に響く。
兵士たちの指先は、弦の強烈な張力によって白く血の気が引き、ある者はすでに皮膚が裂けて細い血を滲ませていた。しかし、誰もその手を緩めることは許されない。
彼らの視線の先、荒野を駆ける灰色の外套たちが、一斉に足を止めて両手を天へと掲げた。
燃料もないはずの空間から、あの森の夜に見た真紅の火球が、急速に膨張し始める。
吹き付けてくる風が、一瞬にして肌を焦がさんばかりの熱気へと変貌した。衣服の繊維が熱に炙られ、乾いた臭いを放ち始める。
息を吸う。心臓が一つ、重く鼓動を刻む。ガロアは敵の腕の角度、光の膨張速度を凝視し、その脳内で「1秒」のカウントを正確に刻み続けた。
(今だ。)
ガロアは右手を静かに振り下ろした。
「放て」
短い号令とともに、五百条の黒い線が、空を覆う巨大な網となって解き放たれた。
放物線を描いて降り注ぐ、圧倒的な鉄の豪雨。
それは本来なら、いかなる軍勢の頭上をも無慈悲に穿ち、一瞬で肉の海へと変えるはずの、王国の誇る戦術的質量だった。
だが、敵の陣形に突き刺さる直前、物理の法則をあざ笑うかのような光景が起きた。
魔法使いの頭上に展開された、目に見えない「熱の壁」。
それに触れた瞬間、鋭い鋼鉄の矢尻がまたたく間に真っ赤に融け、形を失い、ただの無害な金属の雫となって荒野の地面に虚しく滴り落ちていったのだ。ジジ、という奇妙な消滅音だけが、数百回重なって響く。
「効かねえ! 矢が、届く前に融かされたぞ!」
「化け物め、鉄が通じないのか!」
弓兵たちの間に、悲鳴に近い動揺が走る。
自らが信じてきた武器が、相手に届くことすら許されずに液体に変えられる恐怖。それは人間の戦意を根底から腐らせる毒だった。
しかし、ガロアの瞳だけは、その絶望の光景の「裏側」にある歪みを、どこまでも冷徹に観察していた。
(融けたのは、先頭の数本だけだ。奴らの熱の盾は、全方位を完璧に覆っているわけではない。質量を完全に相殺しきれていない)
魔法使いが展開した熱の防壁は、確かに超常の力だった。
だが、同時に何十本もの物理的な質量を同じ座標に浴びせられたことで、その熱の維持が僅かに揺らぎ、火球の膨張が一瞬だけ止まったのをガロアは見逃さなかった。
何より、魔法使い自身は無傷だったが、彼らを護るように周囲を固めていた、金属の盾を持った一般のゼノア兵たちが、防ぎきれなかった矢の雨に身体を深く射抜かれ、次々と荒野の泥の中に転がっていった。
守るべき壁を失った魔法使いの顔に、明らかな狼狽が浮かぶ。
集中が途切れたのか、両手に集められていた赤い光が、一瞬だけ細く、弱くなった。
「第二陣、構え」
ガロアの声は、驚くほど平坦だった。
周囲の兵たちの混乱に一切同調することなく、ただ敵の「次の行動までの隙」の時間を測り続けている。
その冷徹な声が、パニックに陥りかけていた弓兵たちの理性を、辛うじて戦場に繋ぎ止めた。
「奴らの狙いは、この城壁の正面門だ。熱を再び集めるには、奴らの肉体にも肉体的な負荷がかかる。余計なものは見るな。盾の消えた、あの灰色の布切れだけを狙え」
引き絞られる、二度目の風切り音。
だが、敵の魔法使いも、ただの標的になるのを待つほど愚かではなかった。
迫り来る死線を感じ取ったのか、焦れた魔法使いの1人が、不完全な大きさのままの火球を、砦に向けて狂ったように突き出した。
放たれた巨大な火の塊が、尾を引いて大気を引き裂き、第六鉄塞の正面へと飛来する。
すさまじい爆音とともに、高さ12メートルの鉄の城壁が大きく揺れた。
直撃を受けた箇所の硬鉄の板が、まるで熱したナイフを押し当てられたバターのようにぐにゃりと歪み、真っ赤に沸騰した液体となって壁面をドロドロと流れ落ちていく。
鉄が焼ける凄まじい白煙が立ち上り、一瞬にして周囲の視界を真っ白に染め上げた。衣服が焦げる異様な臭いと、肉を焼くような熱波が城壁の上を吹き抜ける。
「ひっ……、うわああ! 目が、目が開けられねえ!」
間近でその熱波を正面から浴びた弓兵が、顔を押さえて地面に転がり、無様に悲鳴を上げた。
彼の皮膚は水ぶくれを飛び越えて赤黒くただれ、手にした弓からは白煙が上がっている。
周囲の兵たちが一歩、また一歩と後退し始める。
だが、ガロアはその逃げ出そうとした兵の胸当てを容赦なく掴み、元の位置へと力任せに押し戻した。その鉄の手袋が、兵士の胸骨を軋ませる。
「怯むな。壁の厚さは4メートルある。今の一撃で削られたのは、僅か数センチメートルだ。奴らは一発放ち、次の光を集めるために、また動きを止めた。――今だ、放て!」
視界を覆う白煙を突き破り、放たれた第二陣の矢が、遮るもののなくなった荒野を鋭く切り裂いた。
今度は、熱の壁は現れなかった。
先ほど火球を放ち、完全に無防備となっていた灰色の外套を、無数の黒い鉄の牙が深々と貫いていく。
「が、あ……ッ」
魔法使いの1人が、喉笛を正確に射抜かれ、短い悲鳴を上げて地面に倒れ伏した。
彼が死んだ瞬間、その手から零れ落ちた、制御を失った未完成の火球が、地面の泥を爆発的に沸騰させ、皮肉にも身内のゼノア兵たちを十数人巻き込んで激しく爆ぜた。
さらに、ガロアの徹底した時間差射撃の矢の雨は容赦なく続き、動きを止めていた別の魔法使いの胸や腹を、次々と無慈悲に穿っていく。
「やった……! 仕留めたぞ! 化け物どもが倒れた!」
「ただの人間だ! 奴らも矢が刺されば死ぬぞ!」
城壁の上に、にわかに熱狂的な活気が戻る。
確実な死を運ぶ絶対的な存在だと思われていた「魔法使い」たちが、適切なタイミングで、適切な量の鉄を叩き込めば、ただの脆い肉塊に過ぎない。その事実を、兵たちは自らの手で証明したのだ。
次々と放たれる長弓の雨が、突出してきた敵の混成部隊を確実に削ぎ落としていく。
数による制圧。隙を突く連続攻撃。
ガロアが頭の中で組み立てた、物理の法則に則った泥臭い人間の戦術が、ゼノアの誇る異能の軍勢を、確実に荒野の泥の中へと押し留め、壊滅させつつあった。
敵の前衛は完全に崩壊し、無数の死体と、融けた防具の残骸が荒野に累々と晒されている。
勝てる。このまま矢を繋ぎ、溶鉱炉の準備が整うまで持ちこたえれば、この世界最強の鉄塞は守りきれる。
誰もがそう確信し、次なる矢を番えようとした、その時だった。
そのささやかな勝利の予感は、地平線の彼方から現れた「一筋の光」によって、一瞬で、完全に吹き飛ばされることになる。
ゼノア軍の後方、整然と並んでいた五千の兵列が、まるでモーセの海割りのように、左右へと綺麗に割れていった。
その開かれた中央の道を、馬にも乗らず、護衛も連れず、ただゆっくりと歩いてくる影があった。
小柄な体躯。風に揺れる頼りない、まだ幼さの残る髪。
その少年が、数千の死体と血の海が広がる戦場の真ん中で、退屈そうに小さく、ふう、と息を吐きながら、第六鉄塞を見上げた。
ガロアの全身の毛が、一気に逆立った。
皮膚の奥の細胞が、最大の警報を鳴らしている。
左手の火傷の痕が、あの平原の地獄を思い出して、肉が千切れるかと思うほどに激しく、熱く疼き出した。
「……エリアス」
ガロアの唇から、乾いた掠れ声が漏れた。
少年は、砦の城壁の上に並ぶ五百人の弓兵たちを見つめ、それから、まるでおもちゃの兵隊を眺めるかのような、酷く冷淡な、黄金色の瞳を向けた。
彼には、これまでの魔法使いが見せていたような、1秒の詠唱も、魔力の揺らぎも、精神を集中させるための構えすらも存在しなかった。
ただの世界の理そのものを、己の意思一つで書き換えるような、絶対的な不条理の顕現。
少年が、ただ、右の掌をこちらへ向けた。
その瞬間、彼と砦を結ぶ直線上の空気が、激しい熱量によって一瞬でガラスのようにひび割れた。
ジ、という短い音が響いたかと思うと、次の瞬間には、目も開けられないほどの純白の閃光が、世界を完全に包み込んでいた。
太陽が地上に落ちてきた。
城壁の上の兵士たちがそう錯覚するほどの、圧倒的な光と熱。
ガロアが「伏せろ!」と叫ぶ時間すら、世界の速度は許さなかった。
少年の指先から放たれたのは、火球などという生易しいものではなかった。それは、太さ数メートルに及ぶ、純粋な「熱線の奔流」だった。
光の波が、第六鉄塞の正面門へとまっすぐに衝突する。
音はなかった。あまりの超高温が、衝突の瞬間に周囲の大気と水分を完全に消滅させたため、音を伝えるための媒体すら失われていたのだ。
ただ、視覚だけが、その世の終わりを告げていた。
高さ12メートル、厚さ4メートルの、王国の技術の結晶であった硬鉄の正面門が。
少年が手をかざした、僅か1秒、あるいは2秒の間で。
中心から真っ赤に、そして瞬時に白濁した液体へと変化し、自らの重さに耐えかねて、ドロドロと、滝のように地面へと融け落ちていったのだ。
城壁の土台となっていた巨大な岩盤すらも、その熱に耐えかねてガラス状に融解し、不気味な地鳴りを立てて崩落し始める。
「ああ……、あああ……」
弓兵の1人が、手にした弓が手元から自然発火するのも気づかず、ただその光景を見て、魂を抜かれたようにへたり込んだ。
鉄が融ける。要塞が融ける。自分たちが命を懸けて守ってきた世界のすべてが、あの少年の気まぐれな一振りで、文字通り「形を失っていく」のだ。
五百人の弓兵による戦術も、鉄の絶対的な硬度も、すべてが少年の前では、ただの燃えやすい紙切れと同義だった。
ガロアは、融解していく正面門から立ち上る、地獄のような熱風の中に立ち尽くしていた。
その鎧の表面は、放射熱だけで黒く焼け焦げ、額からは血のような汗が次々と流れ落ちる。
しかし、彼の黄金色の瞳だけは、その圧倒的な絶望の光の中にあっても、まだ死んではいなかった。
(正面門の融解速度、秒間およそ50センチメートル。……想定の範囲内だ。化け物め、お前のその火力を、この砦の底でおびき寄せて殺してやる)
ガロアは、じりじりと焼ける皮膚の痛みを限界まで無視し、背後の狼狽する幕僚たちに向かって、裂けんばかりの声で叫んだ。
「全軍、城壁を捨てろ! 第一防衛線を放棄する! 地下の、溶鉱炉へと撤退せよ!」
不条理な神の再臨。
第六鉄塞の絶対防衛神話が崩壊する中で、ガロアの最も冷酷で、最も緻密な「後退の算術」が、今、最悪の幕を開けようとしていた。




