1. 待たせ橋
境の橋は、馬車一台ぶんの幅しかない。肩を寄せる余地さえなく、乗り入れたなら、向こうへ抜けるか、来た道を戻るしかない。
長さは四十歩。欄干は下流側にだけ残り、上流側には無い。三年前の増水で流されたきり、まだ直っていないのだと聞いている。
その一車線へ、わたくしを乗せた馬車がゆっくり乗り上げる。ごとり、ごとりと石畳が車輪を打ち、そのたび揺れが座席から背へ、腹の底へと沈んできた。
「あちゃー……。向こうから、来ております」
御者の声に、窓から首を出す。川風が頬をさっと撫で、髪の隙間から耳まで入り込んだ。冷たい。
アルド川の水は、冬のあいだだけ色を失う。灰に近い緑の流れが、曇り空を映して鈍く光り、音もなく橋の下をくぐっていく。底の見えない水面は、どちらの国にも顔を向けず、ただ流れている。
向こう岸から、馬車が一台、こちらへ鼻先を向けて乗り入れてくる。磨かれた車体の金の飾りが、冬の薄い日を鋭く跳ね返し、目を細めても、その輪郭だけは近づいてくる。
橋の西のたもとから、関守がのんびり歩いてくる。革帯を締め直しながら、あくびを噛み殺していた。国の行く末も、人の縁も、この男には朝の眠気ほど重くないらしい。
「まあ、規則は規則よ。橋は一車線。先に乗った方が渡り切る」
関守はわたくしの窓を覗き込み、眠たげな目だけで笑う。困っているのはこちらなのに、面白いものを見つけた顔である。
「まあ、お客人。面倒なことになったな! この橋はな、地元じゃ待たせ橋と呼ぶのよ。片方が渡り切るまで、もう片方は待つ。だが、同時だった――――」
一車線の石橋の真ん中で、二台の馬車が鼻先を突き合わせたまま止まっている。馬たちの白い息が触れ合ってはほどけ、その下では川だけが、何事もないように流れていく。
「こんな時期に東と西から一台ずつ来て、橋の真ん中で止まる。……こんな日は、そうそう無いのよ」
霜の月十一日。そうそう無い日に、わたくしは当たったらしい。婚礼へ向かう日としては、少し縁起の悪い当たりである。
わたくしはアルンを発って六日、この橋を渡るためだけに馬車へ揺られてきた。渡り切れば、わたくしはもうヴェルゼの王女ではない。そう聞かされ、そう納得した顔をして、婚礼衣装も靴も、荷はすべて自分で詰めた。
けれど、納得というのは、たぶん、正しい言葉ではない。断ったあとに何が残るのかを考えて、ただ、断る手立てを思いつかなかっただけである。
向こうの窓が、かすかにきしんで開く。
わたくしは声を上げる――――。
「「なぜ、こちらへ?」」
声がぴたりと重なった。わたくしと、向こうの人と、同じ問いを、同じ間で口にしたのだ。あまりに同じだったため、自分の声が川向こうから返ってきたようで、息がわずかに止まる。
窓枠に肩がつかえるほど背の高い男が、目を細めてこちらを見ている。旅の疲れを隠さない顔で、わたくしの馬車と衣装を見比べ、何かを悟ったように口を開く。
「余は、アシュレイ・カルディア」
その名は知っている。わたくしが嫁ぐことになっている国の、王の名である。けれど、名が人の姿を持つとは、今の今まで考えたことがなかった。
絵姿を見たことは一度も無い。和平の条件が決まった日から、名前だけを小石のように頭の中で転がしてきた。冷たく、硬く、こちらの呼びかけには決して答えない名前である。
「……カルディア王国の、国王陛下?」
「霜の月六日までは、な。王位は弟に譲った。余は今日から亡命者だ」
護衛のラルフが馬を静かに寄せてくる。鞍の上で、いつも真っすぐな背筋がひとつ、さらに強く伸び、手綱を持つ指に力がこもった。
「確認します。敵国の王が、国を捨てて、こちらへ来る。……順序が、逆であります」
男は懐から羊皮紙を取り出し、ためらいなくこちらへ差し出す。わたくしも手を伸ばした。橋の上の隙間を越えて渡された紙は、思いのほか軽い。
指先に封蝋の丸みが当たる。硬く、少し粗い。冬の紙は、触れたところから容赦なく熱を吸い、手の中でじわじわと冷たさを増していく。これは噂でも名前でもなく、たしかに誰かが王位を手放した重みなのだ。
「譲位の証書だ。封は割れておらぬ。裏に、弟の受領印がある」
裏返すと、朱の印がある。白い紙の上で、そこだけが乾いた血の色に見える。
書式も、綴じの糸の色も、わたくしが宮廷で見慣れたものと同じ順に並んでいる。偽物なら、こんな地味なところまで揃えない。役に立つ日など来ないと思っていた宮廷の知識が、初めてわたくし自身のために答えを出した。
「……正規の手続きで、お譲りになったのですか?」
「そうだ」
「国庫は?」
男は指を軽く振り、馬車の荷台を示す。磨かれた外側とは裏腹にすかすかで、金目のものはそこに一つも積まれてないように見える。
あれだけ立派な馬車に、あれだけの空。見つめるほど、華やかな飾りが空っぽを縁取っているように思え、背中がすうっと寒くなる。王位を置いてきた人の荷台は、こんなにも静かなのか。
「国庫のものは、糸一本も積んでおらぬ。……この手に持って出たのは、証書が一通と、まだ出しておらぬ手紙が一通。あとは羽根ペンが一本だ」
「……羽根ペン、ですか?」
「削り直しの利くやつだ。八年、使った」
わたくしは証書を返す。返す手は思ったより落ち着き、指先さえ震えていない。そのことが、自分のことなのに少し不思議だった。心だけが、まだ橋の手前に取り残されているのかもしれない。
手はいつも、心より先に納得する。乳母に針を持たされた日から、ずっとそうである。泣き方を覚えるより先に、糸を結び、布を畳み、言われたとおりに動くことを覚えた。
「弟御に、追われて?」
「いや。譲位の翌晩、余の寝室に人が入った。それだけだ」
男は苦笑いしながら肩をすくめる。
喉の奥が、すっと冷える。井戸から汲んだ冷たい水へ顔を寄せ、飲まずにその冷気だけを吸い込んだときの感覚に似ていた。寝室に入った人が何をしに来たのか、尋ねなくても分かってしまう。
男の背後、馬車の後ろには、荷車が一台つないである。豪華な馬車とは不釣り合いな粗い幌が風にはためき、その下から、櫃の角が四つ覗いている。
「……いつ、ケーレをお発ちになったのですか?」
「霜の月七日の夜だ。余の物ではない荷が、四つある。それを送りの目録ごと荷車へ積んで出た。……中身はそのままにしてある。一枚だけ、抜いた」
「……一枚、とは?」
「霜の月五日、櫃を開けたその場で見つけて、そのまま懐へ入れた。誰の手にも渡しておらぬ。……いまも、余の懐にある」
この人は、まだ何の話をしているのか言わない。数と日付だけを、確かめるように順に並べていく。数を数えているあいだは何も崩れずに済む――そのやり方に、わたくしは覚えがある。
「では、わたくしはどこへ嫁げば?」
男は、すぐには答えない。目を逸らしもしない沈黙が、行き先などもう無いのだと、言葉よりはっきり教えてくる。
橋の西のたもと、繋ぎ場と呼ばれる石畳の空き地に、わたくしの持参金が停まっている。荷馬車で八台。布と銀器と馬で、金貨八千枚に相当すると聞かされてきた。冬の光の下で、幌を連ねた列だけが妙に整いすぎて、売り物の札を下げた荷のように見える。
わたくしの値段である。人として何を望むかは誰にも尋ねられなかったのに、値段だけはきれいに数え上げてもらった。後にも先にも、この一度きり。
関守が、たいしたことではないように顎でそれを示す。
「まあ、そこの八台な。橋を渡ったら受領よ。渡ってないなら、まだ受け取られておらんのよ」
繋ぎ場の隅には、旗を持たない騎馬が六つ停まっている。冬の風に揺れる印もないため、供回りの誰かなのだろうと思い、わたくしはそれ以上目を留めなかった。
「そなたは、何と聞かされて来た?」
父の声を思い出す。あの日も、わたくしの返事を待つ間はなかった。わたくしは、父の言葉をそのまま返す。
「よい縁だ、と」
「……そうか」
頭の中で、荷を数え直していた。婚礼衣装がひと櫃。靴が二足。櫛がひとつ。衣装の刺繍も、靴の留め金も、櫛の歯も思い浮かべられるのに、そのすべてを運ぶ行き先だけが無い。
それでも数えるのをやめられない。数えているあいだは、数の外にあるものへ手を伸ばさずに済むからである。名前を付けなければ、痛みはまだ痛みにならない。
櫃の中身なら、足りない物は空いた場所が教えてくれる。人の一生は、そうはいかない。
馬車を降りる。裾を払って石橋へ足を置くと、靴の底を通して、石の冷えがゆっくり上がってきた。風にさらされた足元から、ようやく自分の体がここにあるのだと知らされる。
三番目のわたくしに用意されていた行き先が、たった今、目の前で消えている。悲しいのか、怖いのか、それとも少しほっとしているのか、自分でもまだ選べない。
姉が二人。上から順に、いい縁へ嫁いだ。三番目に残ったのが敵国だったのは、順番の話であって、わたくしの話ではない。名前より先に、空いた場所へ置かれただけのこと。
だから、こうなっても不思議ではないのだと思う。もともと、誰の代わりにでもなれる位置に置かれていた。そう考えれば、喉まで上がってきたものを、また静かに押し戻せる。
「わたくしの嫁ぎ先が、消えました」
ラルフが息を呑む。その小さな音が、川音より近く、責める言葉より重く耳へ落ちる。
「……では、代わりに、この方を貰い受けます」
橋の上の全員が、しばらく黙った。馬の鼻息も、革のこすれる音も遠のき、川音だけが下から上がってくる。灰に近い緑の水が、わたくしの言葉をどちらの岸へも運ばず、橋の下へ連れ去っていく。
「殿下。確認します。……いま、何と仰いました?」
「聞こえたとおりです、ラルフ」
声が震えなかったのが、自分でも可笑しかった。震えるのは、失いたくないものを持つ人なのだろう。わたくしには、守りたい行き先も、選んだ明日も、まだ何もない。
「確認します。貰い受ける、とは。……その方を、どうなさるおつもりでありますか?」
「分かりません。ですが、ここで置いていけば、わたくしは手ぶらで帰ることになります」
ラルフが何か言いかけ、固く結んだ口の中へ飲み込む。手綱の革が、握られた手の中でかすかに鳴る。
「……手ぶらでは、いけないのでありますか?」
「ええ。手ぶらで帰った三番目の娘には、次の使い道が要りますでしょう?」
男が馬車を降りる。長い脚が石へ着き、上着の裾が冬の風をはらんだ。その指の腹には、インクの胼胝がある。剣を握ってできる手ではない。国を手放した人の手が、ひどく地道な仕事をしてきた手に見えた。
その手が、懐から一枚の紙を抜く。二つ折りの、薄い紙である。証書よりずっと頼りなく見えるのに、男の指は、その紙だけを手放すまいとするように端を押さえている。
「その前に、これを見てもらう」
「……何でしょうか?」
「そなたの寸法だ」
風が、紙の端を乾いた音で鳴らす。白い紙だけが、わたくしの代わりに震えている。
「婚礼の支度に紛れて、四つ多く届いた。……花嫁より先に、花嫁の喪服がな」




