2 偽物から生まれた奇跡
接続信徒、一。
少女は俺を見上げたまま、汚れた両手を胸の前で組んだ。
「神様」
その呼び方は訂正しなかった。
「わたしを、助けてください」
「分かった」
少女が驚いたように目を見開く。
まだ、具体的な願いの内容すら聞いていない。
それでも構わなかった。
この世界における俺の全財産は、目の前にいる最初の信者だ。
最初の客を見捨てる商売人はいない。
「その前に、一つ奇跡を見せてやろう」
「奇跡……?」
「ああ。よく見ていろ」
書かれていた説明が本当なら、信仰者の前で神性を証明する必要がある。
今、その信仰者が一人だけ存在する。
試すにはちょうどいい。
俺は少女から視線を外さないまま、右手を内ポケットへ入れた。
指先に硬い金属が触れる。
使い古したオイルライター。
舞台上で火を扱うことが多かったため、仕事中は必ず持ち歩いていたものだ。
燃える棺へ放り込まれたというのに、まだ形は残っている。
動くかどうかは賭けだった。
俺はライターを掌の内側へ隠し、何も持っていないように右手を差し出した。
少女の視線は、俺の顔に向いている。
こういう時、人間は見せられたものを見るのではない。
見るように誘導されたものを見る。
俺が軽く指を鳴らす。
その音に重ねて、掌に隠したライターを点火した。
小さな炎が、握った指の隙間から立ち上がる。
「え……?」
少女が息を呑んだ。
俺の手の上で、橙色の炎が揺れている。
少女からは、ライターの本体が見えない。
何もない掌から火が生まれたようにしか見えないはずだ。
「火……」
少女が呟く。
その目が、驚きに見開かれていく。
「でも、魔力が……動いていない」
当然だ。
魔法など使っていない。
奇跡の正体は、日本ならどこでも手に入る古びたライターだ。
神の威厳としては、随分と安い。
だが、少女にとって重要なのは仕掛けではない。
魔力を一滴も持たない存在が、何もない場所から炎を生み出した。
少女がそう信じれば、それでいい。
半透明の板が、炎の向こうへ現れた。
《信仰者の認識から神性命題を確認》
【信仰命題】
《忘れられた神は、魔力を持たずして炎を生む》
《神性命題の証明を確認》
《証明手段の真偽は問いません》
《存在証明――成立》
【信仰命題】なし
【成立神話】
《忘れられた神は、魔力を持たずして炎を生む》
俺は掌を握り、ライターの火を消した。
そのまま少女に気づかれないよう、袖口へ滑らせる。
最初に見せた炎は、ただの手品だった。
だが、目の前の板が正しいのなら、次に灯す炎は違う。
少女が嘘を奇跡だと信じたことで、存在しなかった神の力が、本物になった。
少女はその場へ跪いた。
「神様……」
祈るように両手を組み、俺を見上げる。
「どうか、わたしをお救いください」
その言葉とともに、少女の身体から淡い光が漏れ出した。
糸のように細い光が俺の前まで伸び、空中へ溶けるように消えていく。
板に数字が浮かび上がった。
《信仰者からの奉納を確認》
【奉納残高】0→3
少女の身体がふらついた。
俺は倒れかけた身体を片手で支える。
「大丈夫か」
「はい……少し、力が抜けただけです」
魔力。
少女が持っていたものの一部が、《奉納庫》へ入ったらしい。
奉納された魔力は、無から生まれたものではない。
この少女から差し引かれたものだ。
信仰には代価が必要になる。
神が奇跡を起こすための力を、信者が先に支払う。
実に宗教らしい仕組みだった。
これが、説明にあった《奉納庫》か。
信者が捧げた魔力を貯めておき、必要なときに受け取れる。
要するに、神専用のお賽銭箱らしい。
説明には「任意の時に受領できる」と書かれている。
【発動句】開箱
俺は右手を開いた。
「開箱」
言葉に反応し、どこかで錠の外れる音がした。
【奉納残高】3→0
《奉納魔力を受領しました》
冷たいものが胸の中心へ流れ込んできた。
血管とは違う、今まで存在しなかった道を何かが巡っていく。
最初は冷たかった。
だが、心臓へ到達した途端、それは熱へ変わった。
ほんのわずかな量。
それでも、今まで空だった俺の中に、確かに何かが存在している。
熱は心臓から腕へ流れ、指先にまで行き渡った。
錯覚ではない。
火傷の痛みとも違う。
俺は袖口に隠した右手を下ろし、代わりに左手を持ち上げた。
こちらの手には何もない。
ライターも、発火紙も、薬品も仕込んでいない。
つまり、火がつく理由は一つもない。
俺は先ほどの炎を思い浮かべた。
橙色。
揺れる輪郭。
掌の上で、燃やすものもなく灯り続ける火。
胸の内側にあった熱が、左腕へ流れ込んだ。
次の瞬間。
小さな炎が、俺の掌に灯った。
「わあ……」
少女の口から、感嘆の声が漏れた。
俺は何も答えなかった。
答えられなかった。
炎は風に揺られながら、俺の手の上で燃え続けている。
熱もある。
光もある。
だが、燃料はない。
袖口に隠したライターにも触れていない。
手品ではない。
仕掛けでもない。
俺の知識では、説明できない。
「やっぱり、本物の神様だったんですね」
少女が嬉しそうに笑う。
俺は掌の炎を見つめたまま、ゆっくりと指を閉じた。
それだけで火は消えた。
焼け跡すら残っていない。
魔法。
そんなものは存在しない。
少なくとも、今までの俺なら迷わずそう答えていた。
だが、現実に起きたことを、自分に都合が悪いという理由だけで否定するのは、信者と同じだ。
俺は神を信じない。
だからこそ、目の前にある証拠は認めなければならない。
魔法は存在する。
目の前の板に書かれていたことも本当だ。
俺がライターで作った偽物の奇跡は、少女の信仰によって、本物の力へ変わった。
神が存在するから、人が信じるのではない。
人が信じたから、神が存在し始める。
「神様?」
黙り込んだ俺を、少女が不思議そうに見上げている。
「何でもない」
俺は左手を下ろした。
「この程度、神にとっては奇跡ですらない」
もちろん、嘘だ。
俺にとっては、生まれて初めて目にした本物の奇跡だった。
「叶えてやる。願いを言え」
少女はしばらく俺の顔を見つめていた。
本当に聞き入れてもらえるとは思っていなかったらしい。
「わたしが……村から追い出されないようにしてください」
少女は地面へ額をつけた。
「森へ追い出されたら、魔物に食べられてしまいます。もう盗みません。ちゃんと働きます。殴られても我慢します。だから……」
一度、声が途切れた。
「わたしを助けてください」
なるほど。
事情は分からないが、この少女は相当に追い詰められているらしい。
信仰というものは、幸福な人間には必要ない。
自分でどうにかできる者は、自分を信じる。
金で解決できる者は、金を信じる。
神を求めるのは、そのどちらも持っていない人間だ。
そして、そういう人間こそ、俺の客だった。
売るのは、パンでも金でもない。
希望だ。
「そうか」
村がどこにあるのかも、少女がなぜ追い出されようとしているのかも知らない。
それでも、俺は表情を変えなかった。
一度神を名乗った人間が、客の注文を聞いてから困った顔をするわけにはいかない。
少女は安心したように息を吐いた。
「名前は?」
俺は少女へ尋ねた。
「エナです」
「そうか」
俺は石の上に置かれたパンを左手で取った。
エナの視線がそちらへ向いた隙に、袖口のライターを内ポケットへ戻す。
「それは、俺への供物でいいんだな」
「はい。硬くて、あまりおいしくないですけど……」
「神は味で供物を選ばない」
本当は選ぶかもしれない。
少なくとも俺は、柔らかいパンの方が好きだ。
だが、今は空腹だった。
一口かじる。
少女の言ったとおり、驚くほど硬い。
口の中の水分がすべて持っていかれる。
「おいしく、ないですよね?」
「神の食事に感想を求めるな」
「ご、ごめんなさい」
三分の一ほど食べたところで、木々の向こうから笑い声が聞こえてきた。
「今日も本当に来てるぞ」
「馬鹿じゃねえの」
少女の顔から、笑みが消えた。
俺はパンを持ったまま、声のした方へ目を向ける。
三人の少年が木々の陰から出てきた。
全員、エナより少し年上に見える。
服は汚れているが、エナのものほど傷んではいない。少なくとも靴を履き、頬が痩せこけてもいなかった。
先頭の少年が俺を見て足を止める。
「誰だ、お前」
《祈願疎通》が少年たちに働いたわけではない。エナとの接続で取得した言語が、同じ言葉を使う相手にも通じているらしい。
少年は俺と、手に持っているパンを見比べた。
「それ、俺たちのだぞ」
「お前たちの?」
「そいつが神様に供えたものは、あとで俺たちが取るんだよ」
少年たちが笑った。
エナが目を見開く。
「え……?」
「まだ分かってなかったのかよ」
先頭の少年は腹を抱えて笑い始めた。
「神様なんかいるわけないだろ。お前が置いたパンも肉も、全部俺たちが食ったんだよ」
エナの顔から血の気が引いていく。
「じゃあ……神様が、受け取ってくれてたんじゃ……」
俺の前に板が現れた。
《接続信徒の信仰に動揺を確認》
《信仰路が不安定化しています》
面倒なことになった。
宗教にとって、疑問を口にする者ほど邪魔な存在はいない。
だからといって焼き殺すつもりはない。
俺は、あの教団とは違う。
少なくとも、今のところは。
「それがどうした」
俺が言うと、少年たちの笑いが止まった。
「どうしたって……」
「エナが神へ捧げた時点で、その供物は俺のものだ」
俺は残ったパンを見せる。
「俺のものを誰に食わせるかは、俺が決める」
「は?」
「お前たちが盗めたのは、俺が見逃してやったからだ」
「そんなの、後から言ってるだけだろ!」
「そうだな」
俺は素直に認めた。
少年が言葉に詰まる。
嘘をつく時、すべてを否定する必要はない。
否定できない事実は認めた方が、残りの嘘が真実らしくなる。
「お前たちが供物を食べたことは分かった。でも、それで神がいないことまで証明できたのか?」
「……」
「神へ捧げられた供物を盗み続け、その神の前で自白した。それだけだ」
少年たちの表情がこわばった。
俺は空いている右手を持ち上げる。
「お前たちの村では、それを何と呼ぶ?」
掌へ意識を集中させる。
残っていた奉納魔力が熱へ変わる。
小さな炎が灯った。
三人の少年が息を呑む。
「ま、魔法……?」
「違う」
エナが答えた。
先ほどまでの動揺は消えている。
「神様には、自分の魔力がないの」
「は?」
少年たちは俺を見つめる。
「魔力がねえ? それじゃ、人間ですらねえじゃん」
「それなのに、火を出せる。本物の神様だから」
《接続信徒の信仰が安定しました》
《成立神話の定着度が上昇しました》
少年たちが一歩ずつ後ずさる。
俺は炎を消さないまま、その様子を眺めた。
「選ばせてやる」
「な、何を……」
「村へ戻り、森の祠に神が現れたと伝えろ」
「そんなこと、誰が信じるかよ」
「信じさせる必要はない。見たことを話せばいい」
俺は掌の炎を少しだけ大きくした。
「それとも、ここに残って、神の炎が人間を焼けるか試してみるか?」
三人は同時に走り出した。
枝に足を取られ、何度も転びながら村の方角へ逃げていく。
その姿が見えなくなってから、俺は炎を消した。
これで三人が村へ噂を運ぶ。
信じなくてもいい。
否定するためでも構わない。
話題にさえなれば、商品は人目に触れる。
「神様」
エナが俺を見上げる。
「村へ来てくれるんですか?」
俺は手に残っていたパンをすべて口へ入れた。
やはり硬い。
俺は地面に置いていた枝を拾った。
身体中が痛む。
奉納魔力もほとんど使い切った。
村にどれだけの人間がいるのかも、何をされるのかも分からない。
それでも、行かないという選択肢はなかった。
俺が助けたいのは、少女ではない。
最初の信者だ。
少なくとも、そういうことにしておく。
「案内しろ、エナ」
「どこへですか?」
「お前の村に決まってるだろう」
祠の前を離れ、少年たちが逃げていった方向へ歩き出す。
エナが慌てて俺のあとを追ってくる。
お読みいただき、ありがとうございます。
感想や評価☆をいただけると嬉しいです!




