第88話 意味不明
「終わったな……」
アロンが、自らの衣服の袖口を何事もなかったかのように無造作に整えながら、低く落ち着いた声音でそう呟いた。
その佇まいには、魔物の巨大な群れをたった一人で屠り尽くした直後だというのに、衣服の乱れも、息の上がりも、激しい疲弊の色も見当たらなかった。
絶え間なく放たれる不可視の斬撃の嵐によって、迫り来る怪物のすべてを空間ごと無差別に細切れにしてみせた彼の肉体と衣服は、至近距離で爆ぜた魔物たちのドス黒い返り血を文字通り全身に浴びて、禍々しく真っ赤に染め上げられていた。
だが────そのあまりにも凄惨な返り血の嵐の真ん中にいながら、リンカの肉体と衣服には、魔物たちの放ったドス黒い汚液の一滴すら、かかってはいなかったのだ。
自分がどれほど血に塗れようとも、隣にいるリンカの髪の一房、衣服のひとひらすらも絶対に汚させはしないという、あまりにも精密で理不尽なまでの圧倒的な戦闘の制御。
戦場に立つ強者としての焦りや高揚感などそこには欠片もなく、ただ淡々と、当たり前の日常の動作をこなすかのような圧倒的な余裕が、その静かな佇まいから重重しく満ち溢れていた。
「魔物の死体だらけだ……これ、全部の素材を集めたら中々の金になりそうだな」
リンカが、自分の足元にそれこそ数え切れないほどの山となって転がる、格子状に細切れにされた魔物たちの凄惨な死骸を眺めながら、どこまでも呑気にそのお気楽な言葉を重ねる。
ついさっきまで大穴の底の空間のすべてを支配していた、おぞましい魔物の咆哮や地鳴りのような足音。
それが嘘のように完全に消え去り、濃厚な血の匂いだけが重苦しく停滞する地獄の底で繰り広げられる、あまりに場違いな二人の日常の会話。
ミカは、その光景をただ、言葉を失って唖然としてその場に立ち尽くすしかなかった。
松明を掲げるその細い指先が、あまりのパニックと戦慄によってガタガタと激しく震え、橙色の不気味な炎が暗闇の中で歪に激しく揺れ動く。
火光が揺れるたびに、床に転がる魔物の細切れの肉片がぎらぎらと不気味に浮かび上がり、彼女の瞳を狂わせそうになっていた。
無理もない。
彼女はこれまで、ギルドが探索禁止を発表する前から数ヶ月間、何十人ものエリート冒険者がこの無明の層に足を踏み入れようとも、この大穴と『魔物呼び込み君』を組み合わせた絶対の策で、確実に一人残さず絶望の底へと葬り去ってきたのだ。
その死体の山の中には、地上の歴史ある名門である剣聖の末裔を名乗る高名な腕利きもいた。
ギルドに登録されているBランク冒険者の中でも、自分は頭一つ祭り上げられた「上澄み」の強者なのだと鼻高々に豪語する、本当の実力者たちも大勢いた。
……しかし、そのすべての傲慢な冒険者たちが、自らの持つ力に溺れて他人を踏みにじることしか頭になかった者たち全員が、ミカの仕掛けたあの絶対の闇の中で五感を完全に奪われてパニックに陥り、魔物の鋭い牙にその肉を貪り食われて、無様に泣き叫びながら死んでいったのだ。
どんな手練れであっても、ミカが何ヶ月も何年間も爪を割って血を滲ませ、冷たい石の壁に額を押し当てながら構築してきた、最恐の冒険者殺しのシステムの前に、その命を綺麗に間引かれていった。
それが、彼女がアミとノルンの復讐のために、これまでの人生のすべてを捨てて掴み取った絶対だったはずだった。
しかし……
「ど、……どういう……こと?」
パニックで引き攣った喉の奥から、空気の抜けるような細い掠れた声がポツリと漏れ出た。
あまりの恐怖に心臓が破裂しそうなほどの勢いで激しく脈打ち、頭の芯が真っ白に完全にフリーズして、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。
目の前に立つアロンという一振りの刃さえその手に持たぬ男……
ミカが自分のこれまでの人生のすべてを懸けて、アミとノルンのために必死に積み上げてきた『冒険者殺しの常識』のすべてを、ただの幼児の泥遊びのおもちゃを踏みつぶすかのように、完膚なきまでに木っ端微塵に粉々に破壊した。
なぜ、悪夢たちをゴミのように屠れるのか。
どうしてそれをただ淡々と、一撃で細切れにできるのか。
いくら頭を動かして理由を探ろうとしても、ミカの辿り着いた絶対の結論のどこをどうひっくり返したって、目の前の理不尽な暴力を説明する言葉なんてどこにも見当たらなかった。
自分の世界のすべてが音を立てて崩壊していく圧倒的な理解不能な恐怖の前に、彼女の精神は完全に空っぽになり、ただただ息を詰まらせて、その理解を拒絶する異次元の戦場を、ただ生々しく見つめていることしかできなかった。
第89話は、【 17時10分 】に投稿いたします。
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それでは、次の更新でお会いしましょう。




