2. 十二と十六
日が落ちかけ、西の空に残った赤も細くなっている。橋板の隙間から吹く川風は、刻むように冷たさを増していた。関守は小屋からのそりと出てくると、どちらにも肩入れしないと示すように、両方の御者を同じ声で追い立てる。
「まあ、橋の上で夜は明かせんのよ。半日西に宿場がある。鹿亭って言えば分かるわ」
「関守どの。この方の荷も、同じ宿へ?」
「まあ、誰と誰が同じ屋根の下で寝るかまでは決めん。ワシは順を決めるだけよ」
アシュレイ様は荷車の奥から一枚の書きつけを抜き取り、こちらへ差し出す。日にさらされたせいか、墨は消え入りそうなほど薄い。送りの目録なのだという。
紙の縁には、手の脂と埃が染みついたような黒い汚れがある。何度も人の指を渡り、そのたびに誰かの行き先を決めてきた紙なのだろう。
わたくしは息を詰めるように受け取り、消えかけた日の光へかざす。文字より先に数字の並びが、見慣れすぎた宮廷の書式そのままに目へ落ちてくる。
「目録には十二とある。渡ったのは十六だ」
関守がわたくしの肩越しに紙を覗き込み、さして驚きもせず鼻を鳴らす。
「まあ、ワシは十二と聞いとったのよ。……十六まで行った。銅貨二枚、損した」
「関守どの。数え違いでは、ないのですか?」
「まあ、賭けとる数は間違えんのよ。……間違えたら、こっちの銭が減るからな」
それきり、関守は興味を失ったように小屋へ戻っていく。戸が閉まる乾いた音だけが、暮れかけた橋に残る。暇な仕事には、他人の荷の数を賭けにするくらいがちょうどよいらしい。
それなのに、誰も目録からはみ出した四つを取りに来ない。
取りに来られなかったのか、それとも、初めから来るつもりがなかったのか。どちらを選んでも、生まれる怖さは同じ形をしている。
馬車は、空がすっかり暗くなってから宿場へ入る。街道の両側に灯が並び、煮炊きの煙と焼いた麦の匂いが窓の隙間からこぼれている。そのどれもが、わたくしの知らない誰かの夕餉を、やわらかな色で照らしていた。
なんだか今は、この暖かな明かりがひどく遠い国のものに思える。
◇
一夜が明けて、鹿亭の土間に四つの櫃を並べる。鹿亭は街道に面した二階建てで、朝から人の出入りが絶えない。土間は荷車を引き込めそうなほど広く、四つを置いても、まだ人がゆったり通れる。
梁が低いため、日が高くなっても奥までは光が届かない。獣脂の灯は一つきりで、炎が揺れるたび、櫃の影が壁の上で息をするように伸び縮みする。煤と干した草と麦を煮る湯気の匂いが、低い天井の下に重くたまっている。
卓では、荷を運ぶ仕事の男たちが、木のさじを器に当てる音を立てながら麦の粥をすすっている。宿の主人はその向こうで薪を割り、乾いた音が響くたび、わたくしの肩がわずかにこわばる。誰も、わたくしたちを見ない。その無関心に救われながら、同じだけ取り残された気もしていた。
蓋を開ける。まず目に入るのは、光を吸い込むような黒の布。その下には黒の紗。指を滑らせても、糸の目が細かすぎて、指先はどこにも引っかからない。さらに奥には、蝋燭が束のまま静かに収まっている。
蝋の匂いは、土間の冷えの中で場違いなほど甘い。祝いの日にも葬いの日にも、同じ蝋を焚くのだと、いつか誰かが言っていた。その声の主は思い出せないのに、言葉だけが今、耳の奥にはっきり戻ってくる。
「あれは、この櫃に入っていた」
アシュレイ様が指すのは、いちばん端に置かれた、何も入っていない櫃である。昨日わたくしが受け取った紙は、この櫃から出たらしい。中身のない暗がりが、ほかの櫃よりも深く見える。
乳母のエッダが紙を横から覗き込み、汚れを避けるように指を滑らせる。しわの寄った指先が、ある箇所でぴたりと止まる。
「……これは、あたくしが取った寸法です」
「同じかどうか、確かめられますか?」
「採寸帳を出してまいります。断じるのは、それからにさせてくださいましね」
「エッダ。急がなくてよいのです」
この人は、針を持っていないと口まで止まる。いつもなら笑ってしまうその癖が、今日は息を細くする。わたくしは櫃の縁に手を置き、木の冷たさへ逃げるように指へ力を込める。
「そなたは、一年と聞かされたか?」
土間の隅から、アシュレイ様の低い声が届く。問いかけは静かなのに、麦の粥をすする音まで遠のいたように感じられる。
「はい。一年、耐えればよいと」
「誰が言った?」
「父も、姉も、叔父も。……皆、同じ言葉でした」
「和平の条件が決まったのは、芽の月だ。……そのときから、この四つは仕立てられていた」
わたくしは黒の紗を畳み直す。何かを考えれば指が震えそうで、心を置き去りにしたまま、手だけが勝手に角を揃えていく。
「お姫様。その紗は、喪の重さで織ってございますよ」
「……重さ、ですか?」
「軽いのが祝いの紗。喪の紗は、風に持っていかれぬよう、少しだけ重く織るのでございます」
畳んだ紗を櫃へ戻す。指を離しても、手のひらには布の重さがたしかに残り、見えないものを載せられたように沈んでいる。
風に持っていかれぬように、と誰かが考えた。その誰かは、わたくしの寸法を知っている。肩の幅も、腕の長さも、わたくし自身より正しく知っているのかもしれない。
知っているだけではない。わたくしが立って着る布と、横になって収まる箱を、同じ考えの中で続けて思い浮かべられる人である。その想像の中では、わたくしはもう声も息も持っていない。
国王だった男は荷車の脇へ立ち、自分の供の者を一人だけ残らせる。残りは東へ帰すという。命令を告げる横顔に迷いはなく、それがかえって、戻る場所を捨てた人の顔に見えた。
「余は――いや、私は、今日から姫様の従者です。名はアシュ。それでよろしいか?」
「よろしくは、ございません。……ですが、そうしていただきます」
「姫様。……その紙は、姫様がお持ちください。私が持てば、私が仕立てたことになる」
紙を腰の物入れへ収める。押し込んだ指には手応えもなく、厚みなど、ほとんど無い。
これほど軽いものが、わたくしの残りを全部決める。そう思った途端、指先から細いしびれが走り、手首の内側へゆっくり広がっていく。
物入れの革は、母の代からのものだと聞いている。母の顔は覚えていない。覚えていない人の遺したもので、わたくしは自分の命を運んでいる。そのことが、今だけは妙に心細い。
ラルフは鞘に手を掛けたまま、低い梁をにらむように天井を見上げる。こらえた息が、喉の奥でかすかに鳴る。
「確認します。国王陛下が、従者に、なる。……無理があります」
「国王陛下は、霜の月六日で終わったと確認しましたわ」
「終わったと仰るなら、証書は自分が預かるべきであります」
「預かってくださって構いません。ただ、預ける以上、文句は止めなさい」
すると、土間の脇から、小柄な娘が影ごとほどけるように、ひょいと降りてくる。干し杏を頬張ったままで、わたくしの隊の外套を勝手知ったように着込んでいる。
「あのぉ、ちょっといいですか?」
一斉に目が向いた。
「あたし、ネル。姫さんの供って言われて連れてこられたやつ」
「侍女ではないのですか?」
「侍女じゃないよ。違う違う。……万一のときに、姫さんの代わりになる係。あたし、代わりなんだって」
「万一って……一体何なのです?」
「知らない。知らないってば。ただ、背丈が合うからって選ばれたの」
ネルは干し杏の袋を両腕に抱えたまま、土間の隅を顎でしゃくる。袋の中で、乾いた実がかさりと鳴る。
一同お互いに顔を見合わせた。知らない所で知らない計画が着実に進んでいたのだ。
「ねえ、そこのでかいの。あんた、ほんとに王様だったの?」
ネルは好奇心のままに話しかけてくる。
「王であった、と言うほうが正しい」
「ふうん。じゃあ、いまは何? いまは?」
「荷を一台ぶん、余計に運んできた男だ」
「ふうん。……じゃあ、でかいのでいいや。でかいの。キャハッ!」
軽口が、土間の冷えと一緒に足首へまとわりつき、骨の内側をゆっくり這い上がってくる。
背丈が合う娘が、なぜ要るのか。誰も、そこまでは説明しなかった。
わたくしの代わりが用意されている。用意した人は、わたくしが要らなくなる日を、わたくしより先に見据えている。
言葉にすると簡単で、あまりに簡単すぎて、意味だけが遅れて刺さる。喉が狭まり、しばらく息の吸い方を忘れる。
それでも、この娘を責める気にはなれない。ネルもまた、人としてではなく背丈として誰かに数えられ、ここへ連れてこられた側なのだ。
従者のゲッツが戸口から入ってくる。外気の冷たさを肩にまとい、指を三本立てて、まっすぐこちらへ向ける。
「三点。一、騎馬。二、六騎。三、旗なし」
窓の外、宿の前の轍の上に、六つの影が止まっている。馬の吐く息だけが白くほどける。降りもせず、入りもせず、こちらが動くのを待つように、ただ止まっていた。
ラルフが音を立てず窓へ寄り、しばらく数える。やがて口元を硬くし、息を抑えるように低く告げる。
「確認します。自分の隊ではありません」
橋の繋ぎ場の隅で、わたくしが供の一部だと思い込み、目を留めなかった六つが、いま同じ間隔のままそこにいる。昨日の景色が、急に別の顔へ裏返る。
供ではなかった。では、あれは何なのか。知らなかったものが、ずっとそばにいたという事実だけが冷たく残る。
わたくしは答えを知らないまま、宿の灯を落とさせる。火が消えると、土間にいた誰もが息を潜め、外の気配だけが急にはっきりと形を持つ。
闇の中で、外の馬が一度だけ鼻を鳴らす。湿った息まで戸の隙間から届きそうなほど、その音は近い。誰も動かないのに、逃げ道だけがゆっくり狭くなっていく。




