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鉄は不条理に融ける  作者: てらてら
王都の天秤
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第5話

視界のすべてが、沸騰した白一色の闇に塗りつぶされていた。

数百万トンの冷水と、数千度の熱線が正面から衝突したことによって発生した超巨大水蒸気爆発は、下層街の中央広場を、息をすることすら躊躇われるほどの高温の蒸気地獄へと変え果てていた。


大気は限界まで飽和し、一呼吸吸い込むごとに、細気管支の粘膜が熱湯で直に焼かれるような激痛が走る。

周囲を囲んでいた石造りの商店の壁は、急激な大気膨張の圧力に耐えかねて内側から爆散し、その破片が泥水の中へとバラバラと音を立てて降り注いでいた。


ガロアは、膝まで迫った濁流の中に両足を踏み締め、かろうじて直立していた。

彼の纏う鉄の甲冑は、爆発の衝撃波によってあちこちの留め金が弾け飛び、隙間から侵入した過熱水蒸気によって、内側の衣服は皮膚ごと完全に焼きただれていた。


一歩歩くたびに、熱で融けて肉に張り付いた繊維がベりべりと剥がれ、脳を狂わせるほどの痛みの電気信号が全身を駆け巡る。


だが、ガロアの顔面には、苦悶の色など微塵も浮かんでいなかった。

彼の黄金色の瞳は、白い霧の奥、広場の中心座標から動こうとせず、その脳内は依然として冷徹な「算術」の処理だけで占められている。


ガロアは、刃の半ばまで熱で赤黒く変形し、ねじくれた長剣を右手で固く握り直した。

指の皮膚は火傷で水膨れとなり、剣の柄にへばりついていたが、感覚の失われた腕をただの「肉のレバー」として機能させ、彼は白い闇の中を一歩ずつ進んだ。


ジャブ、ジャブ、と、泥水を踏む音だけが、静まり返った広場に響く。


あれほど下層街を焼き尽くしていた炎は、数百万トンの水の質量によって完全に窒息させられ、今はただ、黒い煙と白い蒸気だけが世界のすべてを覆っていた。


「……ゲホッ、あ……ゲホッ、ゲホッ……!」


霧の向こうから、ひどく小さく、そして脆い、子供の拒絶反応のような激しい咳き込みが聞こえてきた。

ガロアが蒸気の壁をかき分けるようにして進むと、そこには、かつて世界を恐怖に陥れた「不条理の神」の姿は、影も形も残っていなかった。


広場の中央、粉々に砕け散った石畳の窪みの中で、エリアスは泥水に両手をつき、這いつくばっていた。

あの薄い夜着は、水蒸気爆発の圧力によってボロ布のように引き裂かれ、その隙間から覗く細い肢体は、冷水によって完全に冷やされ、紫色に激しく震えていた。


彼の自慢だった黄金色の瞳は、いまや周囲を包む圧倒的な白い闇への恐怖に泳ぎ、その口からは、熱線ではなく、ただの濁った泥水が激しく吐き出されていた。


「あ……、冷た……い、何、これ……。僕の、火が、出ない……」


エリアスは、信じられないというように自らの小さな両手を見つめた。

指先から魔力を放とうと、必死に手を突き出す。しかし、その指先からは、小さな火花すら立ち上らなかった。


数百万トンの水が奪い去ったのは、周囲の熱量だけではない。大気中の酸素を完全に遮断し、少年の体温を臨界点以下まで引き下げたことで、彼の体内の魔力回路はその物理的な駆動効率を完全に喪失し、凍りついていた。


絶対的な不条理の座から、ただの「窒息しかけた、飢えた子供」へと、人間の知恵と質量が、彼を引きずり下ろしたのだ。


カツン。


ガロアの、焦げた鉄の具足が石を踏む音が、エリアスの耳に届いた。

少年が怯えたように顔を上げると、そこには、全身から血と蒸気を立ち上らせ、歪んだ剣を下げた黒い巨躯が、見下ろすように立っていた。


「ひ……っ!」


エリアスの瞳に、初めて、明確な「死への恐怖」が浮かんだ。


これまでの戦いで、彼は数万の軍隊を焼き殺し、数々の英雄を灰にしてきた。しかし、彼自身が「誰かに殺されるかもしれない」という物理的な因果律に直面したのは、その短い生涯で、今この瞬間が初めてだった。


「来るな……っ! 来ないでよ、おじさん! 僕を、誰だと思ってるの……! 僕が本気を動かせば、こんな街、一瞬で……!」


エリアスは、泥水の中で無様に後退りしながら、声を荒らげた。その声は震え、涙が混ざり、ただの哀れな子供の命乞いにしか聞こえなかった。


ガロアは、その言葉を完全に無視した。

彼の視線は、少年の喉元、鎖骨の間の僅かな窪みだけに固定されていた。


「エリアス。お前という個体の存在は、アウストラ王国、ひいては人類を死に導く『絶対的なバグ』だ」


ガロアの声は、大理石のように冷たく、一切の抑揚がなかった。そこには、家を焼かれた住民たちの復讐心も、前線で死んでいった兵士たちへの弔いの感情すらも、塵一つほども含まれていなかった。


「お前がどれほどの不条理を抱えていようと、その肉体が物理的な物である以上、脳への酸素供給を断てば、その全機能は停止する。……これが、私の導き出した最終的な算術の結末だ」


「嫌だ……、嫌だ、嫌だッ! 助けて、お母さ――」


エリアスが絶叫し、泥水を跳ね上げて逃げ出そうとした、その瞬間。

ガロアの腕が、機械的な速度で一閃された。


歪んだ長剣の刃が、白い霧を切り裂き、少年の細い首筋へと、まっすぐに突き立てられた。

極限まで熱せられ、鋭利さを失っていたはずの鉄の刃だったが、ガロアの全体重をかけた物理的な質量と推進力の前には、子供の柔らかい皮膚など、紙細工ほどの抵抗にもならなかった。


グズリ、という、肉と軟骨が潰れる鈍い手応えが、ガロアの右腕に伝わる。


「あ……、――」


エリアスの黄金色の瞳が、大きく見開かれた。

その喉から漏れたのは、言葉にならぬ、ただの大気の漏れる音だけだった。


少年の首から、真紅の鮮血が、冷たい泥水の中へとドクドクと溢れ出し、白い蒸気の海を赤く染めていく。

彼は何度か、空を掴むように小さな両手を虚空へと伸ばしたが、やがてその指先から力が抜け、ピクリと一度だけ震えた後、水底へと静かに沈んでいった。


世界を震撼させた魔導師の少年は、ただの「質量」によって、その不条理の歴史に幕を閉じた。

ガロアは剣を引き抜くと、泥水の中に横たわる、動かなくなった少年の死体を一瞥した。


その瞳には、勝利の歓喜も、安堵の光もない。ただ、予定された計算が、予定通りの数値で完了したという、無機質な確認だけがあった。


「……終わった、のか」


白い霧の向こうから、腰まで泥水に浸かりながら、バザン将軍と数人の兵士たちが這うようにして姿を現した。

彼らの顔は、爆発の煤で真っ黒に汚れ、誰もが戦慄の表情で、ガロアの足元に沈む「怪物」の死体を見つめていた。


「ああ。目標の完全な機能停止を確認した」


ガロアは、ねじ曲がった剣を無造作に泥水へと投げ捨てた。

霧が、王都に吹き込む風によって、徐々に薄れていく。


それと共に、ガロアたちの目に飛び込んできたのは、勝利の喜びとは程遠い、徹底的に破壊し尽くされた王都下層街の惨状だった。


三つの水門から放たれた数百万トンの水は、下層の建物の大半を押し流し、広大な湖のようになっていた。


浮き上がった家財道具、崩壊した柱、そして――避難が間に合わず、濁流に呑まれた、あるいは水蒸気爆発の圧力によって命を落とした、数千人におよぶ平民たちの遺体が、あちこちの水面に物言わぬ影となって浮かんでいた。


遠くの上層街の城壁からは、生き残った四割の住民や貴族たちが、この凄惨な光景を呆然と見下ろしているのが見えた。


彼らの目に映っているのは、国を救った英雄の姿ではない。

たった一人の敵を殺すために、自らの街の半分を平気で水底に沈め、数千の同胞を犠牲にした、黒い甲冑を纏った「怪物」への、底知れない恐怖と憎悪の視線だった。


「ガロア……。お前は国を救った。だが……この代償は、あまりにも……」


バザン将軍が、声をつまらせながら周囲の死体の山を見つめた。


「代償を恐れて数を数えるのをやめた者は、その時点で敗北します」


ガロアは、ただただ平然と言い放ち、水浸しの石畳を、一歩ずつ歩き始めた。


「エリアスという一個のイレギュラーは排除しました。しかし、ゼノア帝国の本隊は、未だ北方に健在です。奴らはこの王都の混乱を突き、まもなく第二波の進軍を開始するでしょう。……休んでいる時間はありません」


ガロアの黄金色の瞳は、すでに目の前の凄惨な戦場を見ていなかった。


彼の脳内では、水浸しになった王都の残存物資、生き残った兵力、そして次なるゼノア軍の進軍速度を掛け合わせた、新たなる「生存の数式」が、すでに冷酷に組み立てられ始めていた。


不条理な夜は明けた。しかし、人間たちの血にまみれた算術の戦争は、ここからさらにその深度を増していく。

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