5 最初の巫女
人を集める支度が始まった頃、俺は誰もいない水場で、エナから受け取っていた魔力を引き出した。
「開箱」
【奉納残高】1→0
《奉納魔力を受領しました》
胸へ流れ込む熱を確かめ、礼拝堂へ戻る。
エナは長椅子の端に座っていた。
椀は空だった。
パンも、今度はきちんと食べたらしい。
「神官と話をつけた」
隣へ腰を下ろすと、少女は膝の上で両手を握った。
「お前には、ここで暮らしてもらう。俺に仕える巫女としてだ」
「……わたしが、ですか?」
「嫌か」
エナは首を横に振った。
すぐに、今度は小さく俯く。
「でも、わたし、そんなこと……できません」
「何をするか、まだ教えていないだろう」
少女が顔を上げた。
「人の話を聞く。それから、聞いた言葉を俺に向けて祈る。俺から返事があれば、相手に伝える。それが最初の仕事だ」
「神様が、いないところでも?」
「姿が見えなくてもだ」
俺は少女を見たまま答えた。
まだできないことを、できる顔で話す。
慣れた仕事だった。
「上手い言葉に直す必要はない。聞いたまま、俺へ届けたいと思えばいい。声に出さなくてもいい」
エナは唇を少し動かした。
今言われたことを、覚えようとしているらしい。
もちろん、何も聞こえない。
今は、まだ。
「分からなければ、聞き直せ。勝手に答えを作るな。できないことまで引き受けなくていい」
言いながら、自分の仕事のほとんどを禁止していることに気づいた。
「最初に来る人への返事だけは、今、お前に預けておく」
エナが俺を見た。
「『灯りも、青い皿も、そのままにしておけ』。祈り終わったら、そう伝えろ」
「青い、お皿……ですか?」
「相手には分かる。覚えられるか」
少女は小さな声で繰り返した。
まだ聞いていない願いへの返事を、神が先に託す。
エナは、そう受け取ったらしい。それ以上は尋ねなかった。
「ここに、いてもいいんですか」
「ああ。飯も出る。部屋も用意させた」
「神官様も、いいって?」
「そういう約束だ」
少女の指が、膝の上で少しだけほどけた。
扉の外では、椅子を運ぶ音がしていた。
俺は立ち上がり、枝を手に取った。
「腹が減っているなら、先に言え」
「大丈夫です」
「なら、行くぞ」
◇
神殿の前には、小さな広場があった。
道を挟んだ向こう側に、石造りの物置がある。
入口には厚い木の扉があり、閉めれば中は見えない。
最初の実演には、そこを使うことにした。
神官が顔を出し、村人を並ばせる。
足の悪い老人は、入口に近い椅子へ座らされた。
三人の少年もいる。
そして、エナの腕をつかんでいた男が、前の方に立っていた。
男がこちらを向くと、エナは俺の背後へ半歩下がった。
俺は何も言わず、少女の前へ枝をついた。
「皆さんに、お知らせがあります」
神官の声に、話し声が収まった。
「森の古い祠に、神がお戻りになりました」
何人かが俺を見た。
顔より、焼けた服と、杖代わりの枝を眺める目だった。
身なりだけで信じさせるには、少しばかり威厳が足りない。
「長く忘れられていた神へ、祈りを捧げ続けた者がいます」
神官がエナへ手を向けた。
「この娘です。神はエナの祈りに応え、お姿を現されました」
「こいつが?」
男が声を上げた。
「今日よりエナは、神に仕える最初の巫女となります。暮らしは、この神殿が引き受けます」
神官は、男から目を逸らさずに続けた。
「今後、エナに用がある者は、この神殿を通してください。勝手に連れ出したり、手を上げたりすることは認めません」
「神官様。本気ですか」
「もちろんです」
「巫女なんて、まともに魔法も使えない奴が」
「その話をしに集まってもらった」
俺が口を挟むと、男の視線が移った。
「エナに願いを話せ。俺には聞こえない場所でな。俺は、受け取った言葉を言い当てる。返事も、エナを通して返そう」
広場が静かになった。
男が、道の向こうの物置を見る。
「あの中で話したことが、聞こえるってのか?」
「お前の声は聞こえない。エナが俺へ祈りを届ける」
俺は傍らの少女へ目を向けた。
「そのための巫女だ」
エナは背筋を伸ばそうとした。
まだ、肩は小さく震えていた。
「私が、よろしいでしょうか」
前へ出てきたのは、細い肩に茶色の布を巻いた女だった。
粉屋の未亡人。
神官が、予定通りの相手を連れてきた。
「今朝、お話ししていた願いを」
神官が穏やかに促す。
「いつものように、エナへ伝えてごらんなさい」
女は不安そうに、少女を見下ろした。
「本当に、神様へ伝えてくれるの?」
エナは一度、俺を振り返った。
俺が頷くと、小さな声で答えた。
「……はい。聞かせてください」
二人が道を渡り、物置へ入る。
俺は神殿の石段に立ったまま、それを見送った。
神官は隣にいる。
村人たちは、俺と閉じた扉を交互に見ていた。
耳を澄ませてみる。
聞こえるのは、村人の息遣いと、風に揺れる木の葉だけだった。
女の声も、エナの声も聞こえない。
まだか。
俺は枝を握り直した。
答えは知っている。
だが、女が願いを口にする前に答えてしまっては、エナの役目がなくなる。
十分に間を置いてから、俺は村人に聞こえる声で言った。
「灯りも、青い皿も、そのままにしておけ」
何人かが顔を見合わせた。
俺は説明せず、閉じた扉を見ていた。
しばらくして、物置の扉が開いた。
二人が外へ出てくる。
女は足早に戻ってきたが、俺の前で立ち止まった。
何を尋ねるべきか、迷っている顔だった。
「トマだな」
女の口が、開いたまま止まった。
「お前の息子の名前だ」
「……はい」
「二度と戻るなと言ったことを、取り消したい。帰りが遅くなっても、戸口の明かりは消さない。そう伝えたいんだろう」
女の両手が、胸元の布を握った。
俺は教えられた最後の言葉を口にした。
「青い皿も、割っていない」
女の肩が震えた。
息子が初めて自分で買ったという、安物の皿。
喧嘩をした時、こんなものは割って捨てると言ったらしい。
だが、今も棚の奥へしまってある。
その話を知っていたのは、相談を受けた神官だけだったはずだ。
女が、俺とエナの顔を交互に見た。
「灯りも、青い皿も、そのままにしておけって……」
さっき俺が言ったのと、一言も違わなかった。
「物置の中で、エナが。神様からのお返事だって」
「その言葉なら、こっちでも聞いたぞ」
村人の一人が口を挟んだ。
「お前たちが戻る前に、あの方が言っていた」
女は、エナが離れた場所で俺の返事を受け取ったと思っている。
その言葉を先に覚えていたことは、知らない。
「本当に、神様へ伝えてくれたんだね」
女の視線が、エナへ戻った。
少女は、戸惑いながら頷いた。
「わたし、言われた通りに、お祈りして……」
「ありがとう」
女が、少女の手を両手で包んだ。
エナの身体が一瞬だけ固くなる。
だが、その手は引っ張られなかった。
女は握ったまま、頭を下げていた。
【接続信徒】1→2
半透明の板が現れた。
《信仰者の認識から神性命題を確認》
【信仰命題】
《忘れられた神の最初の巫女は、離れていても人々の祈りを神へ届け、神の言葉を受け取る》
《神性命題の証明を確認》
《存在証明――成立》
【信仰命題】なし
【成立神話】
《忘れられた神の最初の巫女は、離れていても人々の祈りを神へ届け、神の言葉を受け取る》
《最初の巫女――エナ》
《祈願伝達を解放します》
《神託受領を解放します》
文字を読み終えた時、エナが胸元へ手を当てた。
何かに触れたような仕草だった。
俺にも、胸の内側から一本の細い糸が伸びたような感覚があった。
その先が、女に手を握られている少女へ繋がっている。
火を出した時とは、違う。
俺一人に、新しい力が増えたわけではない。
俺に成立した神話が、エナにも役目に応じた力を与えた。
俺へ祈りを届け、俺の言葉を受け取る。
飾りとして用意した巫女の肩書きが、本物になった。
「ちょっと待てよ」
男の声が、広場に響いた。
「そいつの息子が帰ってこないのは、みんな知ってる。神官様だって、さっき話を聞いたって言っただろ」
女が顔を上げた。
「でも、青い皿のことは――」
「だから、それも先に聞いてたんじゃねえのか?」
神官の笑顔が、わずかに固くなった。
俺は男を見た。
正解だ。
惜しいことに、少しだけ遅かった。
「なら、お前が試せ」
俺が言うと、神官の視線がこちらへ向いた。
「俺が?」
「今まで誰にも話していないことを、今から決めろ。場所もお前が選べばいい」
男は黙った。
神官が口を開きかけたが、俺は先に続けた。
「こいつは俺の隣に残る。心配なら、二人まとめて見張っていろ」
神官が、唇を閉じた。
表情だけは、何も変えなかった。
たいしたものだった。
男は周囲の顔を見回した。
もう、試さずに引き下がることはできない。
「……来い」
エナへ手が伸びた。
「腕をつかむな」
俺が言うと、男の手が止まる。
「歩ける。場所を教えろ」
男は手を下ろした。
「俺の家の裏だ。あそこなら、声なんか届かねえ」
「エナ」
少女が俺を見る。
「さっきと同じだ。聞いたことを、そのまま祈れ」
エナは胸元を押さえたまま、頷いた。
男が歩き出す。
少女は、その後ろへ続いた。
二人の姿が家の角へ消えると、神官が声を落とした。
「何を聞かれるか、お分かりなのですか」
「分からない」
「では――」
「客の前だ。笑っていろ」
神官は口を閉じた。
村人が一人、俺たちの真横へ回り込んだ。
別の男は、家の角が見える場所に立っている。
目配せも、手振りも、隠れて走る人間も見逃すまいとしているらしい。
俺は枝へ体重を預けた。
何も聞こえなかった。
繋がった感覚はある。
板の文字も、読んだ。
だからといって、本当に使えることを確かめたわけではない。
背中の傷へ、汗が染みた。
俺は顔を上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。
誰かが咳をした。
隣で、神官の指が擦れる音がする。
その中へ、不意に小さな声が混じった。
『神様』
俺は顔を動かさなかった。
耳から聞こえたのではない。
どちらを向けばいいのかも分からない。
それでも、エナの声だと分かった。
胸に残っていた奉納魔力が、細い糸を伝うように動いた。
炎を灯す時よりも、減り方はずっと遅い。
『えっと……黒い犬が、井戸の底に三匹いて……パンを焼いている、って』
何だ、それは。
『あ、違うそうです。五匹です。今、五匹に変えました』
危うく笑いそうになった。
届いているのは、エナが俺へ伝えようとした言葉だけだ。
男の声も、その場の物音も混じっていない。
俺は声に出さず、糸の先にいる少女を意識した。
『五匹だな。届いた。戻ってこい』
ただ頭の中で呟くのではなく、エナへ届けるつもりで言葉を送る。
『……神様? 今、声が……』
戸惑う声が返ってきた。
送り返す方も、仕込みなしで通じたらしい。
神官が、俺の顔を見ている。
俺は家の角へ目を向けた。
まだ、二人は戻ってこない。
「井戸の底に、黒い犬が五匹」
村人たちが顔を上げた。
「そいつらがパンを焼いているそうだ。最初は三匹だったが、途中で二匹増えた」
「……何のお話ですか?」
神官が尋ねる。
「俺もそう思っている」
俺は横で見張っていた男へ顔を向けた。
「覚えておけ。あとで言い換えたと言われても困る」
男は頷いた。
やがて、二人が家の角から現れた。
エナは小走りになりかけたが、隣の男を見て、また歩幅を縮めた。
男は俺の前で足を止めた。
「どうだ。今度は分からねえだろ」
「黒い犬が五匹」
俺が答えるより先に、見張りの男が口にした。
「井戸の底でパンを焼いている。最初は三匹だったんだってな」
男の顔から、得意そうな表情が消えた。
「……誰が言った」
「あの人だ。お前らが戻る前に」
男はエナを見た。
少女は何も言わず、俺を見上げていた。
「声に出したのか?」
「出して、ません」
それは、隣にいた男が一番よく知っているはずだった。
男は神官を見る。
「私は、ずっとここにいましたよ」
神官が答える。
今夜、一番疑われるべき男が、一番確かな事実を口にしていた。
「俺は、この娘にしか……」
「だから、その娘が届けたんだ」
俺は言った。
「巫女だと、最初に説明しただろう」
男の口が、閉じた。
見張っていた村人が、胸の前で指を組んだ。
一人。
その後ろでも、もう一人。
【接続信徒】2→9
神官の言葉に従って並んだだけでは、増えなかった数字だ。
今度は、確かに増えていた。
奉納残高の数字も動き始める。
祈っているのは、もうエナ一人ではなかった。
俺はエナへ目を向けた。
少女は、両手を見つめていた。
「届いた」
俺が告げると、顔が上がった。
「途中で増えた犬までな」
「神様のお声も、聞こえました」
「なら、次からは返事も頼めるな」
エナの口元が、ほんの少し緩んだ。
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