4 神の弱点
「本物、ですか」
「ああ」
「子供たちに見せたという、火のことなら聞いています。ですが、火を出す魔法は珍しくありません」
「俺が売るのは、火だけじゃない」
俺は机の上で指を組んだ。
「人に、神の力を見せる。相手がそれを奇跡だと信じれば、俺は見せた通りの力を手に入れる」
神官の眉がわずかに動いた。
「最初に見せるものは、仕掛けで構わない。手品でも、芝居でもいい。神が起こしたことだと信じさせる」
「信じさせれば、仕掛けが必要なくなると?」
「そういうことだ」
神官は布のかかった管を見た。
目の前に神がいるかどうかより、その話がどこまで使えるのかを考えている顔だった。
「便利な力ですね」
「不便なところもある」
俺は少し間を置いた。
「奇跡を起こすには、信者の祈りが要る。祈ってもらっている間しか、その力は使えない」
「ずっと祈らせるのですか?」
「使う間はな。祈りから受け取った魔力を、貯めておくことはできない」
嘘だ。
貯めるための箱まで、最初から用意されている。
だが、そこまで親切に説明してやる義理はなかった。
「祈りが止まれば?」
「使えなくなる」
「なるほど」
神官が椅子の背へ、わずかに身体を預けた。
さっきまでより、肩の力が抜けている。
人を集めるのは、この男の仕事だ。
祈らせるのも、やめさせるのも、自分にできる。
そう考えたのなら、俺がここへ来た理由も納得できるだろう。
便利な力を持っているが、一人では使えない男。
神官の知っている商売に、ちょうど収まる大きさにしてやった。
「では、仕掛けが見破られた場合は?」
神官が尋ねた。
「一度手に入れた力は、あとから否定する証拠を出されても失われない」
「最初の奇跡が、偽物だったと知られても?」
「手に入れた能力は俺のものだ。使うための祈りは要るが、能力そのものが消えることはない」
二つ目の嘘だった。
反証された命題は失われる。
板には、はっきりとそう書かれていた。
単に誰かが疑うことと、その神話を否定する証拠を信者が受け入れることは違うだろう。どこで線が引かれるかは、まだ分からない。
だからこそ、調べる手がかりを同業者へ渡す必要はなかった。
弱点を一つも明かさない相手は、信用されにくい。
なら、一つ明かせばいい。
本物でなければならない理由はない。
「随分と、詳しくお話しになる」
「仕事を頼む相手だ。何ができるのかくらいは教える」
「私が、その娘へ話したら?」
「客に仕掛けを説明する趣味があるのか?」
俺が管を指すと、神官は初めて薄く笑った。
「商売になるのであれば、ありません」
「なら、まずはそこから確かめろ」
俺は椅子から立ち上がった。
傷んだ背中が、また痛んだ。
神らしく歩くのも、安い仕事ではない。
◇
エナは礼拝堂の長椅子で、湯気の立つ椀を両手に持っていた。
俺に気づくと、慌てて立ち上がろうとする。
「座っていろ。こぼすぞ」
「あの、いただいてます」
「見れば分かる」
椀の中には、刻んだ野菜と、少しだけ肉が入っていた。
少女の隣には、まだ手をつけていないパンもある。
「どうして食わない?」
「これは、神様に」
「俺の分は、あとで出させる。それはお前が食え」
エナが神官を見る。
神官は小さく頷いた。
俺の言葉より、まだそちらの許可を確かめる。
火を出せると分かったくらいで、染みついた習慣が変わるわけではないらしい。
俺はエナが椀を置くまで待った。
「一つ、頼みがある」
「はい」
「さっきと同じように、俺へ祈ってくれ。少しだけでいい」
エナは頷き、両手を胸の前で組んだ。
先ほど給仕をした女は、奥の炊事場へ戻っている。
礼拝堂にいるのは、俺たち三人だけだった。
小さな声が、天井の下に響く。
「神様。どうか、わたしをお守りください」
半透明の板に、文字が浮かんだ。
《信仰者からの奉納を確認》
【奉納残高】0→1
今、少女から受け取った魔力は、箱の中にある。
まだ開けてはいない。
俺は、身体に残っていた方の魔力を動かした。
掌に、爪ほどの小さな炎が灯る。
神官の視線が、その火へ向けられた。
「これが、祈りで起こす奇跡ですか」
「そうだ」
嘘ではない。
今の祈りを使っているとは、言っていない。
神官は俺の手を眺め、それからエナへ目を向けた。
「エナ。いったん、祈りをやめてごらんなさい」
少女の声が止まった。
組まれていた指が、ゆっくりとほどける。
俺はそれに合わせて、炎を消した。
手は、開いたままだった。
「……消えましたね」
神官が呟く。
消えたのではない。
消したのだ。
その違いを知っているのは、俺だけだった。
「今の状態では、出せないのですか」
俺は掌を見つめた。
何も起こさなかった。
「見ての通りだ」
「では、もう一度祈らせれば?」
「また使える。だが、今日はもういい」
俺はエナの手を下ろさせた。
「食事を続けろ」
「もう、お役に立てましたか?」
「ああ」
少女は安心したようにパンへ手を伸ばした。
今ので、この子は神官へ一つの証拠を見せた。
神の力ではない。
神の弱点だ。
もちろん、そんなものは存在しない。
少なくとも、今見せた形では。
神官は、火の消えた俺の手をもう一度見た。
「少し、話を続けましょう」
先ほどと同じ誘いだった。
ただし今度は、椅子へ座らせて尋問するための声ではなかった。
◇
「先に申し上げておきます」
執務室へ戻ると、神官は自分で扉を閉めた。
「今の実演だけで、お話をすべて信じたわけではありません。見たのは、小さな火が出たり消えたりするところだけです」
「それでいい」
「新しい奇跡まで作れるというのは、まだ、あなたの言葉だけです」
「いきなり全財産を賭けろとは言っていない。まず、人を集めろ。お前の声と、俺の火で、何人が祈るか試せばいい」
神官は机を指で叩いた。
焦らせず、水を飲みながら待つ。
信じるかどうかと、金になるかどうかは別の話だ。
目の前の男は、その区別がつく。
「私も、仕掛けを奇跡だと信じさせれば、本物の力が手に入るのですか?」
「今まで神の声を聞かせてきたんだろう。何か手に入ったか?」
神官の指が止まった。
「……供物は」
「なら、そちらは引き続きお前が担当しろ。俺の力まで、同じやり方で手に入るとは思うな」
神官が口の端を上げた。
さっきよりも、ずっと自然な笑い方だった。
「具体的には、何を?」
「森の古い祠から神が戻った。お前は、その神を最初に迎え入れた神官になる」
「私は、あなたを神だと認めるわけですね」
「人前ではな」
「こちらでは?」
「好きに呼べ。金の話ができればいい」
神官の視線が、俺の顔から焦げたスーツへ下りていく。
この男の目には、俺はどう映っているのだろう。
神か。
珍しい魔法を使う男か。
自分より少し変わった道具を持つ、同業者か。
どれでも構わなかった。
「参拝に来る者は、お前が迎える。供物を受け取り、願いを聞け。次にどんな奇跡を見せるかは、二人で決める」
「私には金が入り、あなたには祈りが集まる」
「俺の飯と寝床も忘れるな」
神官の目が、もう一度俺の服へ向いた。
「神も食事をなさるのですか」
「お前のところの神も食っているだろう。誰の腹に入るかは知らんが」
返事の代わりに、小さな笑い声が返ってきた。
この話には、互いに都合のいい部分がある。
それが分かれば、あとは値段を決めるだけだ。
「ただし、祈るだけの人間から金を取るな」
「それでは、商売になりません」
「金のある奴からは供物を受け取ればいい。ない奴まで追い返すなと言っている」
「貧しい者が大勢来ても、食事の世話はできませんよ」
「いきなり全員に飯を配れとは言っていない。祈る場所を空けておけ」
俺は机の端を指先で叩いた。
「そいつの財布が空でも、俺は力を使える。客が増えれば、お前の話を聞く人間も増える」
神官は少し考えたあと、頷いた。
「入口を広くする、ということですか」
「そういうことだ」
魔力がどの程度集まるのかは、まだ分からない。
だが、一人で小さな炎を灯せた。
なら、まずは二人目を集めてみる価値がある。
俺は杯を置いた。
「それから、エナだ」
神官の顔から、少しだけ笑みが薄れた。
「あの娘を、どうなさるおつもりで?」
「ここに置く。食事と、清潔な服と、寝床を用意しろ」
「働かせるのであれば、もっと使える者がいます」
「俺に仕える巫女にする」
神官は、今度は明らかに眉をひそめた。
「村には、もっと相応しい家の娘がいます。親の協力も得られるでしょう」
「俺を呼び戻したのはエナだ。そういう話で始める」
神官は口を閉じた。
「今から百人集めても、あの子より先に俺へ祈ったことにはできない」
「最初の信者、というわけですか」
「それを、お前の口から村人に伝えろ」
俺は閉じた扉を指した。
「エナは神殿が預かる。寝床も食事も神殿が出す。勝手に殴ることも、働かせることも、村から追い出すことも許さない」
「あなたが言えば済むのでは?」
「俺の言葉では、あの男は手を離さなかった」
神官は黙っていた。
「お前が言えば離した。だったら、今はお前が言え」
神様だからといって、使えるものを使わない理由にはならない。
俺にできるのは、小さな火を出すことだ。
この男は、言葉一つで村人の手を止められる。
今夜必要なのは、そちらだった。
「随分と、あの娘に執着なさる」
「最初の信者も守れない神を、次の客にどう売るつもりだ?」
神官は答えなかった。
「あの子が、また殴られて俺のところへ来るようなら、この話は終わりだ。俺はエナを連れて別の場所へ行く」
「私を信用していないのですね」
「お前も、俺の話を全部信じたわけではないんだろう」
神官が息を吐いた。
視線が、塞がれた管へ落ちる。
しばらくして、その手が机の上へ差し出された。
「部屋は二つ空いています。食事と衣服についても、手配しましょう」
「治療に使う布も頼む。俺の分もだ」
「それも経費ですか?」
「商品に傷があると、売りにくい」
俺はその手を握った。
誓いの光も、契約の文字も現れなかった。
相手が約束を守る保証はない。
だから、エナと俺がここに泊まることを村人の前で言わせる。巫女に迎えると、神官自身の口から告げさせる。
明日になって追い出せば、神を迎えたという今日の話まで、おかしくなるように。
この男の善意に任せるよりは、まだ当てになる。
「もう一つ、仕事を頼む」
握った手を離すと、神官は早くも嫌そうな顔をした。
「まだ何か?」
「村には何人いる」
「私とエナを含めて、三十七人です」
「全員、集められるか」
「今からですか。足の悪い老人もいますが」
「椅子を運ぶ人間をつけろ。歩かせる必要はない」
神官の指が机を叩いた。
「小さな火を見せるために、そこまで?」
「それだけで全員が祈るなら、お前はとっくに金持ちになっている」
村へ入るまでに、火のついた灯りをいくつも見た。
魔法もある。
火が出るというだけで神を名乗るには、この世界は少しばかり便利すぎた。
「もっと、ほかの奇跡を?」
「その準備をする。お前は普段、村人の願いを聞いているんだろう」
「それも務めですから」
「他人に知られたくない話も?」
神官は、布のかかった管を見た。
「……相談には、いろいろなものがあります」
「毎回、同じことを願っている奴はいるか」
神官は少し考え、棚から薄い帳面を取り出した。
開いた頁には、いくつもの名前らしい文字と、その隣に数字が並んでいる。
どちらが大事なのかは、尋ねるまでもなかった。
「粉屋の未亡人がいます。二年前、息子が村を出たまま帰ってこないそうで」
「無事を願っている?」
「帰ってくるように、と。私が教えた言葉で、毎朝祈っています」
「どんな言葉だ」
神官は口にした。
息子の名前。
出ていった日の口論。
二度と戻るなと言ってしまったこと。
そして、毎晩、戸口へ置いている灯りの話。
俺は途中で一度だけ、名前を聞き直した。
「覚えた。その女を最初にしろ」
「あなたが、願いを言い当てるのですね」
「エナにだけ聞かせた願いを、俺が離れた場所で聞き取る」
神官の目が細くなった。
「巫女を通じて、神へ祈りが届く」
「飲み込みが早くて助かる」
「返事も、その娘にさせるのですか?」
「ああ。最初の返事は、前もって預けておく。その女の願いを聞いてから答えたように見える言葉をな」
「ですが、私から聞いたと疑う者もいるでしょう」
「だろうな」
そこは否定しなかった。
ただの手品なら、二人目を指名された時点で終わる。
だが、一人目が信じたあとにも、ただの手品のままとは限らない。
俺は一度、それを経験している。
問題は、今度はエナを間に挟むということだ。
俺自身が火を出すのとは違う。
うまくいくという保証は、どこにもなかった。
「最初から、何でもできるとは言うな。今夜は、離れた場所にいる俺とエナの間で、祈りと返事を交わせることだけを見せる」
「願いが叶うとは、約束しない」
「お前のところの神も、まだ息子を帰していないんだろう」
神官は帳面を閉じた。
「皆さんを呼んできます」
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