6 最初の客との約束
次に前へ出てきたのは、三人の少年のうちの一人だった。
森で一番大きな声を出していた少年だ。
「じゃ、じゃあ、おれのも」
俺ではなく、エナへ向かって言った。
少女は返事をする前に、俺を見た。
「聞いてやれるか」
「……はい」
少年は、先ほどの物置を選んだ。
扉を閉める前に、隙間や壁の穴まで確かめている。
祠の供物を盗む時にも、それくらい注意深ければよかったものを。
二人の姿が見えなくなると、またエナの祈りが届いた。
『神様。お父さんが……』
俺は枝を持ち直した。
犬でも、パンでもなかった。
父親が猟へ出る時、いつも同じ方の膝を引きずること。
本人は何でもないと言っていること。
少年は、今度こそ帰ってこないのではないかと怖がっていること。
話を聞きながら、俺は広場にいる男たちを見た。
一人が、無意識に膝を擦っていた。
少年が戻ってきた。
先ほどの威勢は、どこかへ消えていた。
「みんなの前で答えていいか」
俺が尋ねると、少年は慌てて首を振った。
「なら、来い」
近づいてきた耳元へ、聞いたことだけを短く告げた。
治せるとは言わなかった。
明日も無事に帰るとも言わなかった。
知らないことを引き受ければ、その先でまた嘘が要る。
今日は、聞こえたことだけで十分だった。
少年は俯いたまま、頷いた。
それから、エナへ向き直った。
「……ありがと」
声は小さかった。
だが、聞き間違えるほどではなかった。
それを境に、広場の空気が変わった。
試したいと言っていた者が、聞いてほしいと言い始めた。
神官は椅子を動かし、人を並ばせる。
エナは物置に入り、一人ずつ話を聞いた。
願いを話す間は扉を閉め、俺は神殿の石段から動かない。
戻ってきた相手へ、受け取った祈りを短く繰り返した。
畑の境界のこと。
誰にも言っていない借金。
妻へ隠していた失敗。
ありもしない鳥の名前を三つ並べ、試そうとする者もいた。
俺は、それも聞いた通りに答えた。
まだ受け取っていない祈りまで、知ったふりはしなかった。
驚いた顔が一つ増えるたび、板の数字も増えていく。
エナへ頭を下げる人間も増えた。
扉が開くたび、少女は見送る相手より深く頭を下げようとしていた。
三度目で、俺はやめさせた。
『首が痛くなる。聞く時は、座っていろ』
エナへだけ言葉を送り、神官には椅子を持っていくよう頼んだ。
運ばれてきたのは、背もたれのある椅子だった。
エナは恐る恐る腰を下ろした。
その前で、大人が膝を折り、少女と目の高さを合わせた。
村へ来た時には、一度も見なかった光景だった。
途中で一度、列を止めた。
神官には待っている者の相手をさせ、エナへ水を飲ませる。
巫女にしたその晩に倒れられては、寝床を用意させた意味がない。
広場の松明が短くなった頃には、足の悪い老人のために、物置の方へも椅子が運ばれた。
しばらくして、エナの声が届いた。
『神様。お返事も、わたしがお伝えしていいですか。歩くと、足が痛いそうで……』
『そうしてくれ』
受け取った願いへの返事を、エナへ送る。
答えられないことには、そう言わせた。少なくとも、話を聞いたことは伝えられる。
やがて扉が開くと、老人は椅子に座ったまま、こちらへ皺だらけの手を合わせた。
今度の奇跡は、俺が歩いていく手間も省いてくれたらしい。
【接続信徒】35
俺は、数字を見た。
神官とエナを含めて、三十七人。
目の前の神官は、増えていく供物の鉢を眺めている。
残る一人には、心当たりがあった。
◇
そろそろエナも休ませるべきだ。
俺は枝を頼りに立ち上がり、物置へ向かった。
その入口まで来たところで、広場にいた男が俺を追い越した。
エナの前で足を止める。
少女の腕をつかんでいた男。
そして、井戸の底へ犬を増やした男だった。
エナの肩が強張った。
男の手が、わずかに動いた。
俺は枝をついたまま、それを見ていた。
男は手を伸ばさなかった。
腰の横で握り、少し間を置いてから、指を開いた。
「もう一つ、いいか」
声は、さっきより低かった。
エナが俺を見る。
「疲れているなら、明日にしてもらえ」
男がこちらを向いた。
だが、何も言わなかった。
エナは膝の上で、指先を擦った。
「……一つだけなら」
男が、短く頷く。
俺は石段へ戻った。
背後で、物置の扉が閉まった。
しばらくして、エナの声が届く。
『神様。奥さんが、毎晩、眠れないそうです』
男の妻は、昨年、子供を亡くしていた。
夜になると、その子の寝ていた場所へ手を伸ばす。
何もないことを確かめてから、朝まで起きている。
男は、その隣で寝たふりをしている。
何を言えばいいのか、分からないから。
『今夜だけでも、怖い夢を見ないで眠れるように、って』
俺は黙って、最後まで聞いた。
女房を心配する人間が、ほかの子供を平気でつかんで引きずる。
それほど珍しいことではない。
人は、相手によって扱いを変える。
だから俺も、その扱いを変えさせるために、こんな場所へ座っている。
男が戻ってきた。
近くに来るのを待って、俺は声を落とした。
「今夜くらい、寝たふりをやめてやれ」
男の喉が動いた。
「何を言えばいいか分からないなら、そのまま言えばいい。少なくとも、隣で起きていることは伝わる」
神の助言としては、随分とありふれている。
それ以外に、今の俺が約束できることはなかった。
「……あいつが、伝えたのか」
「エナがな」
俺は名前を言い直した。
男は振り返った。
物置の扉は、もう開いていた。
男がそちらへ歩き出し、俺もあとに続いた。
男は椅子に座る少女を、しばらく見つめていた。
「巫女様」
その呼びかけに、エナはすぐには反応しなかった。
周囲を見て、それから、自分に向けられた言葉だと気づく。
「……はい」
「明日も、お願いしていいですか」
エナは俺を見た。
俺は頷かなかった。
「お前に聞いている」
少女は男へ向き直った。
返事を待つ間、男は動かなかった。
手を伸ばすことも、急かすこともしない。
「朝ごはんを、食べてからなら」
エナが答えた。
男は、頭を下げた。
「お願いします」
【接続信徒】36
数字は、それ以上増えなかった。
神官が、俺の隣へ立つ。
「皆さん、よく祈っておいでですね」
「お前は祈らないのか」
「供物を片づける者も、必要でしょう」
もっともな話だった。
村には三十七人いる。
そのうち三十六人が、俺を神だと信じている。
残る一人は、その神へ食事と寝床を売っていた。
「明日から、忙しくなりそうです」
「エナを朝から働かせるなよ」
「聞いていました。朝食のあとですね」
神官は、硬貨の入った鉢を持ち上げた。
俺の目の前では、奉納残高の数字が増えている。
同じものを見ていないからこそ、うまく分けられる商売もある。
◇
村人が帰り、神官が帳面をつけ始めた頃、俺はエナを呼んだ。
「少し、話がある」
通された部屋には、小さな寝台と毛布があった。
机の上には水差しが置かれ、窓も閉まる。
エナは入口で足を止めた。
「ここ、誰の部屋ですか」
「お前のだ」
少女は寝台を見て、それから俺を見た。
「わたし、一人で?」
「俺は隣だ。何かあれば呼べばいい」
俺は廊下に誰もいないことを確かめ、扉を閉めた。
エナを椅子へ座らせ、自分は机の端へ寄りかかる。
神官には、祈られている間しか力を使えないと説明した。
人を集める自分に、俺を動かす手段がある。
そう思わせておけば、あの男も安心して協力する。
だが、あの実演を見たエナまで、同じことを信じていたら?
祈りをやめれば、神は力を使えなくなる。
俺が自分で消した炎は、この子にとって、その証拠になり得る。
人の信仰が、神の性質を定める。
こちらに都合のいい思い込みだけが、本物になる保証はない。
もし、あの嘘まで神話として成立したら。
誰も祈っていない夜には、どれだけ魔力を蓄えていても、火一つ灯せなくなるかもしれない。
神官が皆に祈りをやめさせるだけで、俺は力を使えなくなる。
あの男が握っていると思い込んでいるだけの弱点が、本物になる。
冗談ではない。
相手を騙すための嘘で、自分の首を絞めてどうする。
実際にそうなるのかは、分からない。
今のところ、蓄えた魔力も使えている。
だが、試して確かめたい種類の疑問ではなかった。
全部を教える必要はない。
祈りの魔力は蓄えられる。
その一点だけは、今のうちに訂正しておく。
「巫女になったお前へ、一つだけ教えておく」
少女の背筋が伸びた。
「俺へ祈ると、捧げられた魔力が蓄えられる。祈りをやめても、受け取った分まで消えるわけじゃない」
エナは、ゆっくりと瞬きをした。
「とっておける、ということですか?」
「そうだ。必要な時に、取り出して使える」
少女は自分の両手へ目を落とした。
神官の前で組み、それからほどいた手だ。
「でも、さっきは、お祈りをやめたら火が……」
「あれは、俺が消した」
エナが顔を上げた。
俺は右手を差し出した。
「祈らなくていい。そのまま見ていろ」
人を集める前に、箱から引き出した魔力が、まだ身体に残っている。
それを指先へ流す。
掌に、小さな炎が灯った。
エナの手は、膝の上に置かれたままだった。
「今の分は、前にもらったものだ」
少女は炎を見つめ、それから、そっと頷いた。
「だから、俺に力を使わせるために、お前が寝ずに祈り続ける必要はない」
「眠っても、いいんですね」
「飯も食え。今日、明日の客にもそう言っただろう」
エナの頬が、少しだけ赤くなった。
俺は炎を消した。
「神官様にも、お伝えしますか?」
「いや」
返事は、すぐにした。
「あいつには、あいつの仕事がある。今の話は、巫女のお前だけが知っていればいい」
少女は閉じた扉へ目を向けた。
それから、小さく頷く。
「わたしだけ、ですか」
「口に出すなよ」
「はい」
今度の返事は、少しだけ大きかった。
教えたのは、魔力を蓄えておけるということだけだ。
最初の火を何でつけたのか。
今夜、未亡人の願いをどこで知ったのか。
エナがどうして、本当に祈りを届けられるようになったのか。
そこまでは話さなかった。
神官へ渡した話にも、穴はある。
エナへ渡した話にも、続きを残した。
全部を知られて困る仕事を、長くやりすぎていた。
俺は神官から受け取っていた鍵を、机へ置いた。
「夜は、これで閉めて寝ろ」
「かけていいんですか?」
「そのための鍵だ」
エナが両手で受け取る。
俺は扉の内側を指した。
「ここから閉める。開けるかどうかも、お前が決めていい」
少女は鍵穴と、手の中の鍵を見比べた。
棺の蓋へ、外から釘を打たれた時の音が頭をよぎった。
俺は扉から手を離した。
「今日はもう寝ろ。仕事は終わりだ」
「……神様」
「何だ」
「わたし、もう、森へ行かなくていいんですね」
「行きたいのか?」
エナは首を横に振った。
「じゃあ、行くな。明日の朝飯は、ここで食え」
少女は口を開いた。
けれど、声にならなかった。
何度か息を吸い直してから、鍵を握ったまま頭を下げる。
「助けてくださって、ありがとうございます」
俺は返事をせず、扉を開けた。
廊下へ出てから、背後の扉が閉まるのを待つ。
少しして、金属の擦れる音がした。
内側から、鍵のかかった音だった。
◇
隣の部屋には、食事と傷を覆う布が用意されていた。
俺は椅子へ座り、ようやく枝を壁へ立てかけた。
背中が痛む。
足も重い。
神様の初仕事としては、少しばかり働きすぎた。
村人たちは、善人になったわけではない。
ただ、つい先ほどまで好きに扱っていた少女が、神へ声の届く相手だと知った。
神官も、人を騙して金を取ることをやめていない。
そこへ、俺が加わった。
明日からは、二人で同じ神を売る。
半透明の板を見た。
【接続信徒】36
この村の、ほとんどすべてだった。
俺は、その数字の一番最初にいた少女を思い出した。
助けてほしいと祈った、汚れた両手。
今夜は、あの手で自分の部屋に鍵をかけた。
魔力を使ったわけでもない。
新しい神話が成立したわけでもない。
ただ、それができるようになった。
俺はパンを手に取った。
まだ、柔らかい。
エナとの約束は、果たした。
今日は、それで十分だ。
Maybe To Be Continued……




