第89話 理解不能
言動がイかれているだけの、ただの傲慢な男……そう思っていた。
他の有象無象の冒険者たちと全く同じ、口だけは達者で、防具の服の下に醜く膨れ上がった欲望を隠し持っているだけの、吐き気のする傲慢野郎だと信じて疑わなかった。
仮に少しばかり人並み外れた腕が立ったとしても、精々が地上の書類に登録されているBランク程度。
『魔物呼び込み君』のスプレーの芳香によって理性を完全に破壊され、殺到するこの圧倒的な数の暴力の前には、何一つ成す術もなく無力に食い散らかされるだけだと、完全に高を括っていたのだ。
あの日、アミとノルンを物のように奪い去ったあの夜の男たちのように、無様に泣き叫びながら死んでいく地獄絵図を、ただ上から見届けるはずだった。
だが、このアロンという目の前に存在する怪物は、ミカの想定していたそんな生温かい次元には、最初から断じて存在していなかった。
凄まじい肉の破裂音とともにドス黒い体液を四方へと激しく吹き出し、まるで子供の泥遊びのおもちゃのように一瞬でバラバラに解体されていく、百を超す獰猛な魔物の群れ。
松明の不気味に揺れる橙色の火光を向けているミカには、その中心に佇むアロンが、一体何の魔法を、どのような手順で使用しているのかさえ、全く判別がつかない。
その光景を見つめる彼女の脳内は、未だかつてないほどの激しい困惑とパニックが引き侵されていた。
どれほど目を凝らして観察を試みようとも、眼下で繰り広げられている理不尽な破壊の真理は、1ミリたりとも理解することができない。
ただ、アロンの周囲を包囲したその瞬間に、狂暴化した魔物たちが何の前触れもなく突然、格子状に細切れにされていく。
大気そのものを鋭利な刃に変え、斬撃のようなモノを音速で四方へと飛ばす魔導の術式なのか。
アロンの身体に近づいたモノすべてに自動で反応し、その肉体を一瞬で粉砕する、極大のカウンター魔法の領域なのか。
それとも、この無明の層に巣食う最凶の暗殺者『闇に潜む者たち』と同じように、姿も見えぬ不可視の概念そのものを操っているのか。
分からない。頭の奥が真っ白に完全にフリーズして、何も、読み取ることができない。
これまでの十ヶ月間、どんな手練れの冒険者が来ようとも、事前の構造をすべて把握している自分が不意を突き、確実にその命を間引いてきた。
それなのに、あいつの周囲で猛り狂う不可視の斬撃の嵐の前には、自分の培ってきたすべての経験が、計算の手順が、まるで最初から無意味であったかのように綺麗に更地へと整形されていく。
アロンは何か特別な呪文を唱えたわけでも、大層な魔導の予兆を見せたわけでもない。
ただそこに佇んでいるだけで、殺到する津波のような群れが、一方的に塵へと変えられていく。
そのあまりの理解不能さに、ミカの喉はカラカラに干からび、心臓の奥が激しい戦慄でドクドクと不快に脈打ち続ける。
これまでどんな実力者が来ようとも、その思考の隙を見逃さず、大穴の罠へと叩き落してきたミカの常識のすべてが、謎の力の前では何一つとして通用せずに粉々に踏み潰されていく。
呼吸の仕方が分からなくなるほどの猛烈な戦慄が、這いつくばる彼女の全身の皮膚をガタガタと激しく襲う。
これほどまでの不条理を前にして、ミカは、なにをすればいいのか────
まったくと言っていいほどわからなかった。
脳内がパニックを起こして決壊し、肺が冷たい空気を虚しく繰り返すだけの静寂の真ん中で、彼女の五感はただ圧倒的な無力感に押しつぶされていた。
だが、ただ一つだけ、彼女の壊れた魂が震えるほどに、明確に理解できることがある。
そのアロンの放つ『魔法』の殺傷能力は、人間の常識を遥かに超越して、常軌を逸している……
そのあまりにも冷酷で、あまりにも圧倒的な理不尽の事実だけが、消えない焼き印のようにミカの脳裏に焼き付いていた。
自分のすべてを懸けた復讐が、一瞬で踏み潰された圧倒的な理解不能な恐怖の前に、彼女はただ松明の手を震わせながら、息を詰まらせてその異次元の戦場を見つめていることしかできなかったのだった。
床に散乱した魔物の肉片から立ち込める濃厚な血の匂いだけが、目の前の光景が夢でも幻でもない絶対の現実であることを、彼女の歪んだ心へと残酷に突きつけていた。
第90話は、土曜日の【 12時40分 】に投稿いたします。
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それでは、明日の更新でお会いしましょう。




