1 最初の信者
見覚えのない森。
湿った土。
奇妙にねじれた木々。
木々の隙間から見える夜空には、大小二つの月が浮かんでいる。
着ていた黒いスーツはところどころ焼け焦げ、右袖からはまだ細い煙が立ち上っていた。
手首には、焼けて千切れた縄も残っている。
日本ではない。
どこだ、ここは。
そしてこの半透明の板。
手を伸ばしてみたが、指先は何の感触もなくすり抜けた。
なんだこれ。
それにはこう書いてある。
スキル 神の存在証明
信仰は、神の性質を定める。
証明は、神話を成立させる。
奉納は、奇跡を動かす。
信仰者より奉納された魔力は、奉納庫へ蓄積され、任意の時に受領できる。
神性を示す命題を、信仰者の前で証明せよ。
証明手段の真偽は問わない。
成立した命題は現実となり、反証された命題は失われる。
【接続信徒】0
【奉納残高】0
【信仰命題】なし
【成立神話】なし
俺は最初から、もう一度読み直し、ため息をついた。
スキル?
魔力?
神話?
なんだ、それ。
ふざけるな。
俺は神だの奇跡だのを商売にしてきた。
だからこそ、そんなものが存在しないことも知っている。
神を信じる連中に焼き殺されかけた直後、今度は俺に神をやれとでも言うのか。
冗談にしては、趣味が悪すぎる。
とはいえ、目の前の板は消えない。
目を閉じても、開けば同じ場所に浮かんでいる。
腹立たしいが、仮に書かれていることが本当だとすれば、仕組みは単純だ。
誰かに神だと信じさせる。
その人間が信じた神の力を、目の前で証明する。
証明に成功すれば、偽物だった力が本物になる。
その証明に使った方法が本物かどうかは関係がない。
手品でも、科学でも、仕込みでも構わない。
相手が奇跡だと信じれば、それで証明は成立する。
仮に全部本当なら、詐欺師に与える能力としては少し親切すぎる。
◇ ◇ ◇
数分前。
俺は燃え盛る棺の中にいた。
宗教団体の信者たちに押さえつけられ、口封じとして生きたまま焼かれようとしていた。
なぜそんな目に遭ったのか。
説明は難しくない。
俺の仕事は、神を信じる人間へ、神が存在する証拠を売ることだった。
もちろん、本物の証拠ではない。
壁の中から聞こえる神の声。
何もない場所から噴き上がる炎。
信者の身体に浮かぶ聖なる印。
重い病に冒された人間が、一夜にして立ち上がる奇跡。
仕掛けを知ってしまえば、どれも大したものではない。
隠し通路、音響設備、薬品、照明、役者。
必要なのは神の力ではない。
金と人手、それから信者が何を見たがっているのかを理解する頭だ。
俺はそれらを用意して、宗教団体へ売っていた。
神が実在するという証拠が欲しい。
病人が治ったことにしたい。
教祖が神に選ばれた人間だと示したい。
注文に応じて奇跡を作り、その対価として金を受け取る。
詐欺師と呼びたければ、好きに呼べばいい。
三十二年も生きていれば、職業欄に書けない仕事の一つや二つは増えるものだ。
それに、俺は誰かへ無理やり神を信じさせたことはない。
証拠を用意しただけだ。
信じると決めたのは、いつだって客の方だ。
最後に受けた仕事も、最初はいつもと変わらなかった。
燃える棺から教祖が蘇る。
ありがちな復活の奇跡だ。
教祖を棺に入れ、信者たちの目の前で火を放つ。
実際には、棺の底に作った抜け道から教祖が逃げ、そのあとで用意しておいた人形を燃やす。頃合いを見計らい、白い衣装へ着替えた教祖が信者たちの背後から姿を現す。
それだけの仕掛けだった。
だが、火がつけられた直後、俺は異変に気づいた。
棺の中から聞こえてきた悲鳴が、録音しておいたものと違ったからだ。
女の声だった。
喉が裂けるほどの絶叫とともに、棺の蓋が内側から何度も叩かれた。
助けて。
熱い。
開けて。
何度もそう叫んでいた。
それでも周囲の信者たちは、誰一人として棺へ近づかなかった。
それどころか、燃え上がる炎を見つめながら、涙を流して祈っていた。
「悪しきものが焼かれている!」
「神がお姿を現されるぞ!」
信者たちの祈りが、女の悲鳴をかき消していく。
燃えた髪の臭いがした。
しばらくすると、肉の焼ける甘い臭いも混じり始めた。
棺を開けようとした俺を、教団の男たちが後ろから押さえつけた。
「契約と違う」
俺がそう言うと、教祖は笑って答えた。
「奇跡には、犠牲が必要なのです」
棺に入れられていたのは、教団から逃げようとした女だった。
神を疑った者が炎に焼かれ、その肉体を依り代として教祖が復活する。
勝手にそんな筋書きを加えたらしい。
俺が売ったのは奇跡の見せ方であって、人間の焼き方ではない。
そう説明したが、話し合いにはならなかった。
余計なことを知っている人間は、神の国へ送ることにしたらしい。
俺は自分が用意した二つ目の棺へ押し込まれた。
仕掛けを組む前の、ただの予備の棺だ。
両手を縄で縛られ、外側から蓋を釘で打ちつけられた。
やがて棺の下で、薪が爆ぜる音がした。
最初に熱くなったのは背中だった。
次に息ができなくなった。
棺の隙間から入り込んだ煙が喉に張りつき、焼けた木が頬へ落ちてきた。
棺を破壊しようと暴れるたび、手首へ縄が食い込んだ。
皮膚が焼けるというのは、想像していたよりも痛かった。
人間、本当に耐えられない痛みを受けても、案外すぐには死なない。
あの女が何度も棺を叩いていた理由が、ようやく分かった。
だからといって、分かりたくはなかったが。
そして気がつけば、俺はこの森に立っていた。
どうやって助かったのかは分からない。
死後の世界にしては、手首も背中も痛すぎる。
もっとも、あの教団の教祖が語っていた天国にも、大して期待はしていなかった。
「さて」
声に出してみる。
木々の間を抜ける風が、焦げた袖をわずかに揺らした。
まず必要なのは水だ。
喉が乾いた。
次に食料。
安全に眠れる場所もいる。
俺は足元に落ちていた太い枝を拾った。
杖代わりにするには少し曲がっているが、ないよりはましだ。
歩き出そうとして、背後に何かあることに気づいた。
木の根に埋もれた、小さな石造りの建物。
建物と呼ぶには小さい。
祠か祭壇といった方が近いだろう。
屋根は半分崩れ、石柱には蔦が巻きついている。正面には人間の顔らしきものが彫られていたが、風雨に削られて目も鼻もなくなっていた。
その前には、平たい石が一つ置かれている。
石の上に乗っていたのは、干からびた花と、いくつかの木の実だった。
誰かが意図的に置いたものに見える。
そう思った時だった。
木々の向こうから、枝を踏む音が聞こえてきた。
軽い足音。
獣にしては遅く、一定の間隔で近づいてくる。
俺は崩れた祠の陰へ身を寄せた。
言葉も常識も分からない場所で、最初に出会った相手へ無警戒に近づくほどバカではない。
木々の間から現れたのは、小柄な少女だった。
年齢は十歳を少し過ぎたくらいだろう。
肩まで伸びた茶色い髪は泥で固まり、頬も煤けている。身につけている服は何度も布を継ぎ足したもので、靴すら履いていない。
細い足には、枝で切ったものとは違う青黒い痣がいくつも残っていた。
少女は何度も背後を振り返りながら、祠の前まで歩いてきた。
手には黒く硬そうなパンを一切れ持っている。
周囲に誰もいないことを確かめると、少女はそのパンを平たい石の上へ置いた。
そして、膝をつく。
「――――、――――」
少女が何かを話している。
だが、まったく聞き取れない。
日本語でも、英語でも、中国語でもない。
言葉として区切られていることは分かるが、意味までは理解できなかった。
少女は胸の前で指を組み、何度も頭を下げている。
言葉は分からなくても、何をしているかは分かる。
祈っている。
俺が宗教屋でなくても、それくらいは理解できただろう。
「――――。――――、――――」
少女の声が震えていた。
目からこぼれた涙が、汚れた頬に細い線を作る。
何かを必死に願っているらしい。
俺は祠の陰から姿を現した。
靴が落ち葉を踏む音に、少女が顔を上げた。
「――――?」
少女が何かを口にした。
だが、まだ意味は分からない。
少女の視線が、俺と背後の祠を何度も往復する。
その顔に浮かんでいた恐怖が、次第に別のものへ変わっていった。
期待。
祈りに応えて、祠から何者かが現れた。
少女の目には、そう見えているらしい。
半透明の板が現れた。
《祈願者があなたを信仰対象として仮認識しました》
《祈願者の認識を参照》
《神は、祈る者の言葉を理解する》
《信仰路――仮接続》
《基礎権能――祈願疎通を仮解放します》
《祈願者の言語を取得しました》
頭の中で、何かが繋がった。
少女の口から出ている音は変わっていない。
それなのに、言葉の意味だけが流れ込んでくる。
「もしかして……神様、ですか?」
なるほど。
この少女は俺を神だと思った。
そして、神なら自分の言葉を理解できると信じた。
その信仰が、俺に言葉を与えたらしい。
「お前は、俺が何に見える」
自分の口から出た言葉に、少しだけ違和感があった。
日本語で話しているつもりなのに、耳に届く音は少女と同じ言語へ変わっている。
「神様……です」
返ってきた言葉の意味も、はっきりと分かる。
さっきまで、少女が何を話しているのか一言も理解できなかった。
それが、今は聞き取れる。
俺の言葉も少女へ通じている。
変わったことは一つしかない。
俺が祠から姿を現し、少女が俺を神だと思った。
その瞬間、言葉が分かるようになった。
つまり、こいつが俺を神かもしれないと思ったことで、《神の存在証明》が力を発揮したということだ。
「そうか」
俺は少女の答えを否定しなかった。
「正解だ」
少女の表情が明るくなる。
自分から神だと名乗ったわけではない。
少女が出した答えを、俺が認めただけだ。
「毎日、ちゃんと持ってきました。昨日は木の実で、その前は干したお肉です。全部なくなっていたから、神様が受け取ってくれたんですよね?」
石の上のパンへ視線を向ける。
硬そうではあるが、食べられないほどではない。
少女は、俺が本当に存在しているのか確かめるように、おそるおそる右手を伸ばした。
小さな指先が、俺の手の甲へ触れる。
その途端、少女の表情が変わった。
「……ない」
「何がだ」
「魔力が……」
少女は俺の腕や胸へ何度も触れた。
「どうして……あなたには、魔力が一滴もないの?」
普通の人間だからに決まってるだろう。
「神は、魔力を持つ側じゃない」
少女の瞳を見下ろす。
「捧げられる側だ」
少女が息を呑んだ。
「でも、村の神職の人は……神様は誰よりもたくさんの魔力を持っているって……」
「そいつは、神に会ったことがあるのか?」
「いや……ないと思います……」
「なら、今こうして神に会っているお前の方が詳しい」
少女は黙った。
乱暴な理屈だ。
だが、言い返すだけの知識を少女は持っていない。
それに、人間は正しい説明を信じるわけではない。
自分にとって都合のいい説明を信じる。
「俺は長い間、誰からも忘れられていた」
俺は背後の崩れた祠へ目を向けた。
石像には顔がない。
名前も残っていない。
忘れられた神を演じるには、これ以上ない舞台だった。
「信じる者を失い、名前を失い、力を失った。だから俺には魔力がない」
「忘れられた、神様……」
「だが、お前がここへ祈り続けた」
「わたしが……?」
「ああ」
本当のことを十並べるよりも、自分だけが特別だと思わせる嘘を一つ与えた方が、人間はよく信じる。
「お前が、俺を目覚めさせた」
少女の目から、再び涙がこぼれた。
「本当に……わたしの声を聞いてくれたんですか?」
「ああ」
もちろん、今まで少女の存在すら知らなかった。
だが、少女の中では、誰にも届かなかったはずの声を聞いてくれていた存在が完成した。
それでいい。
信仰にとって重要なのは、事実ではない。
信じるに足る物語だ。
俺は杖代わりの枝を足元へ置いた。
半透明の板が、俺と少女の間へ現れた。
《信仰路――接続》
【接続信徒】0→1
《最初の信仰者を確認》
《基礎権能――祈願疎通が定着しました》
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